城データ
城名:八幡城
別名:唐樋山城、獅子ヶ峠城
標高:248m
比高:190m
築城年:弘治2年(1556)佐波興連・隆秀父子によって築かれたと伝わる。
城主:佐波興連
場所:島根県邑智郡美郷町浜原
北緯:東経:35.058719/132.605144
攻城記
八幡城全景。
攻城開始。
矢竹発見。
麓を臨む。
最初の削平地に到着。
看板発見。
八幡城の由来
今を去る400年前、ここ八幡城は、佐波越後守興連、佐波家14代・常陸介隆秀父子により、弘治2年(1556)築城という。
天文20年8月、大内義隆滅亡のあと、石見銀山をめぐり、安芸の毛利元就、出雲の尼子晴久の抗争は激化し、弘治2年5月、元就銀山を奪うとともに、晴久は銀山の奪還を試み風雲は急となる。
龍岩寺城に拠る興連、隆秀は、元就の一翼となり、都賀の要路城を固め、八幡城を構築す。
八幡城は、はじめ唐樋山城という。桂根八幡宮の背後に立つゆえ、その名を八幡城と称す。隆秀の子・恵連に至り、備後の東城に移り廃城となる。
標高253mの堅城、八幡城は赤名からの進攻に攻め口少なく、志学からの攻撃は久保の連峰、これを阻む。
頂上に立ては、沢谷川を一望に、はるか泉山城、瀬戸山城、幻を描き、江の川の上流は登矢が丸、青杉の諸城が歴史を浮かべる。足下に広がる浜原の町並み、下流に彩る小原の集落、さらに眼を移せば、霊峰・三瓶山の雄姿。戦国武将もかくや眺めんと、尽きせぬ往時の哀歓に浸る。
昭和62年11月吉日 建立
浜原交友会 撰文 石村 禎久 先生
本丸部分。
石碑がひっそりと佇む。
すすきが繁茂しており整備されていない。
本丸よりも一段下がった曲輪。
更に一段下がった曲輪。
当時も城主はこのような風景を見ていた。
余湖図【八幡城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
八幡城
八幡城は、浜原地区の江の川と沢谷川とが合流する地点に面する断崖絶壁の上にそびえている山にあったが、沢谷・江の川上流・同下流の三方の峡谷を遠くまで望見することができ、要害の地であった。
毛利元就は大森銀山の攻略を企図し、盟友佐波興連に大和・邑智の地を支配させ、進撃路の安全を確保すると共に佐波氏に強大な先鋒としての活躍を期待した。
そこで興連は浜原と粕淵との境、早水川が江の川に合流する地点の丘陵上に龍岩寺城と呼ぶ土居を築いてみずから住し、家臣景山氏に命じて野間川と早水川との合流地点の山頂に氏永城を築かせて守らせ、三瓶山方面からの尼子 軍の進出に備え、龍岩寺城に相対する浄土寺山にも城を築いて家臣大草氏に守らせるなど、粕淵台地一帯を厳重に固めた。
また、これを支援するため、江の川下流の高畑城には高畑氏を置き、奥山・角目の諸城をも固めさせた。
しかし 永禄元年(一五五八)、毛利元就が川本の温湯城の小笠原長雄を攻囲中に、尼子晴久は大森銀山を奪回し、城将高畠遠言は刺鹿長信と共に温泉津において自害させた。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
弘治2年(1556):龍岩寺城にいた毛利方の佐波興連・隆秀父子が毛利氏の要請にこたえて要路城を固めるために八幡城を築いた。
城主家系図
所感
●八幡城は初め唐樋山城といわれたが、後に、桂根八幡宮の背後にあるため八幡城と称した。
●城へは浜原駅の南手前200mくらいのところへ看板があるのでそこから道なりに進む(途中町営住宅らしきものがありそれをさらに進むと車が1台通れる道になるので進むと八幡城の登城口に到達する、途中までアスファルトで整備されているし車1台は通れるが草で藪化しており不可能。
●おそらく昭和62年頃は山頂まで軽トラで行き来できたのかもしれない。
●延々と進み山頂に到着、山頂には郭部分が数か所あるが縄張り図がないのでよく分からなかった。
●この地方では佐波氏は大きな勢力を持っていた、尼子の大森銀山侵攻対策で築城された城だと思われる。
●この語1591年に佐波氏は所領を広島県庄原市の五品嶽城へ移動するので築城から実質40年弱で廃城となる。
関連URL
同じ一族の城。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『石見の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2022/01/09