城データ
城名:八橋城(やばせじょう)
別名:大江城、大江ノ城
標高:15m
比高:12m
築城年:不明。
城主:行松氏、吉田氏、杉原氏、南条氏、中村氏、市橋氏。
場所:鳥取県東伯郡琴浦町大字八橋
北緯:東経:35.503548/133.673018
攻城記
八橋駅方面からみた風景。
これを登ろうとしてぎょっとした。
何となく登れそうなところがあり直登。
削平地に到着。
城には稲荷神社がある。
周囲を散策する。
周辺部。
土塁のような感じも受ける。
麓を臨む。
石垣。
道なりに降りていく。
比高があることが分かる。
実はちゃんと道があることに気づく。
町指定史跡
八橋城跡
(昭和49年5月1日指定)
この城山は山陰線の開通により分断されたが八橋城跡である。
中世、行松氏の居城で大江城とも号した。
大永4年(1524)、ここを攻略した尼子経久は、城番として吉田左京亮を置いて伯耆支配の拠点とした。
その後、尼子氏を滅ぼした毛利氏は、杉原盛重に城を守らせた。
天正年間に入り、織田氏と対決するようになると、八橋城は山陰でもの毛利勢の中心拠点として重要視され、城の整備が進められた。
「伯耆民談記」によれば、東に大手を構え、本丸と二の丸があり、周囲に堀を巡らせていた。
豊臣治下では南条氏が領有したが、関ヶ原の合戦後の徳川治下で一時期、中村氏、市橋氏が封ぜられた。
元和3年(1617)、池田光政が鳥取藩主になったとき、一藩一城制で廃城となる。
寛永9年(1632)池田光仲入国後、津田氏が八橋を領有し、以後明治維新まで陣屋をおいて治めた。
津田氏の菩提寺体玄寺(南西200m)の西丘陵上に津田家の墓所がある。雄大な墓碑11基が往時をしのばせている。
平成16年9月 琴浦町教育委員会”
余湖図【八橋城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
JR八橋駅の西側丘陵が八橋城となる。郭は西側に本丸、東側に二の丸を配し、かつては、その下にも郭があり、東側に大手門、周囲に濠が巡っていたとされる。
八橋城は室町時代に西伯耆で勢力をもっていた行松氏が築城したが、伯耆に進出した尼子氏により、吉田左京亮が入城している。
毛利氏の支配下となってからは、伯耆経営の拠点として八橋城が重視され、杉原盛重が入城している。
江戸時代以降は、中村氏が伯耆一国を領有した際に中村一栄が城主となり、その後、市橋長勝が封ぜられている。
しかし、元和3年(1617)に池田光政が鳥取藩主となったおりに一国一城制となり、八橋城は廃城となった。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。
八橋城
八橋城は国鉄山陰線八橋駅のそばの東伯町八橋にある丘にあったが 南酒井飛行士遭難碑が頂上に建っている。
古くは大江城と呼び 行松左衛門尉正盛入道以来、行松氏累代の居城であった。
大永四年(一五二四)、尼子経久に攻略され、尼子氏の部将吉田肥後守の舎弟吉田左京亮の居城となり、吉田氏が近郷を支配した。
しかるに、左京亮が尼子氏の先手として備中攻めの最中に、備中成輪の城主三村修理亮家親と戦って討死したので、その子源四郎が跡を継いで八橋城を守った。
幼君源四郎を守護する家臣らにとって、法勝寺に進出した毛利方の三村家親の存在は危険このうえもない存在であったが、三村氏は援軍を得て吉田方の機先を制して二千余騎をもって八橋城に攻撃をかけてきた。
時に永禄八年(一五六五)九月三日で、炎天下の攻防は激烈をきわめた。
戦闘時間を無益に長びかすことは不利とみて、城兵八十余騎は源四郎を中心に城門を打ち開き、一団となって出た。三村勢はその勢いにひるんだのでこれを突破し、尼子氏の本城月山富田城へ帰投した。
その後、吉田氏は尼子氏の助けを得て、たびたび八橋城へ押し寄せたが、ついに 奪還することができなかった。
ついで、八橋城は毛利氏の勇将杉原播磨守盛重の領有するところとなった。
盛重は尾高城に嫡子弥三郎元盛を置き、みずからは当城にあって羽衣石城南条氏の押さえとなった。
天正九年(一五八一)、盛重は八橋城において病死したので、次男景盛が八橋城に在城した。
景盛は父盛重没後の知行の配分に不満をもち、兄元盛を殺害したので、同十年初夏、吉川元長の攻撃をうけ自対した。
その後、豊臣秀吉と毛利氏との和睦が成立したので、当城は南条元続の持城となり、備前守元信が城番となり、のち山田越中・正寿院らが城番を勤めた。
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦ののち伯耆一国が中村一忠の領国となると、 八橋城には一忠の叔父彦右衛門一栄が三万石をもって封ぜられたが、同九年ここで病没した。
同十四年、中村一忠が早世し、翌十五年には市橋下総守長勝が 入って二万三千石を領した。
ついで元和三年(一六一七)、池田光政が因幡・伯者を領すると池田河内長明が当城に入り、寬永九年(一六三)、池田光仲が備前より入封すると津田将監元匡が八橋城を領し、以後代々伝えて幕末に及んだ。
東を大手としており、「本丸高さ二十六間、境地南北三十二間、東西二十三 間、めぐり八十七間、南の隔に井あり。二の丸は本丸より東につづき下き事三 間、東西二十七間、南北二十三間、東にむかって門の跡」があると、『伯耆民 談記』には記されている。
しかし、国鉄山陰線の開通によって城跡は南北に縦断され、南半分は切 られて昔の面影を失っており、わずかに石垣を残しているのみである。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
室町時代:行松正盛によって築城されると言われる、行松氏の居城であったとされる。
大永4年(1524):大永の五月崩れにより、尼子経久に攻められて行松氏は逃れる、代わりに尼子家臣の吉田左京亮が入城する。
天文年間(1532~55):播磨国で三村家親と戦い討死とされ、家督は子の吉田元重が引き継ぐ。
永禄8年(1565):毛利軍の来襲により吉田元重は城を脱出して月山富田城に落ち延びる、その後、城主は毛利方の杉原盛重になる。
天正8年(1580):南条元続が当城を攻撃する。
天正9年(1581):杉原盛重が病没し、次男の景盛が城主として在城する。
城主関係図
行松正盛の妻は杉原盛重に嫁ぐ。
『陰徳太平記』 巻三十七 杉ノ原盛重入伯州泉山城附弓濱合戦之事より。
また杉原盛重の娘が尼子家臣で前の八橋城の城主であった、吉田元重に嫁いでいる。
所感
●八橋駅からみたらかなりの比高でどうしようかと思ったが、きちんと登城口があった。
●城は削平地が二か所あるが、この部分が本丸とは考えにくい。
●当時海に突き出たの先端部分がこの場所ではなかったかと思われる。
●JR山陰線で区切られているが、往時はかなり奥まで城域が広がっていたのではないかと考える。
赤い囲いの範囲も城域ではないか?
戦後すぐの航空写真。
当時は山の上まで田畑化している。
関連URL
参考URL
八橋城 -伯耆の城ー
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/18