城データ
城名:真田丸
標高:18m
比高:8m
築城年:慶長19年(1614):大坂冬の陣で豊臣方の真田信繁らによって築かれる。
城主:真田信繁(幸村)
場所:大阪府大阪市天王寺区餌差町
北緯:東経:34.671887/135.525854
攻城記
現在は学校の一部になっている。
右手が学校、左手が寺院でこの周辺にあったらしい。
豊臣秀吉が上町台地の北端部に築城した大坂城は難攻不落の天下の名城として知られるが、南方の天王寺方面からの防備が不十分であった。
慶長19(1614)年の大坂冬の陣にあたり、豊臣方から招かれて九度山から大坂城に入城した真田信繁(幸村)は、この弱点に気付き、現在の空堀商店街からJR玉造駅方向に造られていた惣構の空堀の外側にあった「笹山」という小丘陵に出城を構え、徳川勢の攻撃に備えた。
出城は東西200mほどの規模で、三日月形をした外形の内部が東西2つの曲輪からなり、惣構の場を土橋でまたいで大坂城内と結ばれていたという。
真田信繁は、わずか3千人余りの将兵でこの出城を守り、徳川方の前田利常・非伊直拳・松平忠直らの攻撃を見事に撃退し、豊臣方にとって冬の陣最大の戦果をあげた。
ここは空堀があった可能性がある。
真田丸自体は周囲よりも高いことが分かる。
こう見ると砦には最適な立地。
上から見るとこんな感じ。
三光神社
位置関係
「諸国古城之図」真田丸(摂津)
広島市立図書館より。
拡大図。
余湖図【真田丸】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
真田丸出城
慶長十九年十月、招かれて、九度山から手勢を引き連れて大坂城に入城した真田幸村は、惣構南面の防備が弱いことを見抜き、惣構の空堀を隔てた所にある笹山という小丘陵に出城を構え、一族郎党をもって守らせた。
三日月形の城 で、優月城とも呼ばれた。 『櫻台武鑑』所収「大坂冬の陣配陣図」によれば、真田の出丸は東西二つの郭 から成っている。
このうち、東側の郭は東南部を水堀で囲まれ、堀の内側は塀 を建てつらねた本格的な構えを示している。
惣構の南空堀を土橋でまたいで北 門があり、城内と通じている。
一方、西側の郭は、南面を半月状に頑丈な柵で 固めているように見える。
あるいは柵で固めた塹壕を表している。
この一画は、東側の一画と一つの門で通じ、さらに外部への出入口として略式の冠木門が一つ南に設けられている。
冬の陣では、この真田丸に真田幸村以下三千人余りの将兵が守備につき、東 軍の攻撃を撃退した。
餌差町の円珠庵の北方に残る二〇〇m四方ほどの高所が その遺跡と推定される。
城の歴史
慶長19年(1614):大阪方の真田信繁(幸村)によって築城される。
慶長20年(1615):大阪夏の陣のおり真田丸の戦いが起こり、徳川軍に打撃を加える。
所感
●現在は学校となっており往時の姿は想像できない。
●隣に寺院があり、この寺院は当時からあったものだと思われる。
●空堀からの比高は約10m位あり、わずかに想像できる。
関連URL
真田丸の本城である大阪城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』12
『大阪府の地名』
『大阪府地名大辞典』
公開日2021/11/28