城データ

城名:満願寺城

別名:万願寺城

標高:28m

比高:28m

築城年:大永元年(1521)に湯原信綱によって築かれたとも伝えられる。

城主:湯原氏、毛利氏

場所:島根県松江市西浜佐陀町

北緯:東経:35.472901/133.016358

満願寺城はここ

 

 

攻城記

大永7年(1527)に造営されたとある。

 

高野山真言宗
 金亀山 満願寺

  • 出雲観音霊場第31番
  • 出雲国13仏霊場第4番
  • 古江六地蔵霊場第6番

縁起

当山は53代淳和(じゅんな)天皇の天長元年(824)に弘法大師(空海上人)が、杵築(出雲)大社に参籠される際、日暮に及びこの地に立ち寄られ、実に四神相応の地と暫く逗留された。
この間に大師は一刀三礼の元に御長二尺三寸(75cm)の聖観世音菩薩像を彫刻され、胎内に天長元年3月17日と記し加持開眼された所、竜神が感応し、湖水より数尋の竜神が顕れた。
大師はすぐさま経文の四句の偈を授けられた。
竜神は忽ち五色の大亀に変じ、金の釜を大師に捧げられた。大師は神国に来て不思議な縁に逢い、神のみ心に相応するこの地で祈願が通じ満足したとして、この寺を、金亀山(きんきざん)清浄院 満願寺と名付けられたのである。

又、後伏見天皇の正安年中(1300年の初期)高野山の八傑である信日・信堅の両上人によって建立されたものであった。
以前の本堂は、平成2年4月8日に本尊御開帳(33年に1度)と合わせ新築落慶されたものである。
御詠歌は 思い立ち満る願こそうれしけれ
  順礼道も三十一文字
満願寺城跡
 本堂裏山にあり、戦国時代、大永7年(1527)に造営され、毛利・尼子の合戦の時、毛利元就の陣となる。
 
玉椿
 永禄7年(1565)春、毛利元就公の御手植えと伝う
 
いちよう木
 樹高20m(平成6年夏旱魃の折上部伐採以前は33m)
 目通囲 5,2m、樹齢800年以上

 

この本堂の裏に城域が広がる。

この部分に突入する。

 

随所のこのような削平地が広がる。

 

 

宍道湖に面した城というのが分かる。

毛利元就が植えたという玉椿

 

余湖図【満願寺城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

保存状況をやや良としたのは、満願寺と警察学校等周辺の施設建設で破壊された部分があるためである。

今回、図示した部分は城として完結しているが、『城郭大系』が報告しているように、毛利氏が占拠し改造する以前の、もうひとまわり大きな満願寺城が存在した可能性がある。

 

宍道湖がV字型に湾入する船着場を持っていることも注目され、水軍の城としての機能が想定される。

 

湯原氏の居城とも伝えられる。主郭Aに横堀が認められる。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用。

 

満願寺城 城跡
観音堂の西裏山に位置し大永7年(1527)湯原宗綱によって築城され、洗合城と共に、尼子、毛利の合戦の折、要害となった。

 

又近隣の出島神社(七釜大明神)の此の宮山に湯原弾正忠元綱によって近隣五六カ村を領しこの宮を要害としていたとする記録もあり。

 

宗綱死後弟の春綱(又七郎・右京進)は永禄五年(1562)九月二十七日毛利元就から末次城で満願寺城を預かり、毛利の信頼を得、永禄十三年(1570)十一月二十二日に、尼子勝久の復興戦で戦乱の渦中に投ぜられたが湯原彦四郎の活躍で落城を救われた。

 

このように満願寺城は末次、洗合と共に、松江築城前に於ける海陸の要害であった。

 

満願寺縁起より

 

满願寺城跡 現松江市西浜佐陀町

高野山真言宗満願寺の背後の丘陵上にあった戦国期の 平山城。

 

万願寺城ともいう。

 

かつて宍道湖は北に大きく 湾入して佐陀水海を形成しており、城地は西方から湖に延びた岬の先端に位置し、水軍の寄港する港としての性 格ももっていたと推定される。

 

遺構としては、満願寺本堂裏の最高所に二〇メ一五メートルほどの平坦地、その 北西に隣接して五メートル四方の平坦地が二ヵ所あり、 それぞれ空堀で区画されている。

 

北東部にも五メートル 四方の台形の造出し部が認められ、宍道湖側へ幅二メー トル余りの窪んだ間道らしいものが認められるが、崖上 で消失している。

 

城跡の中央部は現在満願寺の墓地とな っており、遺構は明確でないが、両側の斜面に階段状の 遺構が認められる。

 

昭和五四年(一九七九)に行われた西側地域の部分調査の結果によると、斜面には宍道湖側に五 段以上、北側に六段以上の階段状の遺構が連続しており、 北側斜面では柵列と推定される四つの柱穴が確認された。

