城データ
城名:栗栖城
標高:108m
比高:80m
築城年:建武年間(1334年〜1336年)に浄土寺山城よりこちらに移動してきたと伝わる。
城主:古志氏
場所:島根県出雲市古志町
北緯:東経:35.329779/132.745914
攻城記
久奈子神社を上がったところにある。
神社本殿。
攻城開始。
古志の田園風景。
上がっていく。
大堀切。
栗栖山城
栗栖山城(放れ山の西)を築いてから約60年経った建武年間(1335)のころ、ここに移築したものである。
爾来古志氏が、約200年・12代にわたり城主となり、この地を治めた。
主郭部の東部分は、18m×9m、西部分は20m×11mで、その西側は「切崖」を施し、東側には郭が4つあり、北に廓が続いている。北、東、南は極めて峻険で、神戸川西岸の要衝である。
地元では、昔からこの山のことを要害山と呼んでいる。 籠城の時の用水は、南方、上新宮の「きりや峠(たわ)」に水源を求め、城まで井手を造り、本丸の「圓井」へ水を入れていた。
現在の久奈子神社のある場所は、籠城の時、城主の妻子等が仮住まいした館跡であると思われる。
元亀元年(1570)12代重信は、毛利の軍門に降り、稗原の土蔵(戸倉)に移城し、4,500人はいたと考えられる。家臣は離散し出雲古志氏の時代に終わりを告げた。
平成元年10月吉日
本丸から見た田園風景。
休憩所から展望できる。
主郭。
第一郭。
第二郭。
第三郭。
第四郭。
切岸。
位置関係
余湖図【栗栖城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
丘陵の麓にあるこの城の説明版には、久奈子神社のあたりに館跡があったと伝える。
しかし、城全体の形からは、櫃森神社のあたりに考えるべきだろう。
久奈子神社の西側に、中国自然歩道となった旧備後街道が通るが、現在の栗栖城はここまで広がらない。
浄土寺山城移転後の古志氏の居城と伝える。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
城の歴史
1331~1335年 古志高雅が居城を浄土寺城から栗栖山城に移す。
室町初期 古志義綱は隠岐山田別府・美作綾部郷・近江佐々木庄伏松を所領とした。さらに、足利氏に謀叛を起こそうとして誅殺された、出雲守護塩冶高貞の旧領地の塩冶郷も所領とした。
明徳2年(1391):古志義綱が明徳の乱に参加する。
文正2年(1467):古志為信が神門郡稲瀬頼庄安原を日御埼神社に寄進する。
文明15年(1483):主家である山名政豊が播磨に進駐し、古志為信も備後の兵を率いてこれに従う。
文明16年(1484):幕命により出雲守護代・尼子経久の追放が決定、古志為信は幕命を奉じ、三沢・三刀屋・朝山・広田・桜井・塩冶などの国人たちとともに富田城を包囲、経久を追放する。
文明19年(1487):播磨の戦況が不利に傾き、山名氏の播磨での拠点・坂本城が陥落の危機に陥るが、この防衛戦に古志為信が奮戦、しかし乱戦の中、父・美作守久信など一族が討死にする。
永正9年(1512):古志為信が備後国松永郷に侵攻し大内軍と戦う(大内義興が管領代となって京都におりその隙を突く)、しかし毛利興元が古志の居城大場山城に攻めて落城する。
天文6年(1537):古志宗信が比布智神社「歌仙三十六枚」を寄進。
天文9年(1540):古志重信は尼子軍として吉田郡山城を攻める。
天文9年(1540):古志吉信が近江国竹生島明神遷宮に際し、尼子晴久の命て寄付奉納が行われることになり『竹生島奉賀帖』にも「古志左京亮」の名があらわれてている。
天文24年(1555):古志宗信が比布智神社を造立する。
永禄元年(1558):古志重信が尼子晴久に従い小笠原長雄の温湯城、本城常光の山吹城の救援に赴く。
永禄5年(1562):このころ毛利の軍門に下る。
永禄13年(1570):尼子再興軍につき毛利に反旗を翻すが結局は出雲大社両国造から降伏を勧められやむなく毛利に降った。
天正19年(1591):このころ古志から備後御調に所領を変更され古志から離れる。
慶長5年(1600年):関ヶ原の後帰農する。
城主家系図
城主石高
1591年頃の石高
古志新十郎(豊永) 500.024 備後 恵蘇
古志因幡守(重信) 200.196 備後 御調
所感
●出雲の豪族として歴史のある国人。
●城の規模は大きくはないが初期の浄土寺山城よりははるかに優れている。
●北の郭に行きたかったが藪化で断念。
●現在古志氏は出雲地方には数軒しかいないが福山市(備後古志氏)には40~50軒いる
関連URL
古志氏初期の城。
古志氏後期の城。
参考URL
参考文献
『島根県の地名』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2021/07/11