城データ
城名:瀬戸山城
別名:赤穴城,藤蔓城,衣掛城,藤釣城
標高:631m
比高:170m
築城年:永和3年(1377)
城主:赤穴氏、松田左近
場所:島根県飯石郡飯南町下赤名上市
北緯東経:34.994328/132.721794
攻城記
麓の看板。
城の歴史。
道の駅からみた赤穴城。
登山道があり分かりやすい。
最初に松田左近の墓がある。関ヶ原以降に堀尾氏の所領となった出雲国にて城番としてこの赤穴城を守る。
ただし、松田左近将監吉久とあり、白鹿城の城主であった、松田吉久のことではないかと考えられるが近江国出身とありおかしい。
比高はそこそこあるが、1時間もかからずに城郭地帯までこれる。
石垣の跡も若干あるが破城で形跡をとどめていない。
大手門跡:階段状の石が並んでおり、関ヶ原前はさぞかし立派な山城だったと推測できる。
佇むと当時を想像出来る。
石段はしっかりと残っている。
第四郭跡。
付近には破城された石垣がある。
石垣の大きさも大きく、破城前はしっかりとした石垣で整然と並ばれていたと考えれば壮観だったに違い無い。
第二郭跡。
そこその広さがある。
第二郭跡石垣。
第三郭跡:第二郭跡からは一段下がったところになる。
雰囲気もよくこの壁面全てに石垣があったと思うと感慨深いものがある。
第三郭からのアップ画像。
一番の見所である石垣。
南西郭群
本丸付近の石垣。
本丸。
本丸から二郭を望む。
本丸も雰囲気が素晴らしい。
本丸から見た赤穴の城下町。
赤穴城の歴史。
縄張り図。
石垣スポット。
東郭群。
しっかりとした造り。
更に奥に進んでいくと武名ヶ平跡の看板がある、城自体は更に登っていかなければいけない。
東端の部分になる。
赤穴城全景。
近くには赤名氏の墓地(大光寺)もある。
赤名八幡宮。
武運長久を願ったに違い無い。
赤穴八幡宮説明。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の説明板
尼子氏(安来市広演町月山富田城)と中国地方の覇権を争う周防の戦国大名大内義隆は天文十一年(一五四二年)正 月、自ら総大将となって尼子討伐の軍を興した、大内軍の襲来を前に、出雲の諸豪族が大内方に降る中、赤穴氏(飯南町赤名尼子方)は尼子への厚思に思いるべく 大内軍との戦を決意する。
天文十一年三月、赤穴攻略を前に石見国出羽二つ山城に集話した大内軍は毛利元就らの安芸勢をはじめ、石見・備後の諸将を併せ、四万の大軍となっていた。
これに対し赤穴氏は神戸川を堰き止め城下を湖水化。尼子氏の本地地月山富田城からの援軍一千を併せ二干の兵で籠城線を展開し、地の利を活かして大内軍を翻弄する戦いを繰り広げた。
二ヶ月に及んだ攻防戦の末、赤穴瀬戸山城の城主光清は戦死、城は開成した が、出雲攻略の緒戦となったこの戦で大 内軍を長期にわたって足止めしたことは、 来るべき月山富田城における決戦で尼子 方を勝利へと導く要因となった。
城の概要
出雲、石見、備後国の境界に位置する。出雲国へ、天文十一年(1542)に大内義隆、永禄五年(1562)には毛利元就が攻め込んだ時の主戦場として知られる。
赤名氏歴代の居城とされるが、現在残る遺構は近世初頭の総石垣の城郭である。
主郭は最高所と考えられるが、石垣は「破城」によって破壊されている。特に街道に面した石垣は完璧に破壊されており、根石も確認出来ない。
その他の面は石垣のコーナー部が数か所確認出来る。
主郭の南方に連なる郭にも石垣が築かれているが、これらは上部の破壊にとどもあっている。
虎口は数カ所で確認出来、特に主郭南側の虎口は城門がたてられていたものと考えられ、敷石が残存する。
城域の端の方に普請の不十分な遺構を見ることが出来るが、これは改修強化の際、城外として放棄されたもので、赤名氏の時代の遺構とも考えられる。
麓の小学校敷地は居館の跡と考えられる。
最終改修者は堀尾氏と考えられ、現集落の各所に近い近世城下町の痕跡を見ることが出来る。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
城の歴史
永和3年(1337):佐波常連によって築城が開始され、歴代の赤穴氏の居城となる。
