城データ
城名:米山城
別名:結城城、米山要害
標高:273
比高:20m
築城年:不明
城主:天野氏
場所:広島県東広島市志和町志和東
北緯:東経:34.469750/132.677882
攻城記
道からすぐに分かる小ぶりな城。
用水路らしきものがある。
山頂からの風景。
曲輪内部に進む。
散策はしやすい。
思ったよりも比高があり攻めるのは容易ではないかもしれない。
下から臨む。
矢竹。
道路側ではなく反対方向から。
open-hinataより【米山城】
余湖図【米山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【米山城】
拡大図
城の概要
基本的には二つの郭からなり,その周辺に小郭が付属する。
。
1郭は山頂部の37×27mの長円形の郭で南側から下に延びる通路があるが,その通路に接して1郭内の1/4が桝形状に窪んでいる。
畑になっていた時期があるということなのではっきりしないが,ここに桝形があった可能性がある。
南側通路を下ると帯郭があり2郭と接しているが土塁によってさえぎられており,1郭と2郭は直接連絡していない。
1郭と2郭との連絡は南側通路を下り,現在崩落している部分で2郭南端から下る通路と連絡していたと考えられる。
1郭と2郭の比高は約6mで,各々が独立した存在と考えたほうが良いかもしれない。
丘陵北端は2郭との比高約8mで小郭があり,その北には堀切がある。
本城跡は、志芳東天野氏が南北朝期に築いた城と伝えられる。
天野氏は早くから大内氏方に属していたが、1523(大永3) 年に,鏡山城落城後一時尼子方についたため,1525(大永5)年に陶興房を将とした大内軍に米山要害を攻められ,同年,当知行分安堵と米山要害引渡しで和睦し,再び大内方に降りた。
その間,杉因幡守と弥富依重が在城したことが知られる。
その後,1528(享禄元年)に当城は天野氏に返還され,1570(元亀元) 年には毛利元政が入城している。
なお,本城は『中書家久君上京日記』によって1575(天正3)年までは存在したことがわかる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
米山城
米山城は、水田の中に独立した東西に細長い小規模な丘陵を利用して築かれ た天野氏の居城である。
天野氏は藤原姓で、治承四年(一一八〇)に源頼朝が挙兵した時に遠景がこれに従って戦功をあげ、四代遠顕は志芳荘東村(志和町志和東一帯)の地頭職を得た。
そして五代顕義は母の聖円尼からこの地の地頭職のほか、美濃国・武蔵国などの所領を譲り受け、志和に来住して米山城を築いて初代となった。
この天野氏は、のちに生城山城を本拠とすることから生城山天野氏と呼ばれ、 堀村の財崎城の天野氏と区別されている。
八代興次は、父弘氏から他の所領と共に志芳荘一円の地頭職を譲り受け、将軍足利義尚から安堵され、以後、大内義興に従って戦功を立てた。
九代興定は、永正十五年(一五一八)から同十七年頃に家督を相続したとみられるが、大永三年(一五二三)に出雲の尼子経久が大内氏の直轄領で安芸国の経 略の中心であった鏡山城(東広島市西条町)を攻撃して落城させた。
このため興 定は、他の諸氏と共に尼子氏に従うこととなった。翌四年、大内義興は勢力の回復をはかるため、嫡子義隆と共に陶興房・弘中武長らを従えて安芸国の各地に来攻した。
大永五年四月、陶興房は 広島湾頭の矢野に上陸し、 六月には西条盆地に入って天野興定の拠る米山城を取り囲んだ。
米山城のあった所は急峻ではあるが、比高がなく、小規模な独立丘陵 であるため、包囲されると食糧・飲料水・人員の補給が困難となり、落城寸前と なった。
この時、尼子氏と手を切って大内氏に従っていた毛利元就が和議を勧めた。
興定はこれを受け容れ、 元就に対して互いに助け合 うことを誓約した起請文を差し出し、米山城を大内氏に明け渡した。
その後、興定は大内方として安芸郡熊野や瀬野川下流の阿曾沼氏の拠城である鳥籠城の攻略に戦功を立てたので、米山城は享禄元年(一五二八)に興定に返還された。
興定は、米山城の西北方二・五畑の峻嶮な生城山山頂に城を築いて本拠としたが 米山城はその後も居城として使用されていた。
天文九年(一五四〇)に尼子晴久が毛利氏の拠城である郡山城を攻撃したが、 定は弟の興与と共に毛利方として郡山城に入って戦い、また、翌年の武田信実の拠る銀山城攻撃にも参加している。
