城データ
城名:白山城(しろやまじょう)
別名:無し
標高:314m
比高:130m
築城年:1503年に平賀弘保によって築かれる。
城主:平賀弘保
場所:広島県東広島市高屋町白市
北緯:東経:34.453638/132.825909
攻城記
前方の山が白山城。
木原家も平賀家の庶流である。
白山城は、平賀弘保が戦国時代の文亀3(1503)年に築いたとされる城で、それまで本城としていた御薗宇城から拠点を移しました。
この地は、交通の便がよい白市の町を眼下に見下ろせるほか、四方を眺望でき、自然の地形を利用して防御に適した城です。
最高所の郭は、大きく3段に分かれており、その周囲に帯郭がめぐっています。
この郭群から南西に伸びる尾根筋上や南に伸びる尾根筋には大小の郭が広がっています。
光政寺から登っていく。
山の中に進んでいく。
松尾芭蕉ゆかりの石碑。
城域はこのように矢竹が密集してかなり困難な状態。
とにかく進む。
本丸に到着。
何も分からない。
周囲もこんな感じで散策が難しい。
open-hinataより【白山城】
余湖図【白山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【白山城】
拡大図。
城の概要
最高所の郭は大きく三段に分かれ,その周囲に帯郭が廻っている。
この郭群から南西に延びる尾根筋上に郭が延び,南下にも郭群がみられる。
大手は北西下と考えられ,途中にもいくつかの小郭を置いている。
本城跡は平賀氏が築城したと伝えられ,16世紀初頭北東約3kmの位置にある御薗宇城から移ったと伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
【城 史】
白山城は、平賀氏系譜によれば、平賀弘保が文亀三年 (一五〇三)に築城したとされる。
それまでの居城御薗宇城が、比高が低く戦国の争乱に耐えられないというのがその理由である。
系譜以外に史料はなく、築城の年を証 明するものはないが、弘保には、その頃、この場所に城を 築く必然性があったことが知られている。
高屋の南に位置する田万里村は小早川氏の一族小田氏の所領であった。
平賀氏は応仁・文明の乱に乗じて田万里村への侵略を図り、 実力で占拠する。
小田元範は延徳四年(一四九二)、平賀氏の田万里村侵略に対し、幕府に訴えるとともに、田万里村半分を小早川惣領家に譲り、所領の保全を図る。
一方、寛正年間(一四六〇〜一四六六)大内方について小早川本宗家に本領を追われた小早川氏の一族乃美氏の乃美郷復帰を巡って大内氏と小早川氏は交渉を重ねていたが、明応四年(一四九五)、田万里村半分を乃美氏 に与えることで合意した。
しかし、平賀氏の田万里村へ の進出は続けられており、乃美氏の田万里村入部はなかなか実現しなかった。
大内義興は、明応九年(一五〇〇)から文亀元年(一五〇一)頃、平賀弘保の速やかな九州出陣に謝意を示すとともに、田万里村について替地 を用意することを条件に、明け渡すよう理解を求めてい る。
弘保がこれに応じた気配はなく、永正七年(一五一〇)には田万里村で八幡宮の造営を行っていることからすれば、平賀氏の田万里村支配は揺るがなかったのであ ろう。
しかし、沼田小早川氏、大内氏から圧力を受ける中で、田万里村の支配を続けるためには、いざという時、 速やかに兵を出す必要がある。
白山城跡は、高屋保の南東端に位置し、田万里村まで峠を一つ越すだけの距離である。
これが白山城築城の真の理由ではないだろうか。
弘保は、その後高屋保の北部に頭崎城を築城し、嫡男の興貞を入れる。
しかし、白山城も引き続き弘保の居城として使用されたと見られ、天文五年(一五三六)、弘保と興貞の不和に端を発した大内・尼子両氏を巻き込んだ大規模な戦争では、大内方に属した弘保と孫の隆宗が白山城に、尼子氏に属した興貞が頭崎城に分かれて天文十年(一五四一)まで足かけ六年にわたって戦っている。
戦いは大内方が勝利し、平賀興貞は隠居、家督は興貞の 嫡子隆宗が継いだ。
天文十八年(一五四九)、隆宗が備後神辺城攻めの陣中に病没すると、大内義隆は平賀氏の家督相続に介入し、 寵愛していた小早川舟木氏を隆宗の養子として押し込み、 頭崎城に在城させて隆保と名乗らせる。
平賀家では隆宗 の弟を後継候補としていたため、当然反発したと見られ、 大内氏は白山城に城番を送り込み、平賀氏を抑え込んだ。
大内義隆滅亡後、隆保は毛利元就に滅ぼされ、平賀家は隆宗の弟広相が継いだ。
その後、白山城は関ヶ原の戦い で平賀氏が高屋を去るまで居城として活用された。
『安芸の城館』から引用。
城の歴史
文亀3年(1503):平賀弘保によって築城される。
永正9年(1512):安芸国人一揆契状に参加する。
永正15年(1518):庶流であった入野保継が小早川氏に寝返る、これを弘保、興貞親子が速やかに制圧する。
※入野家は興貞の弟の貞景を入れる。
大永3年(1523):尼子経久の南下に伴い平賀氏も尼子氏に付き従う、鏡山城の戦いにて戦功を立てる。
※この年尼子経久から久芳保・寺町など600貫余りの地を与えられる。
大永5年(1525):大内義興が鏡山城奪取の為に安芸国に侵攻し、尼子側であった平賀氏を攻めるが守り切った。
享禄5年(1532):大内氏側の志芳東村の石井元家が平賀氏被官の桧山十郎左衛門を討ち取る。
このころ、弘保は大内氏に帰順する。。
天正5年(1536):弘保と息子の興貞が大内、尼子に分かれて戦を起こす。
この頃、白山城には大内の城番が入る。
天正10年(1541):弘保、隆宗が勝利して興貞は隠居してその後家督を隆宗が継ぐ。
天正18年(1549):隆宗が備後国神辺城を攻城中に病没する(享年26歳)、大内義隆が強引に家督を小早川船木氏を隆宗の養子として隆保を名乗らせる。
天文20年(1551):大内義隆が陶晴賢の謀反で殺害、この機に乗じて陶川であった毛利元就に攻められ隆保は自刃、家督は隆宗の弟である広相が継ぐ。
天文21年(1552):興貞が亡くなる(享年55歳)
弘治2年(1556):元相が生まれる。
永禄元年(1558):弘保が亡くなる(享年84歳)
永禄10年(1568):広相が亡くなる(享年40歳)
城主家系図
城主石高
平賀氏の所領として14,251.652石とある。
また平賀太郎佐衛門として427.826石あるが誰かは不明。
※隆宗が太郎左衛門であるが当時すでに亡くなっている。
所感
●中世山城として大内軍に攻められても耐えた城であり見ごたえあるが、全山藪化しており詳しく分からない、整備して欲しい城。
●城下町として白市もあり、当時から発展していたものと考えられる。
●親子の不和で大内氏と尼子氏に分かれたが、話し合って別れた可能性もある、仮に興貞が勝っていたら、次男である広相を継がせたかもしれない。
関連URL
初期の城。
後期の城。
参考URL
参考文献
『賀茂郡史 中世武士編』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/19