城データ
城名:岩屋城
標高:281m
比高:230m
築城年:天文年間(1532〜1555)に高橋鑑種によって築かれたと伝わる。
城主:髙橋氏
場所:福岡県太宰府市大字観世音寺
北緯:東経:33.526051/130.520310
攻城記
岩屋城跡(本丸跡)
岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種(あきたね)によって築かれた。
同12年彼は主家大友宗麟に叛き城を追われ、代って吉弘鎮理(しげまさ)(後の名将高橋紹運(じょううん))が城主となった。
紹運は天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち、激戦10余日、秀吉の援軍到着を待たず玉砕した。
太宰府市
有名な石碑。
本丸。
一つ下の曲輪。
景色が良い。
遠くまで眺望がきく。
高橋紹運の墓
家臣らの墓もある。
余湖図【岩屋城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
岩屋城跡太宰府市観世音寺
四王寺山地南腹にある戦国期の山城跡。
「続風土記」によれば宝満城の支城として大友氏の家臣高橋鑑種によ って築かれたというが、実際には大内氏時代よりみえる。
文明一〇年(一四七八)一〇月一三日、深野重親は大内政弘から夜須郡山家庄(現筑紫野市)五町の地を宛行われ「岩屋」 在城を命じられ、同様に山道兼久・千手盛景らも所領を宛行われて岩屋在城を命じられている(「大内政弘下文写」 正任記など)。
また同一二年二月九日、讃井護重は大内氏 から「三笠郡府領内漆町地野坂三郎跡」を宛行われ、岩屋城 への在城を命じられている「大内政弘袖判下文」讃井文書 天一三)。
天文四年(一五三五)七月から一一月にかけて肥前平戸の武士籠手田定経は岩屋城に在城し、大内氏家臣で当時御笠郡代であった、故実家としても知られる飯田興秀から多数の故実を伝授された(「聞書秘説」尊経閣文庫蔵など)。
大内氏時代の岩屋城は御笠郡代が在城する同郡支配の拠点であった。
永禄二年(一五五九)四月一〇日、高橋鑑種が宝満・岩屋両城を与えられたとされるが(年月日未詳「覚」崇福寺文書 天一五)、実際にはこれ以前に城督となっていたと推測される。
鑑種は永禄五年、同一〇年の二度毛利氏に通じて主家である大友氏に対し反乱を起こし、同一二年一一月 大友氏に宝満城を攻略されて降伏し豊前国規矩郡へ移された。
その後高橋氏の名跡を継いだ養子鎮種(弘鑑理の息、のち紹運)が両城の城督となった(二月二五日「大友宗麟書書状写」)。
天正六年(一五七八) の日向国耳川合戦で大友氏が島津氏に敗れて以降、大友氏に対し反旗を翻す国衆が続出した。
大宰府周辺では島津氏と呼応する秋月種実・紫広門らの活動が活発で、 しばしば宝満・岩屋両城を攻めたが、高橋紹運はこれを よくしのいだ。
同一四年七月、九州制圧を目指す島津軍 が北上して筑前に侵入すると、紹運は岩屋城に籠城し、 宝満城を次男統増(のち立花直次)に守らせ、数万の大軍を 迎え撃とうとする。
紹運は城を明渡さないことを条件に自分がまかり出るとして島津軍に和睦を請うたが許されず、同月二七日の総攻撃で岩屋城は落城し、紹運は自刃した(「上井覚兼日記」同月一七日条・二五-二七日条など)。
こ の岩屋城合戦では島津方も多くの死傷者を出している。
本丸跡に紹運の長男統虎(のち立花宗茂)の子孫にあたる筑後柳川藩主立花氏が建立した「嗚呼壮烈岩屋城」の石碑、二の丸跡に高橋紹運の墓とされるものがある。
城の歴史
文明10年(1478):深野重親が大内政弘から岩屋城の在城を命じられる。
文明12年(1480):讃井護重が大内氏 から岩屋城の在城を命じられる。
天文4年(1535):籠手田定経が大内氏から岩屋城の在城を命じられる。
永禄2年(1559):高橋鑑種に岩屋城を正式に与えられる。
永禄5年(1562)、永禄10年(1567):高橋鑑種が2度毛利に通じて、主家である大友氏に反乱を起こし成敗され降伏する。
このころ高橋氏の名跡を継いだ養子鎮種(高橋紹運)が岩屋城の城代となる。
天正14年(1586):島津軍が筑前に侵攻し岩屋城も攻められる、籠城するも落城。
城主家系図
所感
●700人という兵で20000人以上の島津軍の攻撃を迎えたことに驚愕。
●城自体は規模も大きくなく、700人も籠城すればかなりきつい城だと思われる。
●紹運自身は自刃したが、子どもの立花宗茂は柳川藩の藩主となる。
関連URL
息子である立花宗茂の城。
参考URL
参考文献
『福岡県の地名』
『日本城郭大系』18
公開日2021/10/11