興定は、この年、六十六歳で死去し、 嫡子隆綱が天野家を相続したが、弘治元年(一五五五)に隆綱が病死すると、弟 の元定が相続した。このあと、元定が永禄十二年(一五六九)に病死すると世嗣をめぐって内紛が起こり、毛利元就の七男元政が養子に入って天野氏を継ぐこ ととなった。
以後、天野氏は実質的には毛利氏の一支族として存続することに なり、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦に敗れた毛利氏が防長に移封となった時、一万五千余石から四千二百石に削減されて転出した。
米山城の本丸は四三m×二〇mで、丘陵西端の頂上に置かれ、南と北郭を設けている。
その本丸の東側に、長さ六五m、幅八~二〇mの細長い二の 丸がある。
本丸から二の丸へは本丸南側の腰郭で連絡され、この腰郭の二の丸 側の端には土塁が設けられている。
また、本丸から二の丸の北斜面に四つの小 郭が設けられている。
当時の大手は尾根が下る東端にあったとみられるが、現 在は崩落して明瞭でない。
ただ東端の三の丸が崩壊状態だが、一部残っている。 なお、城の北側には東川が流れ、南側にも小川が流れていて濠の役目を果たしているが、東川の濠としての効果を高めるため、川を曲折させて城山に接近し て流れるようにしているのは興味深い。
『日本城郭大系』13より引用。
【城 史】
米山城を築いた天野氏は伊豆国天野郷を名字の地とする東国御家人で、頼朝の側近で鎮西奉行を務めた天野遠景の後裔である。
その系譜や志芳庄への土着の過程は不明な点が多い。
鎌倉時代後期には、志芳西村に入った天野氏が、東寺と荘園支配をめぐって争っている。
その後、志芳庄に土着した天野氏は、志芳東天野氏、志芳西天野氏、志芳堀天野氏の三系統に分かれる。
米山城を築いたのは志芳東天野氏である。
志芳東天野氏は、室町時代 には概ね隣接する東西条の大内氏と良好な関係を保った。
永正九年(一五一二)、天野興次は、安芸国の有力国人八家と一揆を結んだ。
研究史上著名な「永正の安芸国人 一揆」である。
米山城の築城の時期を示す史料はないが、その史料上の初見は大永五年(一五二五)である。
大永三年(一五二三)、尼子経久に鏡山城を落とされた大内義興は、重臣陶興房を総大将として反撃に出、大永五年六月、天野氏の米山城を包囲する。
天野氏は毛利元就の仲介で大内氏に降伏し、米山城は大内氏に接収された。
城が大内氏から返還されたのは享禄元年(一五二八)のことであっ た。
米山城はその後も天野氏の本城として使用され、元亀元年(一五七〇)には、毛利元就の七男元政が天野家の養子として入城している。
『安芸の城館』より引用。
城の歴史
鎌倉時代:下向する。
明徳元年(1390):天野顕忠が大内義弘から志芳庄東村二分方の安堵をされる。
応永28年(1421):天野顕房が足利義持から志芳庄東村の地頭識を安堵される。
寛正6年(1465):天野家氏が大内政弘から安芸国西条原村内100貫の所領を預けられる。
永正9年(1512):天野興次が安芸国人一揆契状に署名し参加する。
大永3年(1523):尼子経久の安芸国南下により、天野興定がその支配下になる。
大永5年(1525):大内義興の反攻により陶興房により米山城を包囲され降伏米山城は接収される、その後大内方の国衆として忠勤に励む。
享禄元年(1528):忠勤を認められて米山城が返還される。
天文9年(1540):天野興定が尼子晴久の吉田郡山城侵攻時に毛利方に味方する。
天文10年(1541):天野興次が亡くなり嫡子の隆綱が継ぐ。
天文18年(1549):山口で同じ人質であった毛利隆元を義兄弟の契りを結ぶ。
弘治元年(1555):天野隆綱が亡くなり翌年弟の元定が継ぐ。
永禄5年(1562):毛利の出雲遠征に元定も参加する。
永禄12年(1569):天野元定が亡くなり毛利元就の七男である元政が養子となり継ぐ。
城主家系図
城主石高
天野元政領として15,489.304石の所領を得る。
所感
●城の規模は小さく、この城では到底大内軍の攻撃には耐えられない、入部した初期の城か。
●はじめは志芳庄の僅かな土地の地頭であったが最終的には志芳東庄一円の領主となり、最終的には毛利一族となり15,000石余りになる。
●一時的に尼子の支配下に移ったが、毛利元就の斡旋もあり大内氏に帰順、その後の忠勤もあり僅かな期間で米山城も返還される。
●その後生城山城を築城する。
関連URL
大内軍に米山城を接収された時に築城された城か。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/19