現在利神城は入山制限をされています。
佐用山城協会主催の利神城ガイドツアーがありますので、こちらのほうでツアー申込をしてもいいかもしれません。
城データ
城名:利神城
別名:平福城、雲突城
標高:373m
比高:220m
築城年:貞和5年(1349)
城主:別所敦範が築城後に池田氏の城となる。(別所氏、服部勘介、池田由之、池田長政、良正院尼公(池田輝興母)、池田輝興)
場所:兵庫県佐用郡佐用町平福
北緯:東経:35.046132/134.377474
攻城記
攻城開始。
瓦の残骸も多くある。
虎口。
雲突城とはよく言ったもので本当に雲を突いている。
本丸部分。
本丸周辺石垣。
本丸部分。
本丸周辺部。
本丸部分礎石。
本丸からの雲海。
本丸下石垣。
かなり崩れているのが分かる。
三の丸方向から本丸を臨む。
三の丸付近。
井戸跡。
利神城遠景。
石垣の跡。
平福の街並み。
北方面。
再度本丸まで戻る。
立派な石垣。
二の丸に進む前の石垣。
非常に美しい。
二の丸から本丸を臨む。
麓から利神城を臨む。
利神城ベストショット
山麓居館跡
平時は山麓の居館に居住していた。
智頭急行が横断するために石垣の一部を除いている。
平福街並み
余湖図【利神城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【利神城】
『中世播磨250の山城』(中世城郭研究家 木内内則)
城の概要
利神城
佐用川と庵川の台流点の裏にそびえる標高三七三・三度の利神山の頂上に利神城がある。
本丸を最高所に、階段式に造られた郭跡や石垣が下からでも望見 できる。
この山に登るには、”東・西・北”の三方は断崖に近い急坂のため。南の低い山から尾根伝いに登るしかない。
この尾根伝いの道は、今はハイキングコー スとして整備されている。
登山口から距離にして約三〇〇m登った所に四段からなる階段式の平坦地が続いており、その三つ目と四つ目の間には底幅一,二m、上幅二,九m、深さ一.五m、長さ八,五mの空掘がある。
そして最上段の平坦地の奥に穴式石室墳が口を開いており、これも当時、防禦施設として利用されていたのかもしれない。
そして一〇〇〇m登った所に城門の石垣が残っている。
この門を入った右側が三の丸で、切れ切れに残る石垣に沿って急な坂を登ること二〇〇mで本丸跡 に達する。
本丸の石垣は高さ四m、屏風折式に積み上げられているが、東側の 石垣はその大半が崩れている。
本丸は一八m×二八mで、北方に出入口があり、 ここから一段低く石垣が積まれている。この郭は鴉丸とよばれていた。
また外側の石垣は本丸よりも高く、六~九mに積み上げられている。
本丸の西側の石 垣の下にも四mの石垣の根に続く八mの傾斜地を隔てて一二m×三〇mの平坦地がある。
大坂丸といわれた所である。さらに南のほうに延びる石垣は、いず れも九mと高く積み上げられている。
城郭は全体として三角形に配置されていて、頂点に本丸がある例の少ない形 である。
山が険阻なため、城の拡張は細い尾根を追って行なわなければならな かったので、このような繩張りになったのであろう。
この城は貞和五年に赤松氏の支流で加西郡の別所城にいた別所五郎左衛門が 白旗城の北の守りとして築いたのに始まる。
以後、敦範の子蔵人入道則忠およびび弟小太郎就則 ならびに則忠の子小三郎則治と 続いて九六か年 続いた。
「別所氏略系図」によ ると、敦範(利神城築城)から 三代後の祐則 (則忠は幼名)の子光則が利神城主とあり、その弟として則治が記されているが、この則治は三木城主である。この点、『佐用郡誌』の記載と『別所氏系譜』との間に混乱がある。
別所氏は嘉吉の乱(嘉吉元、一四四一)に赤松家と共に滅亡したが、応仁元年 (一四六七)に光則の孫別所治定が城主に返り咲き、別所家を再興した。
以後、 静治・林治の時の天正六年(一五七八)に上月城にいた山中鹿之助(幸盛)に攻められ、落城した。
この事件については『佐用の史跡と伝説』に記されているが、 別所日向守治定が利神城に入って再び別所氏の旗幟を翻し、その子日向守静治の長子別所太郎左衛門定道の代の天正五年の秋の暮れ、羽柴(豊臣)秀吉の中国征討軍を迎えることになる。
定道は勝ち目のない戦いと知って、三人の人質を出し、秀吉に和を請うたが、病弱な定道に代わって城主となった弟の日向守林治は前言を守らず、翌 六年(一五七八)正月、上月城にいた山中鹿之助に攻められて落城した。
また同八年(一五八〇)に播磨国の領主となった宇喜多秀家は家老服部勘介を利神城に入れて赤穂・佐用両郡を守らせたが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦に敗北し、宇喜多家が滅んだため、服部勘介も利神城を去った。
以後、関ケ原合戦の功によって姫洛城主に封ぜられた池田輝政が播磨一国を所領し、甥の池田出羽守由之が利神城主となり、佐用一円三万石を領有した。
