はじめに
広島県には己斐(コイ)氏呼ばれる苗字がいる、その発祥は現在の広島市西区己斐の地名が由来となっているが、現在己斐地区には己斐姓はおらず、安佐北区白木町三田に密集している。
中世には厳島神領衆として地域の国衆としての地位を確立しリーダー的な役割を少なからず果たしていたと思われる。
しかし、一方で武田氏と大内氏の勢力争いの渦に巻き込まれて苦労したこともあり、安定することは少なかったのかもしれない。
最終的には、毛利氏の支配下に入り、戦国末期の1590年頃には己斐理右衛門興員が二の丸の防衛責任者になる。
ここに、文献等や周りの状況から己斐氏の行動を詳細に確認して、戦国時代に己斐氏がどのように発展していったかを調査してみたいと思う。
まずは、各己斐氏の調査と共に、近隣の史跡や関連する豪族も含めて調査研究を行ってみたいと考える。
第1章 己斐の地名の起こり
第1節:己斐という地名の成り立ち
「己斐」は鎌倉時代以来の歴史ある地名で、その由来についてはいくつかの説がある。
一つは神功皇后が長門の熊襲族征討に際してこの地に立ち寄ったとき、県主が大きな鯉を献上したので「鯉村」と称したというもの(国郡志下調書出帳)、「山間の村」を意味する「峡村」(かひむら)が変化したというもの(秋長夜話)、古くは「許斐」とも書いたことから筑前宗像の「許斐神社」と何らかの関係を有するというもの(芸藩通志)、などである
註:「ウッキペディア」己斐から引用。
旭山神社に奉納されている県主が神功皇后に鯉を献上している絵馬。
この時、皇后が、大変喜ばれたので、この地を鯉村としていたが、和銅6年(713)に元明天皇が「二字佳字の詔」の通達を出して、鯉から己斐に変更したとも伝わる。
第2節:己斐という地名の初見
次の文書に「己斐」という村名がある。
1、伊都岐島社政所解(報告書)正治元年(1199)作成のもの。
2.田所集注進状案(田所文書)十三世紀半頃作成のもの。
『府中町史 資料編』189頁より引用。
朱書きの部分に「己斐六郎左衛門入道」と記載されている。
3、足利尊氏の「安芸国己斐村除五分壱寄進状」貞和4年(1348)の日付のもの。〔(県)御判物帖 55〕。
出典:『広島県史 古代中世資料編Ⅲ』 34~35P
第3節:神領地としての己斐
己斐は貞和4年に足利尊氏から寄進され厳島の神領地となったが正治元年(1199)には厳島神社,国衙に当年分の御供田を申請〔(県)新出厳島 24〕。している。
すでにこの地は厳島の神領地だったことが分かる。
この文書は、厳島社政所が安芸国衙に対して、正治元年(二光)分の朝幣田を初めとする、各種御供料にあてるための免田の支給を申し請うたものである。
当時、国衙が厳島社の祭祀に一定の責任を負い財政上では免田支給を行うたて前であり、慣行化していたと思われるが、正治元年の段階では、免田の支給申請が年ごとに行われていたことを推測せしめるものである。
この文書から平安時代にはすでに己斐は厳島の神領地だったと推測される。
『廿日市町史資料編』25頁から引用。
しかし、宝徳2年(1450)には安芸国守護の武田信繁に己斐村が押領されていることが分かる。
『廿日市町史資料編』103Pから引用。
第2章 己斐村と己斐氏
第1節:鎌倉時代の資料からの己斐氏の推測
出典:府中町史 2巻 268Pより引用作図
※新勅旨田公文の系図とその推移
己斐氏の先祖は佐伯氏と言われる、古文書資料から1つ1つ確認をしたいと思う。
嘉禄2年(1226) 安芸国新勅旨田預所下知状案
出典:『府中町史 2巻』 172Pより
〈注記〉古代末・中世の安芸国には「新勅旨田」と称する十四町八 反六〇歩の小さな散在性庄園があった。
この史料はその存在を示す 最古のものである。
公交佐伯孝清は有力な在庁官人で、田所氏と同族であった。
佐伯氏は公交職を世襲してきたが、嘉禄の頃には公文による年貢の滞納・減額が顕著になっていた。
天皇家では定使に年貢の御倉への完納を確認させ、上納の促進を図った。
年不詳、鎌倉時代初期~中期 安芸国衙領注進状
『府中町史 資料編』189Pより引用。
孝清七反 己斐六郎左衛門入道と記載されており佐伯孝清と己斐六郎左衛門入道の繋がりが指摘される。
『府中町史 資料編』191頁より引用。
高清二反大「佐西孫三郎」 清基一丁「己斐六郎左衛門入道」と記載されている。
これらの中で己斐氏関わるところを抽出すると以下に表になる。
出典:府中町史 2巻より作図
年不詳 安芸国新勅旨田年貢未進人注文
出典:『府中町史 2巻』 223P
〈注記〉最後の行の「六郎さへもん入道」は弘長三年の検注帳を作った公交藤原光念であり、この年貢未進人注文は当時の守護―在国司の武田信時に送られたと考える。
新勅旨田の中には、「はりま房」 以下四名の守護の家人領合せて一丁四反三百歩と在国司家人分一丁三反小の未進があった。
ところで検注帳の把握は、はりま房の日下七反小や在国司の耕町九反小から知られるごとく、作人級の小名主であり直接の年貢上納者ではなかった。
また、公交光念の未進四反を在国司家人分とするのは、在庁官人としての彼が守護の家人化していることを示す。
つまりこの頃(13世紀中頃)には安芸国守護である武田氏の家臣となっていた可能性も否定できない。