天文11年(1542):大内義隆率いる四万の出雲遠征軍(陶氏、毛利氏ら)に包囲される。
尼子、赤穴連合軍は神戸川を堰き止め、城下を湖水化し、籠城を挑んだが結局敗れて開城する
永禄5年(1662):月山富田城(尼子氏)攻略を企て毛利元就らが赤名へ侵攻。
赤穴城(赤穴氏)は毛利軍が布陣した武名ケ平城と対峙。後に赤穴氏は毛利氏に属する。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いの後、松田左近将監吉久は、堀尾吉晴から瀬戸山城を賜る。
吉久は城番として入城し、石垣と天守閣をもった近世城郭への改修と城下町赤名の移設を行う。
元和元年(1615):一国一城令の発令後しばらくして廃城となる、堀を埋め、石垣を壊すなど意図的な城郭機能の破壊が行われた。
城主家系図
赤字は惣領家である佐波氏、青字は瀬戸山城主である赤穴氏。
城主歴史
応永6年(1399):大内義弘が反乱を起こした応永の乱に佐波氏と共に出兵。
応永18年(1411):飛騨国司姉小路氏の幕府への反乱=飛騨合戦に佐波氏と共に出兵。
文明2年(1470):赤穴幸清が神西城攻撃をし家来十数人が討死する。
永正15年(1518):守護の京極氏に代わり守護代の尼子氏と主従関係を結ぶ。
大永7年(1527):赤穴光清が尼子勢の配下として備後の毛利攻撃に参加。
天文9年(1540):赤穴光清が尼子晴久による安芸吉田合戦に参加するが、大敗に終わる。
この戦いで大内陣営にいた熊谷直続が討ち死にする。
天文11年(1543):大内軍が尼子氏征伐を行う、この時尼子配下であった赤名氏の居城である赤穴城を攻略する。
城主赤穴光清は赤名川を堰き止めて赤名盆地を湖水として大内軍の行く手を阻んだ。
この戦で毛利の家臣である熊谷直続を討ち取る、しかし、戦で敵方に喉咽を射られて討死。
光清の討死によって父である赤穴久清は大内氏に降伏。
天文12年(1544):尼子の勢力が伸びてきて赤名氏は再び尼子の臣従する。
※尼子氏は赤穴氏を自己の陣営にとどめようとし、旧領安堵のうえ数々の恩賞を与える。
永禄5年(1562):毛利氏が赤穴峠より出雲に侵入、赤穴盛清は毛利軍に降伏する。
この時に雲州・石州などで合わせて二百六十貫文を毛利元就・隆元によって宛行われる。
雲州飯石郡之内六重百貫、同郡内神白四拾四貫、同郡内 多久和本郷内五拾貫、石州阿濃郡内行恒七拾貫之事進置候、全可有知行候、仍一行如件
永祿五年八月甘二日
隆元 御判
元就 御判
赤穴右京(久清) 亮殿
天正18年(1590):赤穴(中川)元奇は父幸清の遺領を毛利輝元から安堵され、翌十九年の「天正の石直し」では、千六百六十八石の給地を毛利氏から与えられる。
※詳細は城主石高に記載。
慶長4年(1599):赤穴元寄は名字を赤穴から中川に改める。
慶長5年(1600):関ヶ原で毛利氏が負けて長州に転封、この時に中川元奇も同伴する。
城主石高
「毛利氏八箇国御時代分限帳」によれば668石541となっている。
萩藩閥閲録では1668石.17石となっている。
巻37の1中川与右衛門
赤穴久内とのへ
「赤穴久内殿」
雲州飯石郡之内打渡之事七百拾參石壹斗一升七合 赤穴郷
九百五拾五石 來嶋之内
以上千六百六拾八石壹斗一升
天正拾九年九月廿五日
治部大輔 (穂田)元清 御判
式部少輔(福原)廣俊
飛驒守 (渡辺)長 判
肥前守 (林)就長 判
与三左衛門尉 (佐世)元嘉 判
太郎右衛門尉(二営)就辰 判
与三右衞門尉 (内藤)元榮 判
安國寺惠瓊 判
赤穴久内殿
赤穴久内は中川元奇のことである。
所感
●これだけ歴戦の国衆としても所領からの直接、兵として動員できるのはせいぜい500人位だと考えられる。
●瀬戸山城は周りが総石垣造りとなっているが、それは堀尾氏の支配となってから本格的に整備された時になったものと考えられる。
●本丸からの景色は眺望もよく、城下町もよく確認できる。
●佐波氏から分かれた一族であるが、赤穴氏も来島氏などの庶流を出している。
参考URL
参考文献
「赤穴町史」
「島根県の地名」
「日本城郭大系14」
「毛利氏八箇国御時代分限帳」
公開日:2020/12/31