城データ
城名:鶴城
標高:112m
比高:110m
築城年:永享年間(1429~41)
城主:田結庄氏
場所:兵庫県豊岡市山本字鶴ガ城
北緯:東経:35.555629/134.829005
攻城記
愛宕山登山口から攻城する。
登り口。
途中の風景。
妙見堂の建物が建っていたと思われるが今は無残な状態になっている。
愛宕妙見堂跡。
鳥居は今もひっそりと佇んでいる。
先を進む。
豊岡市指定文化財
史跡 鶴城跡
〈城史〉
鶴城は南北朝期から戦国期にかけて円山川下流域に勢力を振るい、「山名四天王」の一人に数えられた国人・田結庄氏の居城である。
伝承では、永享年間(1429~41)の但馬守護山名宗全による築城であるという。
天正3年(1575)10月に起こった野田合戦で垣屋豊継らに攻められ城主・田結庄是義は、菩提寺の(旧)正福寺で自害した。その後、天正8年(1580)まで豊継の支配するところとなった。
〈縄張り〉
鶴の後尾部にあたる主郭Ⅰの背後を2段の堀切で切断して城域を確保し、北西方向には土塁を多用した曲輪を配置し、南方向には大きい曲輪(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)を配している。
愛宕神社南側の尾根には小曲輪を多用し、曲輪Ⅵのあたりは土塁と竪堀で防御している。
特徴的なのは、主郭Ⅰの北側と東側斜面には戦国期特有の畝状竪堀を設けて防御を堅固なものにしていることである。
城域は、南北660m、東西460mを図る大規模なもので、国人・田結庄氏にふさわしい規模と縄張りを有し、但馬でも有数の城郭である。
〈愛宕神社・宝城寺跡〉
元和5年(1619)、城跡に愛宕大権現を勧請、別当寺として宝城寺が置かれ、豊岡城下の辰巳にあって歴代領主家の祈願所となった。
明治以降、宝城寺は廃され、代わって愛宕神社が置かれた。
平成7年3月 豊岡市教育委員会
何かしらの記念碑の跡。
比高もあり景色もいい。
本丸跡。
城域は広い。
本丸にある神社。
愛宕山とある。
本丸から北にある曲輪。
降りたところから本丸を見上げる。
卵塔墓がある、この墓は住職の墓なのでここに寺があったことが分かる。
宝城寺の跡。
更に先端部分に進んでいく。
更に進んでいく。
城域の先端部分。
麓の天神社。
位置関係
余湖図【鶴城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【鶴城】
城の概要
鶴城跡
位護と城史
超城は円山川と六方川との合流点、船町・山本集落東鍋、標高約115mの愛宕山に所在する。
集落との比高は約110mを測る。
城域は広く、東西約330m、南北約525mを測る。
当城が鶴が羽根を広げたような曲輪配置をしていることからか、「鶴城」と呼ばれている。
鶴城主は、山名氏の有力国人田結庄氏である。田結庄氏の出自は明らかではない。
一説には円山川河口部の田結庄(豊岡市田結) 出身で、永享のころ(1429〜40)但馬守護山名持豊が築き、その家臣田結庄左馬助に命じて守備させたという(『但馬の城」)。
建武4年(1337) 6月、田結庄城が北朝方の仁科蔭人将監・伊達貞網らによって攻められている(伊達貞編軍忠状「但馬伊達文書])。
この時の「田結庄城」は山本の鶴城かどうかは不明。
永正元年 (1504)夏には、但馬守護山名致豊と楽々前城主垣屋続成との抗争が再燃し、続成が致豊・田結庄豊朝の立籠る此隅山城を攻めている(田結庄豊朝添状・沙門某出石神社修造勧進帳「神床家文書』)。
永禄12年(1569) 8月、信長が「雲伯因三ヶ国合力」として木下秀吉・坂井政尚勢2万人を但馬に送り込み、生野銀山を接収すると共に、山名氏の本域である此隅山城・垣屋城(楽々前城)など18城を攻め落とした。
