城データ
城名:生城山城(おおぎやまじょう)
別名:無し
標高:485m
比高:260m
築城年:戦国時代か
城主:生城山天野氏
場所:広島県東広島市志和町志和東
北緯:東経:34.488890/132.664129
攻城記
東広島市指定史跡 生城山城跡
昭和53年11月 5日指定
生城山城は、鎌倉時代の末期に伊登国笑野郷(静岡県)から地頭として志和に来住した笑野顕義から九代目の興定のときに、標高485mの生城山山頂に本格的に築いた城であると伝えられています。
天野氏は、初め山口の大内氏に従っていましたが、興定のときに出雲の尼子氏に属しました。
このため大永5(1525)年その当時志和東の米山城に拠っていた興定は大内氏に攻撃されたので、和議を結んで再び大内氏に従いました。
その後は、生城山城は当初の小規模な城から、戦国期の城にふさわしく山頂の本丸を中心に二の丸、三の丸、見張りの壇、井戸の壇、お馬が壇、侍屋敷などが整えられました。
なお、本丸にある巨石の柱穴は櫓跡、居館は東、現在の光源寺付近にあったと伝えられています。
このように、生城山城は、笑野院(尾利光の七男)が魔長6(1601)年に周防国熊毛那兰登(山口県)に移るまで天野氏の居城でした。
東広島市教育委員会
館があったと推測される場所。
光源寺の脇を通っていく。
山頂に進む。
門跡っぽい。
亀岩。
山頂からの風景。
人工的に加工されている。
本丸跡。
礎石っぽいものも散見される。
麓もはっきり分かる。
曲輪跡。
open-hinataより【生城山城】
余湖図【生城山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【生城山城】
拡大図。
城の概要
概要
城の遺構は,標高485mの生城山の山頂部に広がる。
最高所の1郭から東に延びる尾根上に五つの郭を置く。
1郭から2郭への虎口は自然の巨石を利用した桝形となっている。
2郭と3郭の間の自然の巨石は阻塞として利用したものであろう。
3郭と5郭の間には4郭を置いて分断するとともに、4郭に櫓台としての機能も持たせているのであろう。
このように,山頂郭群の進路は厳重な備えとなっている。
6郭から7郭への斜面は緩やかで,7郭の東には堀切が設けられている。
この堀切の東にも土塁を持つ8郭がある。1郭の南側には長大な帯郭がある。
さらに南にはいくつかの支尾根が延びるが,郭などの遺構はない。
山頂部から北に派生する三つの支尾根には2〜3段の郭を配しており,そのうち最大のものは9郭である。
9郭の東側切岸は不明瞭である。1郭の西下の巨石には直径20cm,深さ20cm程度の柱穴と思われる2つ穴が約3m間隔に並んであり,櫓等の施設が建てられていたものと思われる。
この施設の西にも郭が設けられているが,さらに西に延びる尾根上には郭は無い。
この城は,志和東の天野氏が戦国末期に米山城から本拠を移した城と伝えらる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
生城山城
生城山城は、東広島市志和町のほば中央に位置し、東川と関川によって開け た水田地帯、瀬野川の上流域となる支谷一帯を含む町内全域を一望する生城山に、志芳荘の地頭であった天野氏九代の興定が築いた戦国期の山城である。
天野氏は当初、防長を本拠とした大内氏に属していたが、大永三年(一五二 三)に出雲の尼子経久が、大内方の蔵田備中守房信の守る鏡山城を攻撃してこ れを陥落させ、芸備両国への支配力を強めたため、天野氏も尼子方に属することになった。
ところが、大内義興が、同五年に陶興房を大将として、生城山城 の東南約二・五㎞の天野氏の本城である米山城を攻略したため、天野氏は降伏し、再び大内方に帰属することになった。
その後、興定は大内方として同七年に安芸郡熊野の要害、瀬野鳥子の要害などの攻略に参加して戦功を立て、米山城は天野氏に返還された。
生城山城は、このように尼子方と大内方との対立抗争がもっとも激しい大永年間(一五二一~二八)に、本格的に築かれたものとみられる。
この山城は、山頂の本丸から東に下って二の丸・三の丸を階段式に配し、本丸北側に見張の壇、西に矢倉跡という郭があった。
そのほか井戸の壇・お馬が壇と呼ぶ郭も残っている。
この山城の東麓の殿様屋敷と呼ぶ所が居館跡とみられ(現在の光源寺の位置)、これより北に延びて長松あたりまで家臣の屋敷があ ったと考えられ、地名やその屋敷の遺構が残っている。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
大永3年(1523):尼子経久の安芸国南下により、天野興定がその支配下になる。
大永5年(1525):大内義興の反攻により陶興房により米山城を包囲され降伏米山城は接収される、その後大内方の国衆として忠勤に励む。
この頃生城山城を築城か。
享禄元年(1528):忠勤を認められて米山城が返還される。
天文9年(1540):天野興定が尼子晴久の吉田郡山城侵攻時に毛利方に味方する。
天文10年(1541):天野興次が亡くなり嫡子の隆綱が継ぐ。
天文18年(1549):山口で同じ人質であった毛利隆元を義兄弟の契りを結ぶ。
弘治元年(1555):天野隆綱が亡くなり翌年弟の元定が継ぐ。
永禄5年(1562):毛利の出雲遠征に元定も参加する。
永禄12年(1569):天野元定が亡くなり毛利元就の七男である元政が養子となり継ぐ。
城主家系図
城主石高
天野元政領として15,489.304石の所領を得る。
所感
●米山城が大内氏に接収された時に本格的に築城されたと思われる。
●比高が高く、平時は麓の館に住んでいたと思われる。(現在の光源寺跡)
●本丸跡には柱穴も残っておりここに当時城があったと物語っている。
関連URL
元の居城。
参考URL
安芸 生城山城跡、光源寺(居館跡)(よしだっちの城跡探訪記)
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/19