城データ

城名:神吉城

別名:真名井城、奈幸子城

標高:13m

比高:3m

築城年:南北朝時代

城主:神吉氏

場所:兵庫県加古川市東神吉町神吉(現在は常楽寺となっている)

北緯:東経:34.795105/134.829535

神吉城はここ

 

 

攻城記

常楽寺が城域。

周囲よりも若干小高い。

常楽寺本殿。

神吉頼定墓。

 

余湖図【神吉城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【神吉城】

周りの地形より若干高い。

 

『中世播磨250の山城』(中世城郭研究家 木内内則)

 

城の概要

神吉城址

城主は神吉民部大輔頼定という人物で別所長治の一族として、神吉荘一万余石の領主であったが、織田信長の三木域攻めに際し、 その支域として千余騎の軍兵によって善戦したが、総天将信長の嫡子で秋田城主介信忠 のひきいる三万余騎の織田兵に攻められて天正六年七月十六日、遂に落域した.

 

「播磨鑑」

一東西五七間、南北四三間、神吉荘神木村一本二云、右城内ニ性山山常楽寺ト云淨土宗寺ノ寺アリ、慶安元年戊子二御朱印ヲ頂戴右城ハ常楽寺境内成、二ノ丸ハ田地ト成と書れている。

 

昭和六十二年三月

 

加古川市教育委員会

 

神吉城

 

神吉城はその名のように神吉氏の構築だと考えられている。

 

神吉氏の始祖とされる神吉元頼は、旧明石郡の神出城主神出範次を父とした。

 

のち、印南郡神吉荘を得た元頼は荘名から神吉氏を称したという(『赤松大系譜』『神吉村雑糞録』。

 

なお、天正六年(一五七八)の落城時の城主頼定まで、八代を数えている (『赤松大系諸』)。

 

神吉城の立地は加古川右岸の河岸段丘、つまり大国町・中西町の両集落を経 て東へ延びる舌状段丘の先端部に位置し、現在では神吉町の中心部となってい る。

 

それより南部へ目を転ずれば、肥沢な水田地帯が広がり、その地帯は段丘 先端部を取り囲むように東から北方へと延びている。

 

神吉氏は三木城の別所氏と代々、気脈を通じていたので、天正六年、織田氏 の播磨征討に際しては別所氏が属城として志方・野口両城と共に、その攻撃目標となった。

 

神吉城攻めは同年六月二十六日の布陣から開始され、翌月十六日 には城主以下の奮戦が及ばず、落城した。

 

この戦況を『信長公記』は次のよう に伝えている。

 

神吉城のとり詰め、北より東の山(黒岩山)に三位中将(織田)信忠卿・神戸 三七信孝・林佐渡守・永・佐久間前後左右段々に取続き、陣を懸けさせ られ、(中略)南の方手薄に御座候に依って、織田上野守御陣よせられ、又 御敵相働かざるの間、請手の人数入らざるに付いて、惟住五郎左衛門、若州衆、神吉は東の口を請取り、まず先一番に城楼(井楼)高々と二つ組上げ、 大鉄炮を以て打入れ、堀を撮させ築山を築上げ攻められ、滝川左近南より 末へ付いて攻口なり、かねほり(鉱山師)を入れ、城楼を上げ、大堀、矢蔵打くづし(崩し)、矢蔵へ火を付け焼落し、此外諸手手前々々に 城楼・楽山をつき、日夜責められ、種々御総言申候といへども、御検使を 出され堅く仰付けられ候間、御許容これなし。同七月十五日夜に入り、神吉の城へ滝川左近・惟住五郎左衛門両手より東の丸へ乗入れ、十六日に中 こみい の丸へ貴込、神吉民部少輔討とり、天主に火を懸け、込入込出し戦ふ事火花を散し、其間に天主は焼落ち過半焼死候なり。西の丸は荒木摂津守(村重)攻口なり。是には神吉藤大夫楣籠る。佐久間右衛門尉、荒木摂津守両人御侘言の馳走を以て御赦免なされ志方の城へ罷退。

 

『信長記』の説く神吉城は以下のようである。

 

まず攻撃軍は、東の丸へ突き進 「続いて中の丸へ入った。この中の丸には天守閣が存在した。おそらく本丸とみなしてよいだろう。

 

中の丸を陥落させた兵は西の丸まで進んでいる、話は前後するが、攻撃軍の主力は神吉城の北方、黒岩山に布陣した。

 

この時すでに城内の防禦上の弱点を攻撃軍はつかんでいる。

 

つまり、南外郭部が弱体なことと、同所から東(東の丸)へかけて塀・櫓があること、堀(湿田であろう) を持つ東の口(東の丸城戸口であろう)部分が攻めやすいものと判断したことである。

 

 

ところで、「播磨鑑』には主郭について「東西五十七間、南北四十三間(中略)、 一本ニ云(中略)古城ハ常楽寺ノ境内ニ成、二ノ丸八田地ト成」とある。

 

もっと も、『播州神吉合戦記』では、その南北を五十二間とする。

 

つまり、「中の丸」 に相当する郭(五十七間×四十三間)こそ、「一本」にいう「古城」の常楽寺を 田地をさすものであろう。

 

また本来、本丸に隣接する「二の丸」が田地であったという。

 

常楽寺境内に南面する形で田地が現存する。

 

これを二の丸跡と推定した 「神吉城概略図」で示した外構部を取り囲む外堀線は、地形図と現状をもとに 復元したものである。

 

『別所長治記』は、神吉城に「四方ノ堀」「大手ノ城戸 ロ」「外構一重(打破ラル)」「二ノ丸ノ引橋」の存在をあげている。

 

これらは前 述した『信長記』『播磨鑑』の推定部分と異なるものではない。

 

近年、荒木村重の居城でもあった伊丹の有岡城が、これまでの概念を破った 「総構え」の大規模な城郭であったことが紹介されている。

 

ここにみた神吉城 も、前者に近い存在ではなかったろうか。「外構」の存在には、興味深いもの がある。

 

 

城の歴史

南北朝時代に築城されたと思われる。

 

天正6年(1578)2月:三木合戦が始まった時に神吉頼定は別所氏に味方をする。

 

天正6年(1578)6月:秀吉が神吉城を攻撃開始落城する。

 

 

城主家系図

 

 

城主石高

『赤松秘武士録』では「五千貫百五十丁領神出左衛門尉則行」とある。

 

所感

●平城であるが、どこまで防禦能力があったか不明、秀吉軍数万と対峙して勝てる見込みがあったのだろうか?

 

●神吉氏はこの周辺の土豪であるが、赤松氏の系統を引いているようで、播磨といえば赤松氏の庶流が隅々まで支配している感じ。

 

●神吉頼定の墓が常楽寺内にあるが、立派なもので江戸時代のものと思われる。

 

関連URL

【兵庫県】三木城【三木市上の丸町】

別所氏の側について戦った。

 

参考URL

神吉城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨神吉城)

古城盛衰記(神吉城)

信長公記・11巻その3 「神吉城の戦い」

武家家伝(神吉氏)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/09/19

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