城データ
城名:出張城(ではりじょう)
標高:35m
比高:25m
築城年:室町時代前半か?
城主:白井氏
場所:広島県安芸郡府中町
北緯東経:34.394359/132.510309
攻城記
現在整備はされておらず、平削地が残っている感じ。
草木が無くなれば少しは分かりやすいかもしれない。
下を見下ろした風景。
比高はそこまで高くは無いが当時このあたりは海であった、前方の山が庶流である白井越中守が居た仁保城。
麓の看板。
看板付近の平削地、このあたりも城域になると思われる。
武田元信知行安堵状
安芸國仁保嶋海上諸公事、同飯山後浦悉大河迄、幷府中散在分古市村等事、
任代々御判之旨、父加賀守親胤譲白幷縫殿助光胤、知行不可有相違、守先々儀、
可令全所務之状如件
明応四年拾月十七日 (武田元信判)
千葉氏白井加賀守親胤之碑
open-hinataより【出張城】
余湖図【出張城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
出張城縄張り図
「府中町史」より引用。
城の説明板
出張城跡と白井氏
出張城跡は、室町時代中頃の応永年間(1394~1428)に下総国から安芸国に移り、瀬戸内水軍となった白井氏の城跡と伝えられている。
出張城の呼称は、現宮の町一丁目と同三丁目堺の古山陽道沿いを出張市と呼んでいたことから、字名にちなんで近世に命名されたものと思われ、中世の史料には府城・国府城・芸府城などと記されている。
城は本丸を中心として数段の郭を設けているが、現在では出張城は一族の拠る仁保城(広島市黄金山)とともに広島湾頭において銀山城の防禦線の役割を果たしていた。
ところが周防大内氏の支配権が及んできた大永年間末(1527)にはその配下となり、佐東郡牛田・山本などに領地を与えられ、海上でも一層活躍している。
しかし天文20年代以後(1551~)は次第に毛利氏に領地を奪われ、活動の拠点もこの地から離れていったものと思われる。
城の概要
城跡は東から延びる丘陵先端ピークにあったが、現在は宅地化により独立丘陵のように見える。
1郭は30m×25mの規模をもち、南下に現在墓地となっている2郭(10m×10m)がある。
2郭の西下に25m四方の3郭、南下に4郭(21×15~11.5m)がある。
3郭と4郭の段差は1mで、ともに畑として利用されており、3郭南隅には五輪塔がある。
広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用
出張城は、標高六四二mの呉娑々宇山から南西に派生する一支丘陵先端部に存在する。
広島湾北東部に位置し、古代の駅衙跡ではないかと推定される下岡 遺跡が北側にあるなど、古くから交通の要衝にあたる地域であった。
応永年間、下総国から下向した白井加賀守胤時が築き、白井氏は以後、八代 百七十年にわたって府中一帯を支配したという。
この白井氏は、太田川の河口、 広島湾頭を抑えて海上に延び、周勝国、伊予国方面にも勢力を伸ばした。
同氏は初めは安芸国守護家武田氏の下で活動し、明応四年(一四九五)には仁保島海上で公事を徴収する権限なども与えられていた。
大永年間(一五二一~二八)以 後には大内氏の麾下に入って海上でいっそう活躍するが、厳島合戦後も大内義 長に味方していたため、府中の本領を毛利氏に占領されたが、のちには許され て毛利氏の配下に属している。
城は、本丸を中心に南に向かって数段の郭を設けているが、現在は畑地・宅 地となって往時の面影に乏しい。
北端の最高所に位置する本丸は幅二〇mメ長 さ三〇mの大きさで、南に一段下って幅二五mメ長さ四〇mの郭が存在し、こ こには五輪塔が三基認められた。
さらに東下方面にも郭が認められる。
