城データ
城名:此隅山城
別名:此隅城,子盗城,子守城
標高:140m
比高:130m
築城年:1372年
城主:山名氏
場所:兵庫県豊岡市出石町宮内
北緯:東経:35.487232/134.872419
攻城記
見学スタート。
山名氏と此隅山城跡
此隅山城は但馬守護山名氏の居城で、伝承では文中年間(1372~75)山名時義が築城したと言われていますが定かではありません。
しかし、戦国期の到豊(おきとよ)・誠豊(のぶとよ)・祐豊(すけとよ)三代の居城であったことは確かである。
文献的初見は、永正元年(1504)夏のことで、守護山名到豊と垣屋続成(つぐなり)(日高町・楽々前(さきのくま)城主)との抗争が再燃し、続成が到豊・田結庄豊朝(たいのしょうとよとも)の立て籠もる此隅山城を攻めている。
このとき出石神社にも軍勢が乱入し、社壇・堂舎・経巻・末社諸神が焼失している。
永禄12年(1569)8月には、織田信長の命を受けた木下藤吉郎(後の秀吉)らによって、此隅山城など但馬の18の城が落城させられている。
その後、山名祐豊は天正2年(1574)頃、此隅山城に代わる新城として有子山に有子山城を築城した。
此隅山城は守護大名の城らしく、城域は但馬最大規模で南北750m・東西1,200mあると考えられ、山裾の「御屋敷(守護所)」を両翼から山城がつつみこむような陣形である。
城は主郭を中心に、そこから派生するすべての尾根に階段状に曲輪が構築されている。
縄張は大別して、低い段差をもつ小曲輪や、浅い堀切などが構築されている古い部分と、高い段差をもつ広い曲輪、深い堀切、折れをもつ土塁や竪堀などが構築されている新しい部分に分かれると考えられる。
前者は、南北朝期から室町期にかけて造られたものと考えられ、後者は主郭周辺・竪堀・折れを持つ土塁・千畳敷・宗鏡寺砦(すきょうじとりで)などで、戦国期末期の有子山城築城期に改修されたものと考えられる。
此隅山城は、守護大名山名氏の居城というだけでなく、南北朝期から戦国期の城郭遺構を良好に残している遺跡として、平成8年11月13日国指定文化財の史跡に指定された。
平成20年3月 豊岡市教育委員会
山頂に向かい進む。
なにやら遺構がある。
尾根筋を進む。
曲輪。
更に進んでいく。
このように堀切が沢山ある。
土塁跡。
たいぶん傷んでいる。
もうすぐ山頂付近。
景色も開けてくる。
曲輪が多いのが特徴。
山頂に到着。
切岸。
眼下には田園風景が広がる。
本丸部分。
本丸自体は簡素である。
此隅山城全景。
出石神社
但馬国一宮出石神社由緒
出石神社は、天日槍命(アメノヒボコノミコト)が新羅の国よりお持ちになりました八種の神宝を出石八前大神として、また天日槍命の大御霊を御祭神として斎祀しています。
天日槍命は、古事記、日本書紀ともに新羅国王の王子であり、日本に渡来されたとし、その事績は記紀のほか古語拾遣、播磨国風土記等にうかがうことができます。
八種の神宝とは、古事記には珠二貫、振浪比礼・切浪比礼・切風比礼・奥津鏡・辺津鏡と記しています。
天日槍命のご子孫には、田道間守命や神功皇后があります。
神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によりますと、およそ1300年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたことがうかがわれます。
但馬の国一宮として当地では別名を一宮(いっきゅう)さんと呼び親しまれています。
天日槍命は泥海であった但馬を、円山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、また殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めています。
現在の社殿は大正3年に再建され、透塀で囲まれた三間社流造の本殿、その前面には切妻造りの幣殿と祝詞殿があり、拝殿は舞殿形式で、入母屋造り平入りで蔀戸をつり、正面に拝殿の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は、他に類のない珍しい建築です。
神門は丹塗の八脚門で、数多くの蟇股を飾り、左右に連なる塀も丹塗りです。
境内東北隅に約600坪の禁足地があり、老樹が生い茂り、入れば祟りがあるといわれています。
位置関係
余湖図【此隅山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【此隅山城】
城の概要
此隅山城跡 出石町宮內,袴狭
宮内集落の北東、標高一四三・七メートルの独立丘陵 (此隅山)に所在し、宮内集落との比高は約一三〇メート ル。
城域は南北約七五〇メートル・東西約一二〇〇メ― トルと広大で、山裾の御屋敷(居館)を両翼から包込むよ うな鶴翼の陣形を呈している。
