城データ
城名:中城
標高:199m
比高:190m
築城年:戦国時代か
城主:香川次右衛門(香川勝雄)
場所:広島県広島市安佐南区緑井
北緯:東経:34.479270/132.476068
攻城記
城域は公園になっており道なりに数百メートル進むと堀切がでてくる。
堀切。
本丸の下あたり。
本丸を望む。
周囲の地形(堀切か)
土塁。
本丸の南の曲輪
※二の丸に相当か
別の角度から。
そのまま進む。
石積の痕跡。
本丸の南東の堀切。
本丸から東にある曲輪。
本丸。
現在は公園になっている。
眼下を見下ろす。
本丸からみた二の丸。
open-hinataより【中城】
西が曲輪の跡だが、東の尾根にも曲輪っぽいものがある気がする。
余湖図【中城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』中城
城の概要
城の遺構は、最高所の1郭、南~西に土塁を巡らした帯郭状の郭群とその南西の郭群、堀切を挟んで東側にある郭群から構成されている。
背後の堀切は横堀状に1郭の西側を巡り、そのまま西下に下る竪堀につながる。
城主は香川次右衛門と伝えられている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
香川次右衛門について
ウッキペディアの情報を転載すると。
永正12年(1515年)に安芸香川氏の一族として生まれたと言われている。
15人力の剛勇の士として知られ、主君香川光景に仕えていた。香川氏が毛利氏に従うと、勝雄もそれに従い、数々の戦で活躍した。
永禄12年(1569年)、尼子勝久率いる尼子再興軍は、出雲国・伯耆国の旧尼子勢力を結集し、美作国に侵入、毛利氏の守る高田城への攻撃を開始した。
高田城を守るは香川光景、広景、春継。しかし城内には元尼子の降将が多数おり、内応者が続出し苦境に立たされた。
香川勝雄はその混乱に乗じて攻撃を加えてきた尼子・三浦連合軍と、その支援に来た宇喜多勢と戦い、討死した。勝雄の奮戦によって、高田城は落城を免れた。
阿生山の大蛇退治の伝説
享禄5年、(1532年)、まだ勝雄18歳の頃、香川氏の所領である八木荘(現・安佐南区八木)に怪物のような大蛇(龍とも言われている)が出没し、八木荘を荒らし回っていた。
勝雄は主君の香川光景から大蛇を退治するように申し付けられ、同年2月27日、巨大な大蛇を退治して、一躍勇名を馳せた。
しかし大蛇は退治される寸前に勝雄に呪いを掛け、盲目にしてしまった。困り果てた勝雄は、近くにある湧き出た泉で目を洗うと、その目が見えるようになった。
その後、その泉は眼病に効く霊験あらたかな水として知られ、その泉は蛇王池と呼ばれ、現在でも水が湧き出ている。退治の際に使った刀は、安芸香川氏の祈祷所であった光廣神社に奉納されていたが、現在は失われている。
光広神社。
『芸藩通志』には 「中城 緑井村にあり、香川次右衛門所居、一に又衛門に作る」と記載されてある。
大蛇のあご骨!!
昭和48年7月15日中国新聞
城の歴史
この城が戦に使われた記録は無いが、城の規模が予想よりも広いと考えられており、城主が香川氏(八木城香川氏の一門)としては規模が大きいとも言われている。
この地域を治めていた、武田氏の有力家臣の居城か、詳細は不明。
城主家系図
香川一門であるが、どの系統なのかは不明。
父は香川勝直とされているが、詳細不明、母は香川三郎頼景の娘とされるが年代が合わない。
所感
●城主は八木城の香川家の一族で八木城と隣接している。
●城の曲輪を降りていけば宇那木神社麓に出ると考えられる。
●行くのが困難な城かと思っていたが実は途中まで車で行けて尚且つ公園化していた。
●緑井は本来武田の重臣であった品川氏の所領があった、どうして八木の香川氏の一族がこの地にいたのか疑問であったが戸坂城を調べている中で判明した。
①1541年に安芸国守護である武田家は毛利に攻められて滅亡。
②当然重臣であった品川氏も滅亡、もしくは逃れていったものと思われる。
※因みに彼の孫は山中鹿之助と一気討ちをした品川大膳と言われているが軍記物なのでどこまで信頼性があるかは疑問。
③その後香川氏は毛利氏の配下になり、その関係で緑井にも所領が与えられたのではないであろうか?
香川氏も武田水軍の一員として活躍しており一族は仁保城の戦いで陶氏を破っている。
④城自体は品川氏の城でのちに香川氏が改修しているのかもしれない。
※あくまでも個人の感想です。
●どうも、城域は現状の縄張図よりも広いらしい情報もあるので興味は尽きない。
関連URL
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『陰徳太平記』
『広島県の地名』
公開日2021/05/01