 

尼子氏の被官湯原信綱が大永七年(一五二七)に築いたといわれる(「湯原氏家譜」閥閱録)。

 

しかしこの城が明確な史 料で確認できるのは元亀元年(一五七〇)と推定される一〇 月一五日の毛利元就・同輝元連署状写(平賀文書)に「万願寺山」とあるのが最初で、また信綱の活躍した時期が永禄(一五五八~七〇)初年頃であったこと、そしてなによりも湯原氏が尼子氏直臣団(富田衆)の一人として天文九年 (一五四〇)八月一九日の竹生島造営奉加帳(竹生島文書)に史 料上初めて登場することなどから、前掲家譜の記述内容をそのまま事実と認めることはできない。

 

一方、塩治興 久が同元年に尼子氏に反旗を翻して戦ったのは「佐陀城」 とされており今(「雲陽軍実記」など)、この合戦が宍道湖の水 運を利用した水軍戦の様相を呈したことからも、ここにいう佐陀城がのちの満願寺城をさす可能性はきわめて高い。

 

佐陀城は南北朝期より登場するが(観応元年八月「北垣光政軍忠状」小野家文書)、塩冶興久の乱を鎮圧したのち、 尼子経久は水軍の重要性にかんがみ湯原氏に命じて佐陀城に大規模な改修を加え、満願寺城を築いたと考えるべ きではなかろうか。

 

城が位置した「佐陀江」(推定元亀元 年一一月二三日「吉川元春・ロ羽通良連署書状」閥閲録など)を 「満願寺江」ともよんだのも(推定元亀元年一一月二九日「毛 利元就・同輝元連署書状」同書)、こうした事情によるもので あろう。

 

永禄五年(一五六二)九月湯原氏が尼子方から毛利方に移ったのに伴い(同月二七日「毛利元就・同隆元連署起請文」閥閲録)、満願寺城は毛利氏による宍道湖の掌握と統制、および毛利水軍の一拠点として重要な役割を果すこととなった。

 

とくに同一二年から天正元年(一五七三)にかけて尼子勝久が島根半島の忠山城(現美保関町)および新山城に拠っ て尼子復興戦を展開した際には宍道湖とその周辺が主戦場の様相を呈し、満願寺城の争奪をめぐる激しい攻防が展開された(推定元亀元年五月二五日「小早川隆景書状」同書、 同元亀元年一〇月一五日「毛利元就同輝元連署状写」平賀文書など)。

 

関ヶ原の合戦後、湯原氏が毛利氏に従って出雲を去り、満願寺城も廃城となったとみられる。

 

『島根県の地名』より引用。

 

城の歴史

大永7年(1527):この頃湯原信綱が築城したと伝わる。

 

永禄5年(1562):湯原氏は尼子から毛利に寝返る、毛利軍の重要な拠点となる。

 

元亀元年(1570):この頃尼子勝久の尼子復興軍がこの地域で激しく戦闘を行う、結局、尼子氏再興軍の奈佐日本之介に落とされる。

 

『萩藩閥閲録』巻115ノ1-16 湯原文左衛門

 

天正元年(1573):奈佐日本之介が毛利にに寝返り、城も毛利軍の手に渡る。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで湯原氏も萩に行き廃城となる。

 

城主家系図

湯原宗綱は吉田郡山城の戦いの時に討死する。

 

城主石高

天正19年(1591)頃の所領

湯原又平次(元径) 320.840石 出雲 秋鹿

 

 

萩藩藩主毛利秀就との関連性

萩藩主毛利秀就の先祖には毛利元就と尼子経久の血が流れていることになる。

 

所感

●比高は高くないが回りを断崖絶壁で囲まれて攻めるのが難しく守るのが容易な城と思われる。

 

●現在の城域は狭いが当時はもっと広い範囲が城であった。

 

●毛利元就が出雲侵攻の時にこの満願寺城が陣地になった。

 

●永禄7年(1564)春に元就が病気になり療養に努めたがこの療養中に寺の境内に玉椿を植えたとの伝承がある。

 

●1570年には尼子勝久がお家再興の為に軍を起こして満願寺城を奪ったのでよほどここが重要な拠点であったのであろう。

 

関連URL

【島根県】荒隈城【松江市国屋町】

対尼子攻略時に同じように使用された城。

 

参考URL

満願寺城(ウッキペディア)

城郭放浪記(出雲満願寺城)

西国の山城(満願寺城その1)

西国の山城(満願寺城その2)

武家家伝(湯原氏)

湯原春綱(ウッキペディア)

湯原元綱(ウッキペディア)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『島根県地名大辞典』

『出雲の山城』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2021/12/25

 

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