「こぬすみ」とも読み、子盗とも書いた。
但馬の守護大名山名氏の居城として周知されているものの、その築城時期を史料によって確定す ることはできない。
伝承では文中年間(一三七ニ~七五)山名時義が築いたというが(但馬発元記・但馬一覧集)、応安五 年(一三七三)但馬守護職に新補された山名師義築城の可能 性も指摘され、さらに城の麓に宗鏡寺の寺跡が所在することから、明徳の乱で敗退した山名氏清(法号は宗鏡寺段) による築城説もある。
此隅の名称は「照千一隅、此則国宝」(山家学生式)から採用したものであろうとされている。
永正元年(一五〇四)夏には山名致豊と垣屋続成との抗争が再燃し(城崎郡日高町の→楽々前城跡)、続成が致豊・田結庄豊朝の立籠る此隅山城を攻めている。
このとき出石神社に軍勢が乱入して火災が起こり、社壇・堂舎・仏像・ 経巻・末社諸神が焼失している(九月一二日「田結庄豊朝添 状」,大永四年八月日「沙門某出石神社修造勤進状」神床文書)。
天文九年(一五四〇)には祐豊と塩治左衛門尉が策謀し、長善秀(越前守)を「このすみ山■■御前」で自害させている (長福等古記写)。
永禄一二年(一五六九)八月、織田信長の命を受けた木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)らが生野銀山(現生野 町)を接収し、「子盗、垣屋城」など一八城を攻略している(八月一九日付「朝山日乗書状案」益田家什書)。
なおこれま での研究では山名氏の守護所は一六世紀初頭(改豊・致豊の代)に九日市(現豊岡市)から当城下の御屋敷に移動したとも考えられている。
御屋敷は山名該豊・祐豊の時代まで使用され、天正二年(一五七四)山名氏が居城を有子山域に移すまで守護所として機能したものと思われる。
(縄張りと特徴)
当城は最高所に位置する主郭(南北四二 メートル・東西一五メートル)を中心にして、そこから派生す るすべての尾根に階段状に曲輪を構築する放射状連郭式 の曲輪配置をしているところに特徴がある。
主郭の南側 には一七×一一メートルの曲輪を構築し、そこから南に 延びる尾根に一六×二二メートルの曲輪をはじめとする 四段の曲輪、南西に延びる尾根に一〇段の小曲輪と大規模な千畳敷とよばれる曲輪(二六×ニ七メートル)を配置して いる。
主郭北・北東尾根には五段の大規模な曲輪(一九×ニ八メートルなど)と十数段の小規模な曲輪群を、主郭の西 尾根には比較的大規模の四段の曲輪(一一×ニ四メートル、 一五×ニニメートルなど)と一〇段の小曲輪群を構築している。
とくに折れをもつ土塁で囲続された細長い曲輪(一二 ×ミバメートル)と、その北斜面の堀切・堅堀は新しい要素を有し、この尾根は西に向かってさらに約八六〇メートルほど延びているが、そこにも三十数段の小曲輪群を構築している。
さらに主郭の南東尾根の先端部には深い堀切で尾根を断切り、その前面に七段の曲輪を配置した砦 (宗鏡寺皆)を構築している。
この砦は千畳敷とともにその 北側に位置する御屋敷を防御するために設けられたものと思われる。
縄張りは大別して長さ一〇メートル内外の小さな曲輪、 浅い堀切、低い段差をもつ曲輪が構築されている部分と、 長さ二〇メートルを超える大きな曲輪、一〇メートルほ どもある高い段差をもつ曲輪、深い堀切、折れをもつ土 塁、竪堀などが構築されている部分とに分れ、前者は南 北朝から室町期にかけて造られたものと思われる。
後者 は主郭周辺・堅堀・折れをもつ土塁・千畳敷・宗鏡寺砦 などで、戦国末期の有子山城築城期に改修されたものと判断される。
なお山麓には守護所と考えられる広大な御 屋敷(東西約一一五メートル・南北約一六五メートル)があり、 三段からなる平地や土塁をもつ大手門などの遺構が残存している。
『兵庫県の地名』より引用。
此隅城
此隅城は出石町宮内にある。
この城は但馬守護大名の山名氏の本城であったが、城の西山麓に古代但馬の開発神である天日槍を祀る出石神社があり、山名氏以前は出石・豊岡盆地の穀倉地帯を支配下に置いた勢威者の居住地ものと思われる。
出石神社のある宮内集落から此隅山を眺めると、城跡は丘陵地の先端部にあり、そこは標高一四〇mの独立した山地である。
頂上にある本丸跡には石塁も土塁も遺存していないが、南北四〇m、東西一〇mの長方形の城郭跡があ り、また南北線上に数か所の郭跡が確認される。
宮内集落からはゆるやか な秘線を持つ山であるが、反対側の袴狭集落からみると、山容ががらりと 変わる。急斜面の切り立った谷が数本に分かれ、中腹に巨岩の露出する部 分もあって、その険しさから城の裏側は自然の要害に守られていたものと 思われる。
