城データ
城名:岡山城
別名:烏城、石山城
標高:15m
比高:10m
築城年:大永年間1532年頃に金光備前によって築かれた石山城がその前身とされる。
城主:金光氏、宇喜多氏、小早川氏、池田氏
場所:岡山県岡山市北区丸の内
北緯:東経:34.664745/133.936061
攻城記
水堀と石垣。
城内に入っていく。
鏡石。
なかなか独特な積み方をしている。
絵になる石垣。
更に進む。
中心部に入っていく。
天守閣の礎石。
岡山城天守閣。
宇喜多時代の石垣。
月見櫓。
不明門。
流石近世城郭。
廊下門
余湖図【岡山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
岡山城は、岡山市街地中央の旭川右岸に所在する近世城郭であるが、古くは現在の二の丸に含まれている石山を中心に構えられた名主層(国侍)の居城であった。
岡山城の築城期は、史料的に定かではなく、江戸時代の地誌や軍記物によれば、天文初年に備前国西半を押領した金川城の松田氏に従う名 主層の金光備前が城を構えていたという。
「松田系図」によれば、応仁の乱で赤松氏再興に与して守護代のクラスになった松田氏の 一族の松田元斉が応仁元年(一四六七)に岡山城を居城にしたと記してあり、それが正しけ れば岡山城の上限がさかのぼることになるが、 史料的裏付けに欠け、判然としない。
その後、永禄年間(一五五八~七〇)には、 やはりこの地域の名主層となっていた金光備前の子の宗高が居城としていたが、元亀元年 (一五七〇)に備前国上道郡の亀山城を居城に して戦国大名となった宇喜多直家は、宗高を 謀殺してこの城を奪い、天正元年(一五七三) に大改築を施して居城とした。
金光氏から直 家までの岡山城は、石山の小丘陵を利用した 山城で、直家の城郭形成は、金光氏の城郭構造を壊して戦国大名の居城にふさわしい城郭 を構えたと考えられ、現在の岡山城二の丸跡に残る池田家祖廟の郭が直家時代の本丸跡と称されている。
直家時代の岡山城は、城郭の 整備だけでなく、原初的な城下町の形成が図 られており、現在の市街地形成の基になった ものである。
直家の跡目を継ぎ、羽柴(のち豊臣)秀吉に従った宇喜多秀家は、備前・美作の二国と備中東部、播磨西部を領有する大身となり、直家の城郭では手狭になったため、 秀吉の国内平定が一段落した天正十八年から天守閣を中心とした近世城郭を構えるまったく新しい城普請を始め、途中、朝鮮出兵の中止期をおいて八か年の 年月をかけて慶長二年(一五九七)に完成した。
秀家の築城した岡山城は現存する岡山城の原形をなし、戦災により焼失するまで鳥城の名で親しまれた三重六層の天守閣は、古式の天守閣の建築手法を伝 える建築様式として注目されていた。
秀家の城郭形成は、旭川の流路が本流の背後から東にめぐるように河道を付け替えて背後を固め、本丸を核に南西部に 二の丸・三の丸の郭を配置した変形梯郭式の城郭形式で、それまで西に付いていた大手を南に替えると共に、城の南から西側に近世城下町を設けている。
また、城下町の拡張。大手の南側への変更とあいまって、西国街道を城の南部か ら西部の域下町を通過するように付け替えるなど、近世城郭化を図るものでも あった。
関ヶ原の合戦で秀家が滅亡した後、備前国領主になって岡山城を居城にした 小早川秀秋は、宇喜多一族の持城であった領内各地の主要城郭を廃城にし、その 建築物を岡山城に移築して城郭の整備を行なう一方、三の曲輪の外堀の外にもう一本の外堀を設け、城域の拡張と城下町の縁辺防備を強化した。
秀秋が在城わずか二年の慶長七年(一六〇二)に二十三歳で継嗣のないままに病死して小早 川家が断絶すると、翌年に姫路城主池田輝政の五男の忠継が備前国を領有して岡山城主になるが、五歳の幼少であったために兄の利隆が執政代行として岡山 城に赴き、池田家による岡山藩政の基礎を敷くと共に、城郭の改築も実施し、 特に西の丸に石垣の構築や櫓の設置などの城郭施設の整備を図った。
現存する 岡山城西の丸西手櫓は彼の建築といわれている。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
元亀元年(1570):宇喜多直家が金光宗高を謀殺してこの地支配する。
天正元年(1573):宇喜多直家が岡山城(当時は石山城)を改修して居城とする。
天正3年(1575):宇喜多直家が浦上氏から下克上を行い備前、美作などを支配下におく。
天正9年(1581):宇喜多直家死去し息子の秀家が岡山城城主となる。
天正18年~慶長2年(1590~97):大改修を行う。このころから岡山城の名前になってくる。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで宇喜多秀家は破れて改易となる、代わりに小早川秀秋が領主として入部する。
慶長7年(1602):小早川秀秋が急死して断絶する。
慶長8年(1603):池田輝政の次男忠継に与えられる。
慶長20年(1615):池田忠継が亡くなる。
元和元年(1615):忠継の弟である池田忠雄が入部する。
城主石高
宇喜多秀家時代:57.4万石
小早川隆景時代:52万石
池田忠継時代:28万石
池田忠雄時代:31.5万石
所感
●近世城郭の名にふさわしい立派な城。
●当時城下町から見る岡山城も素晴らしかったと思われる。
●宇喜多時代の石垣も発掘されており必ず見るべき石垣。
●城と城下を1日かけて散策したいエリア。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『岡山県の地名』
『岡山県地名大辞典』
公開日2021/12/04