城データ

城名:鷲影城

標高:422m

比高:280m

築城年:応永15年(1408)前後か

城主:髙橋氏

場所:島根県邑智郡邑南町阿須那

北緯:東経:34.866102/132.631560

鷲影城はここ

 

 

攻城記

鷲影城全景。

比高も高く登り口も無い。

このような感じでどこから登ろうか思案する位大変。

麓には人が生活していた痕跡がある。

神社もあるが、人影が無い。

こんな感じで登るのが困難な状況。

途中まで登ったがこれ以上は難しいと思い断念。

 

位置関係

藤掛城とはこのような位置関係になる。

 

余湖図【鷲影城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

独立峰上の西側に主郭を設けている。

 

そこを取り巻くように配された腰郭間の連絡が良い特色ある縄張となっている。

 

ただし、主郭から東方に伸びる稜線上の郭間には堀切が設けられ、東端の郭群との連絡を遮断している。

 

東端の郭群は、西側に設けられた主郭に対して独立したものといえよう。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

鷲影城

鷲影城は阿須那の町尻大庭の地の背後、出羽川の深い峡谷にあった。

 

標高四二〇m、比高二四〇mの山城で、山頂にはL字形の広い削平地があり、 北方は急崖が出羽川に落下し、南方は戸河内の細長いが豊かな田園地帯の入口 に位置していた。

 

藤掛城が出羽川流域の支配を目的としたのに対して、鷲影城はその支流長田川の上流一帯(戸河内・長田)の支配と、合わせて藤掛城の背後 を防備したものと考えられる。

 

『日本城郭大系』14より一部引用。

 

 

城の歴史

応永15年(1408):石見阿須那藤掛城主・高橋貞光の招きで近接の神稲郷大庭の鷲影城主となる。

 

嘉吉元年(1441):鷲影城主であった高橋頼之、頼久がこの戦いに参陣する。

 

長禄2年(1458):頼之父子はこの益田兼堯の招きで益田庄へ移る。

 

享禄2年~3年(1529~30)頃:当時鷲影城主だった高橋盛光が毛利元就の調略により、主家である興光をだまし討ちにする。

しかし、毛利元就から誅殺される。

※ただし疑問点も多い。

 

 

伝承 軍原のこと
大永享禄のころ毛利元就は、当時この地方に一大勢力を有していた高橋氏を配下に入れようと考え虎視眈々として高橋氏の動静を伺っていた。

これを知ってか高橋興光は山陰の雄尼子氏に密かに意を通ぜんとす。

 

これを察知した元就は、この際興光を滅亡しようと策謀をめぐらし、鷲影城主高橋弾正盛光に「高橋興光をよい手だてによってその首をとれば、高橋氏の所領を汝のものと認め末長く協力することを誓う」との密書を送った。

 

受け取った盛光は元就の謀略とは気づかず、興光謀殺を決意してその機を伺っていた。

 

時は享禄三年十二月四日、備後の入君城を攻めていた興光は、正月を故郷で迎えようと一部の者を従えて帰路につき、口羽から出羽川沿いに三三五五我が城藤掛城を仰ぎつつ軍原にさしかかった。

 

盛光は今こそ好機到来とばかり腕ききの部下達を軍原に森陰に伏せておいて息を殺して興光の到来を待つ程に、神ならぬ身興光は盛光の裏切りなど知る由もなく軍原につくや「ワッ」とばかりに盛光軍の伏兵が襲いかかった。

 

不意をつかれて驚きながらも興光は疲労困憊の部下を激励して獅子奮迅の戦いも衆寡数せず全身創痍興光はもはやこれまでと、鎧甲を脱いでそばの松の枝に掛け大岩に上り悠然と腹かき切って果てた。

 

これを見て盛光大いに喜び「これで高橋の所領一切が我がものとなった」と興光の首を持って犬伏山に出陣していた毛利の武将に得意満面で「お約束の興光の首を持参しました。

 

この上はお約束の遺領&の誓約書を賜りますよう」と内心お賞もと期待していたが思いのほか「汝高橋本家相続人であり元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと。かかる犬武士は生かしてはおけぬ。直ちに誅せよ」と言って誅し首を斬られ後犬伏山に葬たと言う。

 

現在も犬伏山の麓に盛光の墓と言われる墓石が苔むして建っている。

 

邑南町教育委員会

 

ただし疑問もある
以下疑問点。

 

阿須那に残る伝説によると「興光は都賀西の丁(よぼろ)城を攻め取り、ついで備後の入君の城を奪取り、阿須那の川沿いに帰途についた」ところ、戦原で弾正盛光に討たれたという。この話には二、三疑問の点がある。

 

(1)元就が久喜松尾城、長田の槇尾城を攻略して阿須那庄を脅かし、犬伏山に布陣している危急存亡の秋に、どうして他方面に出兵できるのか。

 

(2)たとい出兵するとしても都賀西の丁城は小笠原氏の重要拠点で攻め難いし、備後の入君の城はあまりにも遠い。

 

(3)出羽川沿いに帰途についたのではなく、本拠幡屋城から前線藤掛城へ督動に出かけたのではないか。

 

(4)系譜の高橋弾正盛光は「本城弾正左衛門、尼子侍大将、天文九年芸州討死」(石見誌本城系譜)と記してあるように、高橋滅亡に関係はなく、興光を襲ったのは別人である。

 

(以上『羽須美村誌』より引用556P~557P)

 

城主家系図

 

西国の山城(鷲影神社)を参照。

 

 

所感

●登城口も無く直登しか方法が無いため途中で断念。

 

●山頂には櫓台のようなものがあるようなので、藤掛城と同様の築城があったかもしれない。

 

●伝承では主君である興光を裏切り毛利に寝返った武将として描かれているが、後世の脚色の可能性も否定できない。

 

●初期の城主である貞頼系と滅亡間近の盛光は系統が違う、また世代的にずれている。

 

関連URL

【島根県】藤掛城【邑智郡邑南町阿須那】

主家である興光の居城。

 

参考URL

西国の山城(鷲影神社)

島根県邑南町の城跡(高橋盛光墓所)

石見髙橋氏(ウッキペディア)

武家家伝石見髙橋氏

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『萩藩閥閲録』

『羽須美村誌』

『石見誌』

『邑智郡誌』

『広島県史』

『島根県の地名』

『日本城郭大系』14

『石見の山城』

公開日2021/08/15

 

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