山名氏が歴史上に登場するのは南北朝の争乱期で、山名時氏が最初、名和氏と対抗しつつ伯耆を制圧し、しだいに東進して因幡・但馬を押さえて 但馬を本拠とし、足利直冬党に属して南朝方(宮方)になったりして、実力で支配圏を拡大し、最終的には二代将軍足利義詮と和睦してその征服地域の守護職を安堵させるという巧みな処世術を示し、これを足掛かりに山城・丹波・丹後・美作・隠岐・出雲・但馬・因幡・伯耆・和泉・紀伊の一一 か国の守護を一族で占め、六分一殿と称せられるまでに成長した。
そして 時氏の子時義が但馬山名氏の初代となった。
ところで、山名時義が一族の宗家を継ぐことになったことは山名氏の嫡流師義の子満幸や時義の兄氏清を強く刺激し、山名氏内に不和が生じた。
三代将軍足利義満はこの山名氏の内証につけ込んで、強大な勢力を誇る山名氏 を押さえようとしたことから明徳の乱(明徳二年、一三九一)が起きた。時義の 子時凞、満幸の弟氏幸の活躍はめざましかったが、山名氏清は京都の内野で戦死し、満幸はいったん出雲に逃れて降伏した。
また氏清を助けた兄義理は兵を挙 げなかったが、領国紀伊を没収された。
氏清・満幸・義理の領国八か国を失っ て、山名氏に残った領国は、時凞の但馬、氏幸の伯耆、時凞の従弟である氏家 の因幡を加えた三か国のみとなった。
時凞は永享五年(一四三三)に家督を子の持豊(宗全)に譲った。
この頃、山名氏の領国は但馬・備後・石見・安芸・伊賀のほか二か国、計七か国にまで回復していた。
そして持豊は同十二年に赤松満祐に代わって侍所別当となったが、 在任中の嘉吉年(一四四一)に六代将軍足利義教が、播磨守護の赤松満祐に殺 されるという嘉吉の乱が起こった。
この時、持豊は侍所別当として将軍の身 辺を警備する最高責任者に列していたので、面目は丸つぶれであったが、彼の立場を救ったのは、一族の山名凞貴が死をもって将軍義教に尽くしたことであ った。
持豊は侍所別当を辞して本国但馬に帰り、戦備を整えて播磨に進入して は満祐・教康父子を城山城に攻めてこれを倒し、その功によって赤松氏旧領 の播磨・備前・美作を山名一族の領国に加えることに成功した。
持豊はその女を管領細川勝元に嫁がせ、これと連携し、政界に隠然た る勢力を築いたが、晩年に応仁・文明の乱(応仁元=一四六七から文明九=一四七七)が起こると、西軍の総帥として東軍の総帥細川勝元と対立した。
東軍は二〇か国一一万人、西軍は二四か国一六万人の軍勢を動員して洛中・洛 外に戦火が波及して、名社大刹や市中の住宅の過半が焼失した。
文明五年(一 四七三)三月に持豊が七十歳で病没し、また同年五月に細川勝元が四十四歳で 急逝したが、なお対立は続き、同九年に西軍の大内氏が戦勝将軍の礼をもって 西帰し、足利義視が美濃に去って戦火はようやく収まった。
室町時代の守護大名は原則として京都にあって幕府に仕え、政務を分担した ので、守護大名として在国するのは領国の行事や事件があった時ぐらいであっ た。
山名一族も宗家として此隅城にどれほど在城したかは明らかでないが、嘉 吉の乱後、将軍家と山名氏の間で赤松氏の再興をめぐってしばしば意見が衝突し、持豊が但馬に隠居することで将軍義政の怒りが解けたといわれ、享徳三年 (一四五四)から長禄二年(一四五八)までの四年間、持豊は京都への復帰を願い つつ此隅城に在城した。
一方、応仁の乱にまぎれて赤松政則は旧領三か国の支配を回復した。
これに 対して持豊の跡を継いだ孫の政豊は、その奪回をめざして文明十六年(一四八 四)に播磨に侵入し、数年にわたって戦闘が続くが、結局は得るところなく撤退せざるをえなくなり、守護としての地位は、こののち急に衰弱化する。
此隅城主は政豊の子致豊、その弟誠豊、誠豊の子祐豊と承継されたのち、永禄十二 年(一五六九)に織田信長の軍勢によって落城したと伝えられる。
城の歴史
文中年間(1372~75):山名時義が築いたという。
一六世紀初頭(改豊・致豊の代)に九日市(現豊岡市)から当城下の御屋敷に移動する。
享徳三年 (1454)~から長禄二年(1458)までの四年間、持豊は此隅城に在城している。
永正元年(1504):山名致豊と垣屋続成との抗争が再燃し続成が致豊・田結庄豊朝の立籠る此隅山城を攻めている。
永禄12年(1569):織田信長の命を受けた豊臣秀吉が「子盗、垣屋城」など一八城を攻略する。この時此隅山城も落城する。
天正2年(1574):居城を有子山域に移す。
城主家系図
所感
●山名惣領家にふさわしい山城。
●城域は広く全てを確認することが出来なかった。
●堀切や土塁もふんだんに使用されている。
●城が堅牢でも家臣団の掌握が出来ないと結局内憂で城が保てないことが分かる例。
関連URLあ
有子山城の前の城。
参考URL
参考文献
『豊岡市の城郭集成Ⅱ』
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/08/28