城データ
城名:鏡山城
別名:西条城
標高:335m
比高:110m
築城年:長禄・寛正(1457~66)頃
城主:大内氏、武田氏、尼子氏の城代
場所:広島県東広島市西条町御薗宇(鏡山公園)
北緯:東経:34.403688/132.726991
攻城記
国指定だけあって立派な標石。
前方に見える山が鏡山城。
きちんと整備されており歩きやすい。
国史跡 鏡山城跡
平成10年1月14日指定
南北朝から戦国時代にかけて、この地域は「安芸国東西条」と呼ばれ、山口の守護大名大内氏の所領でした。
大内氏は、九州博多を有して海外貿易に力を入れていました。
鏡山城は、大内氏が安芸国支配の拠点とし、あわせて瀬戸内海中央部を押さえる目的で築いたものです。
大内氏は、大内氏と海外貿易をめぐって対立する細川氏との接点となっていたため、鏡山城をめぐって激しい戦いが行われました。
戦国時代に入ると、出雲尼子氏が勢力を伸ばし、大永3年(1523)、鏡山城を攻め落とします。
同5年(1525)、大内氏は鏡山城を奪い返しますが、その拠点は盆地西方の杣城(そまじょう)・槌山城(つちやまじょう)に移され、鏡山城はその役割を終えました。
城跡は、標高335mの山頂に位置する御殿場と呼ばれる郭を中心に、約300m四方に広がる大規模なもので、ダバ(段場カ)と呼ばれる郭や、堀切・畝状竪穴群・石塁などからなり、中でも井戸跡は5か所もあり、多くの人が城内にいたことをうかがわせます。
平成10年1月14日、室町時代を代表する地域の拠点的な城跡として、国史跡に指定されました。
社団法人 東広島市観光協会
畝状竪堀群が多い城。
門跡っぽい。
堀切。
下のダバ。
下のダバの井戸跡。
4郭とセットになっている。
この石も怪しい。
馬のダバ(3郭)
中のダバ(2郭)
井戸跡。
広い削平地。
石垣。
御殿場(1郭)
何か建っていたのであろうか。
遠くまで見通せる。
北郭郡。
鏡山城全景。
在りし日の畝状竪堀群
2009年頃の画像。
open-hinataより【鏡山城】
余湖図【鏡山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【鏡山城】
拡大図。
城の概要
最高所の郭群を中心に周囲に小郭を配しており,井戸,土塁がみられる。東西の尾根続きは堀切群で,南北の斜面は畝状竪堀群で防御している。
大手は南側で,小郭群を連ね随所に石垣を用いている。
本城跡は,防長の大名大内氏による安芸国支配の拠点である。
史料上の初見は寛正年間(1460〜1465)で,天文年間(1532〜1555)に廃城になったものと考えられる。
現在みられる遺構は大永年間(1521〜1527)の改修の結果と考えられ,1986年に行われたトレンチ調査において出土した遺物の年代も16世紀前半代に比定されている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
鏡山城
鏡山城は、西条盆地のほぼ中央部に位置する比高一〇〇~一二〇mの丘陵上に、山口の大内氏が安芸国の経営の拠点として築いた城である。
大内氏は、室町時代の初期からたびたび安芸国に進出していたようである。
大内義弘は当時、東西条と呼ばれていた西条盆地・黒瀬川流域と内海沿岸部に所領を得ていたらしく、応永元年(一三九四)、西条盆地南端の東広島市西条町下三永にある福成寺の別当職を、氏寺である永上山興隆寺(山口県)の別当に預けている。
また翌二年、足利義満は東西条を大内氏に安堵している。
鏡山城は 一説に長禄・寛正年間に築かれたといわれているが、大内氏の西条盆地への進 出はそれ以前であり、室町時代の初期にはすでに東西条の所領内に城郭を構えていたのではないかと思われる。
幕府は、永享十一年(一四三九)に大内氏の所領であった東西条を取り上げて、高山城(豊田郡本郷町)を本拠とする沼田小早川氏に与えた。
しかし、大内氏にとっては、山口から京都に上るためには瀬戸内海の諸豪族を支配下に収める必 要があり、長禄元年に大内教弘は、広島湾岸の厳島神主家と安芸国守護の武田氏との所領争いの際には、神主家を援けて武田氏の本拠である銀山城(広島市 祇園町)を攻め、さらに西条盆地の奥深くまで侵入し、沼田小早川氏の所領で ある竹原市田万里の一帯をも占領した。
寛正二年(一四六一)、幕府は沼田小早川惣領家の凞平と宮中務丞を使節とし て、大内政広に東西条を安芸国守護の武田信賢の代官に渡すよう命じている。
しかし、大内氏は長禄三年にすでに直轄領に組み入れており、容易に手放さな かった。
そのため、小早川平は幕府の命を伝えるため山口に下向し、結局、 東西条は武田信賢に渡された。