現在残っている城跡は由之時代に造られたものである。
由之は、慶長五年(一六〇〇)に工事を始め、城は同十年(一六〇五)に完成した。
慶安三年(一六五〇)に都築四郎左衛門(平福藩松平左近康朗の家臣)が書いた利神城跡の絵図によれば、その規模は次のとおりである。
一、本丸への高さ九十五間あり、但しのりなし。
一、本丸、広さ北南へ十間、東西十五間あり、旧天守屋敷なり。
一、本丸の内、天守屋敷より三間四尺魅く段あり、横六間、竪十間、但 し天守閣より東方なり。
一、同じく北の方に二間話く段あり、横七間、竪十七間あり。
一、本丸と三の丸の間に、横十六間、堅八間の段あり、但し天守屋敷よ り六間下。
一、三の丸、横七間、軽十五間出先未申の方、本丸丑寅に当る。この丸への高さ二十間あり、但しのりなし。
一、大阪丸、横四間、竪二十五間出先戌井の方、本丸辰巳に当る。この丸より本丸への高さ二十間あり、但しのりなし。
一、鴉丸、横六間、竪十五間出先子丑の方、本丸午未に当る。この丸より本丸への高さ十五間あり、但しのりなし。
一、二の丸は本丸より南方なり。是は松平主馬の領分なり。此方より改め申さず候
一、右の曲輪への馬寄、何れの方よりも悪く御座候。
(以下略)
以上のように池田由之が築いた城は三層の天守を囲んで二の丸・三の丸・大 坂丸・邪丸などの郭とこれを結ぶ回廊がめぐっていて、威風堂々たるものであった。
が、その威容をみた池田輝政は、慶長十二年(一六〇七)に天守の破壊を命じ、ついで由之を退去させた。
由之に続いて利神城に入ったのは輝政の弟長政であったが、わずか三年にして良正院尼公に譲った。
三代目の利神城主となった良生院尼公は輝政の妻で、徳川家康の女である。
輝政の死後、良正院尼公とよばれ、佐用郡をその化粧料として領有し、 利神城主となったが、わずか四年にして実子で輝政の七男松平輝興と代わった。
輝興は元和元年(一六一五)から寬永七年(一六三〇)まで佐用郡を頷有したが、 翌八年に赤穂に転封し、利神城は空城となった。
城の歴史
貞和5年(1349):別所敦範が豊福荘から田住荘に移り,利神城に拠る.
嘉吉元年(1441);この頃別所蔵人光則が居城(佐用郡)しかし、嘉吉の乱にて別所氏中絶。
応仁元年(1467):別所日向守一治利神城に居城.(佐用郡誌)
天正5年(1577):別所中務,羽柴秀吉に降伏.(下村文書)(この別所中務は利神城主と考えられており、上月合戦の際には上月城側についていた.上月城落城時に人質を出して降伏許されている)※「佐用郡誌」等には.上月城攻めの際に,利神城の別所定道・林治は上月城に篭り,落城後定道・林治は城に帰るともある。
天正6年(1578):山中鹿之助幸盛が利神城に侵攻,別所定道・林治らは戦うが落城する(定道は田住荘に隠棲という).(佐用郡)等
天正6年(1578):毛利軍が侵攻して利神城も毛利方に落城させられる、その後毛利方の宇喜多直家のものとなる(城代は服部勘助)
天正8年(1580):横野助兵衛が居城するが落城.(赤松家播備作城記)
※「播磨鑑」には別所日向守が城を退去し,宇喜多家家臣、服部勘助が在城ともある。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いにより宇喜多氏が敗北、この頃在城していた服部勘助が城を退去 池田由之,佐用郡二万二千石を領し入城、利神城の大改修などを行うという。(赤松家通備作城記・福磨線)等
慶長10年(1605):利神城の改修が終わる。
慶長12年(1607):池田輝政が天守の破壊を命じ、また由之を退去させて、輝政の弟長政を入城させる。
慶長15年(1610):長政は輝政の妻で徳川家康の娘であった良正院尼公に城を譲る。
元和元年(1615)輝政の七男である輝興が城主となる。
寛永8年(1631):輝興が赤穂に転封する、結果利神城は空城となる。
城主家系図
宮本武蔵の父である新免無二は先妻である於政が亡くなると後妻に別所林治の娘であるよし子を迎える。
武蔵の継母となる。
江戸時代以降の利神城の歴代城主。
城主石高
戦国時代の石高不明。
1601年の池田由之時代は22,000石。
1615年の池田輝興時代は25,000石
所感
●天空の山城とはこのことで、比高200以上あるこの山に近世城郭を築城しているのは麓から見ると圧巻だと思われる。
●大幅改修は江戸時代だとしてそれ以前も宇喜多時代に一部改修したと思われる石垣があると思われる。
●三の丸方面や二の丸方面から本丸を見るとその長大な曲輪がよく分かる。
●城の裏側の方向にも総石垣が張り巡らせているが、見えない部分にまで石垣にしているところが凄いところ。
関連URL
本家の城である三木城。
秀吉侵攻時に上月城と連携を取っていたが、無理だと悟り秀吉に降伏する。
参考URL
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/10/02