城データ
城名:津山城
別名:鶴山城
標高:140m
比高:40m
築城年:嘉吉年間(1441〜1444)山名忠政によって築かれたらしい。
城主:山名氏、森氏、松平氏
場所:岡山県津山市山下(鶴山公園)
北緯:東経:35.062773/134.005086
攻城記
本丸目指して進んでい行く。
津山城跡
国指定史酒 (昭和三八年九月二八日指定)
津山城は、もと山袋のあつたこの時山の地に森忠政 が慶長九年(一六〇四)に起工し、元和一年(一六一 六)の完成まで一三年の意月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
往時には五層の天守闇がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、 唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。
また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、 栗積他・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には七〇余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期に当たり、津山城の縄張りの巧妙さは 攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
明治六年(一八七三)廃城令によって城郭は公売さ れ、翌七年から八年にかけて天守閣をはじめとする一 切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
その後、明治三三年(一九〇〇)城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和三八年に国の史跡に指定されました。
表鉄門跡。
矢穴。
明治初期の津山城。
余湖図【津山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
津山城
津山は岡山県北部の中心都市である。この市街地の中心に所在するのが津山城である。
津山の呼称は中世富川の宿の北にあった鶴山の起こりといわれている。
この鶴山に最初に築城したのは山名忠政で嘉吉年間(一四四一~四四)という。
しかし、中世の城の規模・構造は不明である。
本格的な築城は慶長八年(一六〇三)に信濃川中島城主森忠政の入部後である。
森氏は四代九十五年間在城したが 、元禄十年(一六九七)に森長成は他界し、嗣子がなかったので国除となった。
元禄十一年(一六九八)に親藩松平越後守宣富が美作の内十万石を受領して本城を治めることとなった。
以来、松平氏は九代百七十五年間にわたって在城した。
明治二年(一八六九)に徳川慶倫が版籍を奉還し、同四年(一八七一)に廃藩置県となるが、津山城は明治三年に廃城となった。
近世の津山城は慶長九年(一六〇四)から森忠政によって築かれ、元和二年(一 六一六)に完成した。
形式は平山城で輪郭式を基本とした変形態で、福岡の小倉城をモデルにしたと伝えられている。
本丸は鶴山の最高所に定め、これを中心に二の丸・三の丸を階段状に輪郭式に構築している。
大手を城の南にとり、曲折を重ねて本丸に至る。
搦手は北西にとり、ここでは山名氏の遺構といわれる厩堀と薬研堀を取り込んで搦手の固 めとしている。
東側は急峻な崖が宮川に臨んでおり、自然地形そのものが防塁 の役割を果たしている。
西側は馬場の麓を広くとって内山下に続き、その外は 堀と堤で囲んで郭の内外を厳重に区分している。
このように津山城は近世城郭としては珍しく実戦的な防備を施しており、建 物はいっさい消失しているが、石垣の雄大さは他の追随を許さない。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
嘉吉元年(1441):山名忠政が鶴山城を築く。
慶長8年(1603):森忠政が入部する
慶長9年(1604):この頃から築城を開始する。城の名前も「鶴山」から「津山」になる。
元禄10年(1697):森家断絶する。
元禄11年(1698):松平家が入部する。
城主石高
森時代:18.6万石。
松平時代:10万石。
所感
●桜の名所で春に行くと立派な桜が咲いている。
●石垣の積み方は近世城郭の技術の最高峰だと思われる。
●当時は天守閣もあり櫓も多数あったが、明治の僅かな期間で全て解体しているのが驚き。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『岡山県の地名』
『岡山県地名大辞典』
公開日2021/12/04