その後まもなく、大内氏に属していた西条盆地 周辺の野間・阿倉沼・平賀・竹原小早川氏などの諸氏が東西条を奪還するために、武田氏の代官が守備する鏡山城を攻撃した。
そこで、細川方に属した沼田小早川凞平は、武田方を救援するため、鏡山城攻撃に出陣して留守となった竹原小早川氏の本拠である木村城(竹原市新庄町)を攻撃したため、両小早川氏の間で争いが起こった。
こうして、まもなく鏡山城は再び大内氏の手に戻った。
文明七年(一四七五)、東西条では徳政一揆が起こり、これに合わせるかのように、細川方の武田・沼田小早川氏らが、大内氏代官の安富左衛門大夫行房の拠る鏡山城を攻撃したが、細川方から大内方に陣替えをした郡山城(高田郡吉田町)の毛利豊元の援軍により、 武田・沼田小早川氏らを追い払い、一 揆を鎮圧した。
こうして、大内政広は 同十年六月二十八日付で、鏡山城の修 築と兵の規律を目的として鏡山城法式 を定め、鏡山城の守りを固くしており、 鏡山城の重要性がうかがわれる。
その後、永正年間(一五〇四~二一)の末、出雲の富田城を本拠とする。 尼子経久は大内氏に叛いて、芸備両国の経略に着手し、諸所を侵略して諸豪族を従えつつあった。
このため大内義興は勢力回復をはかるため、大永三年(一五二三) に大挙して安芸国に侵入し、鏡山城の城番として蔵田備中守房信を置いた。
ところがちょうどこの頃、九州筑前に小田・龍造寺氏の侵入があったため、この 救援に向かった隙をねらって、尼子経久が毛利元就・亀井安綱らを先鋒として再度南下した。
毛利元就は鏡山城の東北方にある八幡山の麓の満願寺に陣を置 き、尼子経久は鏡山城の北にある陣ケ平山に本陣を置いた。
このため、西条盆 地周辺の大内氏の配下にある天野・野間・竹原小早川氏らは鏡山城を救援しようと、尼子経久の本陣である陣ヶ平山の西北方の千野丸に後詰めをしたが、尼子方が大軍のため陣を引き払ってしまった。
しかし城は堅固で容易に落城しな いため、本丸を守備していた房信の叔父(弟ともいわれる)の日向守に本領を安堵することを条件に内応させて本丸を落とし、二の丸を守る房信は自決して落城した。また、経久は内応した日向守を許さず打首にしたという。
鏡山城の本丸は御殿場といい、その東に井戸のある中のダバ・下のダバと呼ぶ郭があり、ここから東に下って堀切があり、屋敷跡と呼ばれる平坦地が続く。
本丸の南側には馬のダバと呼ぶ長い郭があり、北側には階段式に設けた小郭と物見台がある。
また西側には堀切を設け、細長い郭が二の丸に連絡し、さらに 西方には藤が丸を設けている。
城の歴史
応永2年(1395):足利義満が東西条を大内氏に安堵する。(大内氏所領)
永享11年(1439):大内氏の所領であった東西条を取り上げて、沼田小早川氏に与える。しかし、大内氏は拒否する。(大内氏所領)
長禄3年(1459):西条を直轄地にする。
寛正2年(1461):幕府が沼田小早川氏や宮氏を通じて、大内政広に東西条を安芸国守護の武田信賢の代官に渡すよう命じている。
この頃、再度幕府が返還を命じて、一度は武田氏に返還する。(武田氏所領)
しかし再度、野間・阿倉沼・平賀・竹原小早川氏などに命じて城を奪取する。(大内氏所領)
文明7年(1475):細川方の武田氏・沼田小早川氏が鏡山城を攻撃したが。毛利豊元の細川軍の離反により武田氏、沼田小早川氏を追い払う。(大内氏所領)
文明10年(1478):鏡山城の修 築と兵の規律を目的として鏡山城法式を定める。(大内氏所領)
永正年間(1504~21):尼子経久が大内氏に叛き、安芸国に侵攻する。(尼子氏所領)
大永3年(1523):大内義興は安芸国に侵入し、鏡山城の城番として蔵田備中守房信を置く(大内氏所領)
しかし、尼子氏側の毛利元就の調略で叔父の蔵田日向守を寝返らせて落城させる。(尼子氏所領)
大永5年(1525):大内氏は陶興房を総大将に反撃を行い、再度鏡山城を手中に収める。(大内氏所領)
その後、更に比高の高い、曾場ヶ城や槌山城に移し廃城となる。
城主家系図
所感
●何回も戦の舞台となった城のため、鉄壁の防禦を誇った城。
●周囲には畝状竪堀を巡らせて簡単には攻められない状態にしている。
●豪雨災害のためビニールシートがあり復旧の目途がたっていない。
●みどころの畝状竪堀群も荒れており現状は藪化している。
●毛利元就の調略での落城はどこまで本当か分からない、しかしこの戦で平賀弘保が尼子経久から600貫余りの所領を得ている。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/12