城の北約一〇〇mには、白井氏の菩提寺と伝えられる長福寺(曹洞宗)が右 、長福寺は、白井氏の前は安芸の在庁官人であった田所氏の菩提 たという。
城の東方、尾首には房胤の首を洗ったという首洗い池がある。
また 大正年間までは馬場や門の跡が残っていたというが、開墾が著しく、現在は不 明である。しかし、いまでも山腹・山麓から武具・墓石・人骨などが出土する という。
『日本城郭体系13』から引用
城の歴史
応永年間(1394~1428):この頃に千葉氏庶流の白井氏が下総国から安芸国に移り住んだので築城されたと考えられる。
文安2年(1445):「武田方被官白井備中申云・・・・」東寺百合文書、とありこの頃までには居城となっていたと思われる。
明応8年(1499):「武田元繁外九名連署状」毛利家文書第一六六号
白井弾正太夫元胤とある。
『大日本古文書 家わけ第八 毛利家文書之一』より引用。
大永2年(1522):大内義興が武田氏を攻める為に周防から来襲する、仁保島が攻撃されるが府中城からも応援したと考えられる。
大永7年(1527):大内義興が再度仁保島を攻める、この時に仁保白井氏は武田氏から大内氏に寝返る。
※しかし、この出張城の府中白井氏は依然武田氏側についていた。
【詳細】
3月7日~4月7日:仁保島が攻撃を受ける。
4月24日:仁保島白井氏が大内方へ寝返る。
5月5日:大内方が出張城を攻撃する。
5月6日:城の西籠屋を破られる。
5月12日:この頃まで城を死守する。
5月13日:武田勢が白井氏を守るため加勢し大内軍と松笠山にて激突。
6月21日:攻防戦が続く。
7月:大内軍が出張城攻めを中断する。
享禄元年(1528):7月に再度大内軍が鹿籠(府中町鹿籠)に布陣し出張城を攻めるが、大内義興が病没し撤退。
天文9年(1540):安芸武田氏滅亡する、このころ落城か。
「芸藩通志」には出張城府中村にあり、白井氏数世據守す、天文年間、大内氏に攻められ、城落るという、陶殿陣ば、陶が留営の地なりという。記載されており、安芸武田氏の滅亡とともに出張城白井氏は退去したものと考えられる。
追記
ただし、「芸藩通志」には千代山の項に、「出張城落城後、白井備中が子萬五郎は大内氏に降参せしゆへ、当城を守らしめが後毛利に滅ぼされると云う」と記載がある。
これは
天文20年(1551):大内義隆が家臣の陶晴賢に謀叛をさせられ自刃、これ移行白井氏は陶氏の家臣となったと考えられる。
天文23年(1554):毛利元就が陶晴賢と決別する、当時仁保城主だった白井賢胤は陶氏の家臣であった為、毛利氏から攻められて追われる
とあるので、大内陣営に残っていた白井備中守系統が毛利と抗戦する中で滅ぼされたと考えられる。
城主家系図
城主石高
詳細不明であるが府中村の石高は1619年当時で約1856石であった。
出張城の白井氏が府中村全域を治めていたのであればおおよそこれくらいはあった可能性も否定出来ない。
ただし、全て所領では無いと思われるのでやはり不明。
『芸藩通志』に加筆修正
出張城と千代城がある。
所感
●当国から地頭としてきたと思われるが出張城の白井氏は滅亡しているので詳しくは分からない。
●城として整備はされておらず、草木も覆っているのでイメージしにくいが当時は近くまで海岸線があり海上警備としての性格を有していたと考えられる。
●郊外宅地化されており、往時を偲ぶものは少ない。
●白井親胤の碑があり五輪塔が残っていることから少し雰囲気が伝わる。
●近隣には多家神社があり神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。
関連URL
参考URL
参考文献
「府中町史」
「大日本古文書 家わけ第八 毛利家文書之一」
「芸藩通志」
「安芸武田氏」河合昭一著
公開日2020/12/20
最終更新日2023/05/07