城データ
城名:木舟山城(仮称)
別名:無し
標高:175m
比高:50m
築城年:不明
城主:市川氏か
場所:広島県広島市安佐北区白木町大字市川
北緯:東経:34.562987/132.656666
攻城記
順教寺山門。
石垣。
本堂。
この場所が市川氏の居館跡だと伝わっている。
この本堂の裏山が城となっている。
曲輪。
本丸の搦手にあたる部分の二重堀切。
逆方向から。
本丸土塁。
本丸。
本丸から下っていく。
尾根筋に曲輪を造っている。
先端部。
木船山城全景。
位置関係
正面には星ヶ城も見える。
open-hinataより【木船山城】
余湖図【木船山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【木船山城】
1825年頃にはすでに伝承も消えていた。
城の概要
標高約175mの位置に存在する、順教寺の裏山にあたる、順教寺は市川氏の居館跡だと伝わっており、寺自体の山号は「木船山」と号する。
城は本丸を中心に尾根上に数段の曲輪を配置しており、本丸部分には土塁部分も確認できる。
本丸搦手側に二重堀切がしっかりと残っており、見ごたえがある。
1825年当時の『芸藩通志』にはその存在を記載さえておらず、すでに忘れ去られた城になっていた。
順教寺が市川氏の居館跡から考えるにこの城が本城とも考えられる、またその城の成立を井上氏、更には武田氏が支配していた時にまで遡ることも出来る。
城の歴史
天文3年(1534):このころ般若谷の合戦があり、武田方が負け毛利氏の勢力範囲となる、星ヶ城も城主が毛利方(井上元兼)に代わる。
天文7年(1538):八幡宮の棟札に井上元盛の名前があり市川村を支配していたのは元盛だった可能性もある。
天文19年(1550):毛利元就が井上一族の誅殺を実施して、元兼も誅殺される、その後は市川経好が入城する。
弘治3年(1557):周防国高峰城番に抜擢され転封する、所領はこのままであったかは不明。
天正12年(1584):市川経好が亡くなり、次男元好が家督相続する。
天正16年(1588):元好の出雲国への給地替えを行う、ここで市川村から完全に離れる。
城主家系図
井上氏家系図。
市川氏家系図。
所感
●過去の文献や古文書にも出てこない城。
●白木町史(96頁)の順教寺の項に「裏山は木舟山といい、城跡とも考えられ~~」と記載さえているため、何かしらの伝承があったのかもしれない。
●城の造りは丁寧で、二重堀切は見もの。
関連URL
参考URL
参考文献
『白木町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/29