田結庄城(鶴城)と観音寺城(鶴ヶ城)は抗戦し攻略を免れているが、秀吉の相域(付城)に包囲され、近日中には落城するであろうことが記されている(朝山日乗書状案『益田家文書』)。
天正3年(1575)10月、田結庄是義と垣屋豊続が激突した「野田合戦」によって、田結庄是義は自刃する(『但州一覧集』『但州発元記」)。
その様子を一次史料で確認することはできないが、同年11月24日付八木豊信書状(『吉川家文書』)の中に「田結庄表に於いて、垣駿(垣屋豊続)一戦に及ばれ、勝利を得られ候間、海老手の城今に異儀無くこれを持たれ候、御気遣いあるべからず候」と記されており、垣屋豊続の勝利に帰したことが分かる。(旧豊岡市・城崎町の城郭の特徴」を参照)
『豊岡市の城郭集成Ⅰ』豊岡市教育委員会より引用。
鶴城跡豊岡市船町・山本
円山川とその支流六方川の合流点北東部の愛宕山(一 一 五メートル)に立地。
日撫谷を挟んで南側の丘陵上には支 城として位置付けられたとみられる備後衆山砦跡が残る。
当城は永享年間(一四ニ九~四一)以後に但馬守護山名持豊 が築き、被官田結庄氏の居城としたと伝える。
建武四年 (二三三七)六月二一日、田結庄城が北朝方に攻められてい る(同年七月日「伊達義網軍忠状」南禅寺文書)。
この田結庄城 は円山川河口部田結庄中のものだが、永禄一二年(一五六九)八月に羽柴勢が攻めた田結庄城(同月一九日「朝山日乗書 状案」益田家什書)は当城とみられる。
城は南北に延びる丘陵の尾根を大規模な堀切と堅掘で 切断し、その前面に城域を設定している。
主郭は東西一 九メートル・南北二一メートル、曲輪の東縁に土塁を構え、主郭から三方に延びる尾根の北西側に八段、南側に 一二段、西側に五段の曲輪を連郭式に配置、城域は南北 五〇〇メートル・東西四〇〇メートルに及ぶ。
主郭の東 および北側は一六本の畝状竪堀を配しているが、これは 天正三年(一五七五)と推定される一一月二四日付の八木豊 (垣星駿河實) 信書状(吉川家文書)中に「於田結庄表、垣駿及一戦、被得 勝利候」とあるとおり、山名氏被官間の相克で田結庄氏 が滅亡、代わって鶴城が垣屋豊続(駿河守)の支配下に入ってからの築造とみられる。
同七年七月二七日付の吉川元春等連署書状案(同文書)には「田結庄山下垣屋播磨守宅所とあり、江戸時代の但州二方郡城主時代記(竹中家文
書)は「垣谷駿河守殿但馬一国不残御知行、御城下豊岡田井庄ニ御居城」と伝えている。
天正一三年八月二日付の六地蔵村川網場・山境等契状(河本家文書)には鶴城郭仕切として「筑後殿ナル」「駿河殿ナル」「本丸」「二ノ丸」「蔵屋敷」の地名がみえ、現行小字地名には鶴ヶ城(山本)・殿屋敷(船町)がある。
天正八年羽柴長秀(秀長)の但馬進攻によって摩下宮部善祥房が一時期当城に入ったとも 伝えるが(「覚」山本村文書)、その時点で廃城となったもの であろう。
元和五年(一六一九)二の丸跡に愛宕大権現を勧請、別当寺として真言宗宝城寺を置き(同覚)、明治四年 (一八七一)廃寺に伴い愛宕神社へ移行。
平成八年(一九九六)三方から本丸跡に至る遊歩道が整備された。
『兵庫県の地名』より引用。
鶴城
鶴城は豊岡盆地の中央部東縁に位置し、円山川本流と六方川とが合流して急峻な岩山に突き当たる要害の地にあるが、水運の便にも恵まれた地点である。
城主の田結庄氏は円山川河口部に位置する城崎郡田結庄を本貫地としたので、 田結庄氏を名のったという(『校補但馬考』)。
田結庄氏は南北朝時代に山名氏の 但馬国進出の折に山名氏に服属した土着豪族と考えられている。
田結荘城は、 建武四年(延元二、一三三七)には、小俣来全に攻略されている。
赤松満祐が将軍足利義教を殺して播磨で軍を構えた嘉吉の変に際し、幕府の 侍所の一人、山名持豊はいち早く但馬の軍勢を整え、播磨に侵入し、満祐を討 ったが、この時の軍監に田結庄対馬守がいて軍功を立てた。
