城データ
城名:仁位山城
別名:仁位の陣山
標高:233m
比高:140m
築城年:天正5年(1577)
城主:安藤信濃守
場所:兵庫県佐用郡佐用町仁位(仁位山)
北緯:東経:34.978799/134.332776
攻城記
上月歴史資料館にある説明図。
■南東に下った曲輸②はほとんど自然の地形に近く、その東側の曲輪3においても平坦面は自然の地形に近いといえます。
だだし北斜面は手が加えられ、根付近に土塁1条、掘切3条が施されているほか、南斜面に至っては連続竪堀、横堀、處(出入口)が微密に
施され、その両端には長大な竪城が配されているなど他の城には見られないようすが認められます。
■城は南東から派生する尾根筋の一端にあり、北・南は比較的急領斜、西側はやや緩やかに下り、南東は幅の狭い鞍部で他の山につらなります。最高所は標高233.3mを測ります。
構造は臨時の陣城としての性格が認められ、最高所の曲輸①)には南側に階段状の曲輪、北側には掘切が配されています。
■仁位山城の②・③曲輔の自然地形に近い平坦面については、兵力を置く敷地確保ともみられ、特徴的でもある③曲輪の連続竪堀群と横堀、竪堀など他に見られない防御施設は、敵側に近いため入、に施されたものと考えられています。
城域には車まで頂上付近までいけるので楽。
頂上付近。
曲輪は特段変わったものではない。
土塁っぽい。
少し窪みがあるがこれが仁位山城の特徴である畝状竪堀群。
少し下がっていく。
このような畝状竪堀が続く。
普通はかなり埋没しているので分かりにくいが仁位山城ははっきり分かる。
この部分が一番分かりやすい。
仁位山城全景。
位置関係
余湖図【仁位山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【仁位山城】
城の概要
仁位山城
上月城のある中上月集落の東方、川を隔てて仁位山城のあった仁位山がある。
頂上に城跡のあるところから「仁位の陣山」ともよばれている。
川に面した北側は険阻であるが、南西部はゆるい斜面をなしている。
近年、この山にテレビ 塔を建てるため、麓の見土路集落から山頂へ自動車路が建設され、車で登れる ようになった。
この陣山には二つの峰があって、南方にあるものは標高二三三mで から北へ山を少し下った所に別の峰があって、ここにテレビ塔が建てられている。
テレビ塔のある所は、南北一六m、東西一六・五ヵの平坦地で、北のほ 低く段が下って、一辺一八mの平坦地があり、その端に幅三皿、深さ二mの空 堀がある。小規模であるが、ここに郭のあったことは確かである。
本城に対する出城というべきであろう。
また、この山から南方三〇mほどの高所に別の峰があり、頂上に南北一七m、 東西二〇mの本丸跡がある。
さらに、この本丸跡から二m前後の土の段がそれ ぞれ本丸を取り巻く平地となっており、三段に構築されている。
そして、ここから下は遺構は南と西側に限られており、平地と崖に混じって三本の横堀と二 堅堀が整然と築造されている。
この堅堀は、テレビ塔工事用の た時、切断された山肌に三日月形の切面が現われ、初めて発見されたある。
竪堀は整然と並行に造られており、一本々々が独立しているもの、数本 横堀によって連絡しているもの、横堀を造ってその端が各堀に連なっているものなど、三種に分けられる。
竪堀の長さは五mから一二mあり、堀の幅はだい たい上幅で二・五m、底幅は一・六ヵある。
また道の下にもその断片が残って おり、先端まで八mである。
だいたいこのあたりでそろって終わっているよう である。
したがって竪堀の全長はもっとも長いものは二〇mに達するが、不思 議なことに、この堅堀はすべて中腹で切れており、山麓に達していない。
この竪堀を発見した浜田洋氏は、その著『佐用の史跡と伝説』の中で次のよう に述べている。「この縦壕は南下してくるであろう備前勢に対する作戦の一つ ではあるまいか。備前勢が岡山を進発したと知った秀吉が、それとの遭遇戦をくわだて、兵員の急げきな移動にそなえて、大急ぎで作らせたと見てもよいの ではないか。
三十にもちかいあの縦壕は旭街道を南下する敵の目をかすめて、 大量の兵員を山麓の平地に、河原に、そしてあの旭街道の北尾根に、瞬時に展開させるためには、一本の完成した壕の三十倍のしごとをする。
一本の壕を下る十人の兵員、その時間があれば優に三百の兵員を山麓に展開させることがで きる」。
しかし、それでは竪堀をどうして山麓まで掘らなかったか、途中で切 っている理由がわからない。
本郭をめぐって四方に数本の竪堀が掘られている例はあるが、このように整 然と横堀と竪堀が組み合わされている形は少ない。佐用郡内では南光町の中島城に数は少ないが、横堀と竪堀とが連絡したものがみられるのみである。
造られた目的をさらに研究する必要があろう。
羽柴(豊臣)秀吉が上月城を攻めた時、この陣山がその拠点となり、付城を造 って安藤信濃守が八〇〇騎を率いて陣を張ったとされている。
しかし、本城は本丸のほかに出城とみるべきものを持ち、複雑な形の竪堀を持っており、本格的な城郭が造られていたともみられる。
羽柴軍が「高倉山」を”本拠”として 「仁位山」や「円光寺山」に「”付城”」を造って上月城を包囲攻略していった様子がうかがえる。
『日本城郭大系』12より引用。
ただし、畝状竪堀群の存在などから、秀吉側ではなく、毛利側の城ではないかとも考えられる。
そしてそれは天正6年(1578)の第二次上月城の合戦で尼子勝久が籠もる上月城を攻めたものではないか?
根拠としては、畝状竪堀群が毛利方の築城技術に類似している点、上月城から正面に仁位山城が見えて心理的圧迫をするために大量に増築した可能性など。
城の歴史
天正6年(1578)の第二次上月城の合戦で築城か。
所感
●圧倒的な畝状竪堀を堪能できる珍しい城。
●陣城であって上月城の戦いの時に築城されたものと思われる。
●羽柴軍か毛利軍か不明であるが、1回目の上月城攻城戦で羽柴軍が築城したものを、2回目の上月城攻城戦で毛利軍が大幅大改修をしたとも考えられる。
関連URL
仁位山城から攻撃するための上月城。
参考URL
【仁位山城の空堀群】上月城攻防戦【空から城を攻める】ドローン空撮 MavicAir2 Kouzuki castle
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/09/21