城データ
城名:浄土寺山城
標高:47m
比高:35m
築城年:鎌倉時代
城主:古志氏
場所:島根県出雲市下古志町
北緯:東経:35.336939/132.740372
攻城記
現在妙蓮寺の付近が山城跡になっている。
標識がポツンとある。
妙蓮寺も曲輪だったのかもしれない。
浄土寺山城の矢竹。
上に登っていく。
山頂にある社。
ここら辺が本丸か。
周辺部。
浄土寺山城全景。
位置関係
城の概要
出雲国・隠岐国守護の佐々木泰清の九男義信が地頭として古志郷に入り、鎌倉後期に古志氏と改称して浄土寺 山城を構えたと推定される。
城は標高わずか四七メート ルで、山上に甲の丸、一段下って一の平があり、円井戸 が残る。
大手口は真北約五〇〇メートルの居館に向かい、 麓の堀は今の十間川である。
搦手は宇賀池が堀の役割を果し、南方は切岸をもって区切られ、一の平の南丘上に 馬場跡がある。
水は保持石谷から井手を引いた。
居城を 南の標高一三四メートルの栗栖山へ移したのは元弘-建武年間(一三三一~三八)という。
『島根県の地名』より引用
浄土寺山城
浄土寺山城は出雲市下古志町の南方約一㎞の所にある日蓮宗の古刹妙蓮寺の 裏山にあった。
標高四七mのやや小高い丘で、前面には平野が広がり、背後の くりす 山には概森城・栗栖城が存在した。
この両城と当城とは「古志三城」といわれ、 古志氏に属する山城であった。
当城の歴史は定かではないが、城主は古志氏とされている。
古志氏は佐々木氏の一族で、鎌倉時代末期から生産力の豊かな古志郷を本拠として、室町時代にかけて土豪として成長していった。
『三刀屋家文書』によると、明徳四年(一 三九三)に三刀屋氏が古志氏の「古志高陣」(古志三城のどれに当たるかは不明) を攻めたとあるので、この頃までに構築されていた可能性が強い。
廃城の時期 は、『雲陽軍実記』によると、時代が下って元亀元年(一五七〇)に古志氏が毛 利氏に降った時とされており、また、『佐々木氏系図』には「其後慶長五年毛利家義之時古志舞代々之本領ヲ立退ク」とあり、十六世紀後半と考えられる。
遺構としては、長く延びる尾根の上に大小さまざまの郭が二十数か所存在し、 長期間にわたって使用されたことを物語っている。
なかでも妙蓮寺の裏山には 二五m×九mの主郭をはじめ多くの郭が集中しており、また、寺の敷地面より 一段上にも大規模な平坦地が存在するが、ここには居館などの重要な施設が置 かれていたものと推定される。
当城は神戸川の出口を押さえ、かつ神門水海から平野への進入を防禦するなど、この平野南部において軍事的に重要な役割を担っていた。
『日本城郭大系』14より引用
城の歴史
元仁2年(1225):古志義信によって築かれた。
建武年間(1334年~1338年)には栗栖城を築いて移動した。
城主家系図
城主石高
1591年頃の石高
古志新十郎(豊永) 500.024 備後 恵蘇
古志因幡守(重信) 200.196 備後 御調
所感
●城は古志氏初期のものでそこまで大きなものではない。
●現在は妙蓮寺のある場所の裏山にある。
●古志氏は出雲守護大名である佐々木氏の庶流で(初代義信は泰清の九男)で神門郡古志を領して古志氏を名乗った事に始まるという。
関連URL
古志氏中期の城。
古志氏後期の城。
参考URL
参考文献
『島根県の地名』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『日本城郭大系』14
公開日2021/07/11