城データ
城名:岩国城
別名:横山城
標高:214m
比高:210m
築城年:1601年
城主:吉川氏
場所:山口県岩国市横山
北緯東経:34.175434/132.174246
攻城記
ロープウェイでさくっと頂上まで行ける。本来はこの石垣の上に天守閣があった。
現在の天守閣は1962年にコンクリートで再建。
岩国城は周囲を石垣に囲まれた近世城郭の為じっくりと攻城開始。
周囲を散策すればこのような石垣の跡は沢山ある。
城の裏側を降りていけばこのような石垣群に出会える。
400年経過で崩れているところもあるが、しっかり残っている。
このように周囲を石垣で巡らせている。
野面積みの様であるが、しっかり崩れていない。
ここら辺はしっかりと加工されている。
こんなところをウロウロしている観光客はいない。
ちょっとした白塗りの壁があるだけでも全然雰囲気が違う。
外周も整備したらきっと雰囲気が出ると思う。
一旦天守閣まで戻る。
この角度の岩国城もいい。
天守閣付近からみた岩国の町並み。
当時はこの麓まで海であった。
再度周辺を散策。
ここらへの石垣はしっかりと築かれている。
江戸時代の感じが出ている。
瓦の残骸。
いい石垣のアングル。
このアングルもいい。
佇むと当時の雰囲気を感じられる。
最後はロープウェイで降りて帰る。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
岩国城下の西北にある城山の北端部、標高二〇〇メー トルに位置し、錦川が東麓を北から南に半周し要害の地 を形成する。
平常の居館ではなく、北方一里ばかりにある周防と安芸の国境の備えとして、吉川広家が慶長八~ 一三年(一六〇三~〇八)に築城した。
地元では横山の城・ 横山城というが、一般には岩国城といわれる。
城郭は方五〇メートル余の本丸を中心に、西南の二の 丸、北東の北の丸、二の丸の先の尾首、本丸西下方の水 の手、北の丸の先の尾崎と、合わせて六区画よりなる。
本丸北隅の四層三階の天守は、その上にさらに方二間半 の物見を据えた。
様式は桃山風南蛮造といい、第三層の 床面積が第四層より小さい。
本丸には別に三階と称した 三層の矢倉と番所・長蔵、東側に門があり、門外東角に も矢倉があった。
二の丸は一段低く、東西に長屋が並び、 東側に大手の大門と矢倉が設けられていた。
西南端の尾 首にも矢倉、水の手には対釣井と番所、少し下った所に小釣井があった。
本丸と北の丸の間に大きな空堀を設けその北側の縦堀とともに城郭を南北に仕切っていた。
北の丸北端の裏門は上千石原方面へ通じ、尾崎の番所と矢倉は搦手を固めていた。
石垣の高きは二間から三聞半、 石材は城山の主峰護館神の辺りや、その背後の石切場か ら運んでいる。
また尾首の石組の下を掘り下げ、狄めて隘路とし、さらに人工の谷をつくり、切通しと称した。
山下への通路は切通しから御土居の北門へ通じるも のと、少し西へ迂回して自山神社へ下るものとがある。
尾根を主峰護館神の方へ行けば三差路とな り、西へ下れば御庄。
南へ行けば川所、さらに分れて寺谷へも下ることができた。
吉川広家は築城後直ちに城番を配した、だが元和元年(一六一五)六月、一国一城 の制によって、毛利家の分家である吉川家は城をもつことができなくなり、山上の城郭は取り壊きれた。
城の歴史
慶長5年(1600):関ヶ原の戦いに敗れ毛利一族の吉川広家も米子から岩国に封じられる。
慶長6年(1601):吉川広家が赴任し築城開始。
慶長7年(1602):麓に土居が完成。
慶長13年(1608):岩国城完成。
元和元年(1615):一国一城令により廃城となる。
城主石高
江戸時代は3万石であった。
所感
●築城からわずかな期間で廃城になった城でここにそのまま存続していたら現存天守になっていたかもしれない。
●ロープウェイで山頂まですぐにいけるので簡単便利な山城。
●普通の観光客は天守閣だけ見て帰るが周辺は石垣で固められておりぐるっと一周するとその規模に驚く。
●岩国城と安芸国亀居城(福島正則が築城)とはとても近く、福島正則は毛利が攻めてくることを念頭にその防備の為に亀居城を築城したと考えられる。
※直線距離で12キロ弱、わずか数時間で到達できる距離。
●当時は麓まで海であった。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系14』
『山口県の地名』
公開日2021/01/30