対馬守は応仁の乱 に際しては垣星・太田垣・八木氏らと共に京都の西陣におり、在所では鶴城に あって旧城崎郡を掌握した。
また、永正元年(一五〇四)の播磨攻めに失敗して帰国した山名致豊を、垣屋一族が此隅山城に攻めるという内乱に際しては、田結庄氏は致豊方に立っている。
但馬国守護山名祐豊の頃になると、尼子・毛利・織田三氏の勢力の間を渡り歩くまでに山名氏は褒徴した。
山名氏家臣団の間にも織田氏との連繋を主張す る田結庄派と毛利氏と連繋を求める垣屋氏派とに分かれての確執が生じ、ついに天正三年(一五七五)十月十五日、田結庄是義の 居城「鶴城」は鶴ヶ峰城(日高町観音寺)の垣屋光成を総領とする垣屋一族によって攻撃された。
是義軍は城を出て、円山川を隔てた野田田圃で戦闘を交えたが敗れ、この戦闘で小田井県神社も焼失した。
光成らは城を囲み、力尽きた是義は正福寺に入って自害した。
『校補但馬考』にも採録されている地元の 軍談記によると、田結庄氏と垣屋氏の確執はおよそ次のようである。
(1)田結庄氏は左近将監是義の代になって、垣屋氏の勢力範囲である美含郡を併合しようと策謀しており、このため、垣屋一族との間に対立抗争が絶えなかった。
(2)天正三年六月十三日(一書には五月三日ともいう)、山名祐豊は長谷(豊岡市長谷)で、かきつばた見物の宴を開いた。
宴たけなわの頃、鶴ケ峰城主垣屋光成の家臣が鉄砲で鳥を撃ったが、その流れ弾が是義の幕の中に落 ちたため、是義は光成の家臣を捕らえて殺した。
(3)光成は復讎の決意を胸に秘めていたが、十月十五日、是義が大原山(豊 岡市岩井・養寿院)に参詣しているすきに垣屋一族が兵を集めて鶴城を囲 んだ。
城内の妻子はようやく逃れ、城は落城した。
是義は大いに驚き、帰 って敵を攻めたが、敗れ、正福寺に入って自害した。
また異説として、元亀元年(一五七〇)に亀城(豊岡市森津)城主の垣屋駿河守豊続が、大原山養寿院に参詣している時、是義は養寿院を囲んで豊続を自殺させたので、その子重興は大いに怒り、是義を攻めて殺したともいう(因幡垣屋系図)。
山頂には江戸時代に宝城寺があり、明治年間以降は愛宕神社となったが、城郭跡は相当変容していると思われる。
主郭は三六m×七一mと二四×二九m の南北に並ぶ二段の郭で構成され、さらにその北側には小さい堀切を隔てて一 段高い一五m×一八mの詰の郭がある。
主郭の周辺部や山腹の随所に郭があり、 尾根続きの先端部の日搬・山本(二か所)にもそれぞれ郭が設けられている。
田結庄氏の居館は円山川に近い城の西麓にあり、殿屋敷の字名が残っている。
また近くには屋敷の地名や厳島神社・馬場跡もあったが、昭和年間初めの円山川改修によって河川敷となった。
さらに谷を隔てた日撫地区には備後衆山とよばれる小規模の城郭がある。
備後も山名氏の守護国であったから、備後衆がいたと伝えられる鶴城の出城であ ろう。
田結庄氏の菩提寺であった正福寺は城の東麓、国道一七八号線豊岡トンネル 上にあり、そこには五輪塔が散乱している。
正福寺の近くの山際には田結庄是義の墓と伝えられる高さ二・四〇mの宝篋印塔があるが、これは南北朝時代末期のもので、時期が合わない。
『日本城郭大系』12より引用。
所感
●田結庄氏の城であったが、同じく国衆の垣屋氏に攻められて落城。
●城域は広く、山城として完成されている。
●本丸には愛宕神社があるが、江戸時代にはこの付近に宝城寺があり、城域も大幅改変している可能性がある。
関連URL
主家である山名氏が管理していた城。
参考URL
参考文献
『豊岡市の城郭集成Ⅰ』
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/08/22