弘長3年(1263)安藝国新勅旨田損得撿注馬上帳案
永仁4年(1296)安芸国新勅旨田損得撿注馬上帳
最後に佐伯清基と花押がある。
出典:『府中町史 第2巻』224P
〈注記〉この資料は通常「内検帳」と称し、早魃・風水害などの天 災を被ったおりに臨時の検注を行い、その結果を一筆ごとの斗代・ 田積・耕作状況・名主について書きあげたもの。
損田は天災で収穫が減少あるいは不可能になった田地で、新勅旨田の場合年貢の免除 が行われた。
得田は年貢徴収の対象となる定田のうち損田を除いたものをいう。
また、年不はその年の不耕作地を、溝は文字どうりミゾとなっていることを示す。
川成は洪水により耕作不能地となった ものである。
「才」は「損」の略字。資料28の次の文言―「い人」・ 「一人」は「同人」を示すと考える。
永仁5年(1297) 安芸新勅旨田文書案
出典:『府中町史 2巻』 268~270P
(注記)安芸国新勅旨田公交職は、後出資料(37)に「重代之職」とあるように佐伯氏が世襲してきた。
その場合に、父の譲りを得たという事実が大きな意味をもった。しかし光念の嫡子道佛(実清)の死後、弟清基が公交職を継いだ。
資料にも「公交佐伯清基」とみえる。
その論拠は①の第二条のように、父光念から兄道佛をさしおいて公交職の譲りを得たことにあった。
けれども、道佛の子光清も公交職世襲の権利を主張して争った。
そのいい分は、①の第三条 のように、公交職は祖父光念から父道佛が譲りを受けた点にある。
百姓庄官らは光清の主張の正しさを認めた。
永仁6年(1298) 安芸國新勅旨田公文職安堵下文案
註:『府中町史 2巻』271P
(注記)清基が兄道佛のあと公交職に補任されたのは、光清の継母が道佛の重代相伝の文書や手継などを清基に与えたことによる。
それを清基は父光念の譲りと称した。
しかし、資料間(36)の②の第二条にみえるように、公交職は光念から兄道彿にひき継がれ、清基もそれ に文句をつけなかったと在地の庄官百姓らは証言した。
光清に有利な証言であった。結果的には光清が清基にかわって新たに公交職に補任された。
この証言は光清勝因の一つであったかもしれない。
けれども、光清が公交職に補任された最大の理由は別のところにあった。
それは清基が自ら進めた起請文の旨にそむいて、年貢を対捍し預所得分を押領しその上、京に上って種々の乱妨をしたことによる。
聖賢にとって最大の関心は、新勅旨田からいかに効率よく多量の年貢を徴収できるかにある。
このことは資料(36)の①の第一条からもそ の一端がうかがえると思う。
それゆえ、聖賢にとり清基の行為は公文として不適切なものであった。
よって、新たに光清を公交職に補任し年貢以下の臨時恒例の課役を完納することを誓わせることになった。
註:対捍(タイカン)とは命令に従わず逆らうこと、地頭、名主が国司や領主の命令を拒否して年貢の徴収に応じないこと、これに対して農民の納入した年貢米を抑留することを押領という。
永仁6年(1298) 安藝國新勅旨田公文藤原光清請文
出典:『府中町史 2巻』 272~273P
(注記)この請文には道佛や清基が公文であった時代の積弊を改め、新勅旨田に対する東寺の支配を強化しようとする姿勢が如実に示されている。
清基との争いに勝ち公交に補任された光清はその要求を呑まねばならなかった。
つまり、東寺の召命には直に応じ、公文給田若松名内一町以外は段別五升の公事を弁納し、百姓の未進を厳しく取締り正米をもって上納させることであった。
暦応5年(1342) 安芸國在庁藤原泰清申状
出典:『府中町史 2巻』289~290P
(注記)新勅旨田の公交職は光清の他界の後、再度清基の手に移った。
そのあとは清基の子忠清が継いだ。
しかし、忠清は南朝方として安芸守護武田氏に召取られたので、光清の子泰清はそれを機に公文職の補任を東寺に申し出た。
年不詳(1342年以降)11月25日 安芸国新勅旨田公文藤原忠清書状
出典:『府中町史2巻』291~293P
(注記)この史料は年未詳であるが、資料(51)と密接な関連をもつ。
忠清は泰清を公交職に押した預所常陸房の下国のおり歎願し、任料を新たに支払うことを条件に再び公文に補任された。
上記の資料で佐伯孝清(藤原孝清)が己斐六郎左衛門入道として行動していることが分かる、そして彼の子孫は在庁官人として活躍し公文職を世襲していった。
藤原や佐伯を名乗っていることから厳島神主家である藤原氏もしくは佐伯氏に縁のある庶流が己斐村の支配をして神領衆として鎌倉時代を乗り切ったものと考えるが、それでも一族の争いはあり、公文職を一族の間で奪い合っていたことが分かる。
彼らの子孫が室町時代ひいては戦国時代の荒波を泳ぐことになる。
公文とは
荘園においては国衙や領家に対して提出する文書を作成する者を「公文」と呼んだが、後には文書を担当する者以外に対しても広く使われるようになり、荘園の下級荘官の役職として「公文」の呼称が用いられるようになった。
本来は領家より派遣されるのが一般的であったが、のちには現地の事情に通じた開発領主が任命され、公文給と呼ばれる所領給与とともに子孫に継承されていった。
彼らは現地の村々における責任者として荘園ならびにそこに住む百姓を監督する役目を担い、年貢・夫役などは彼らを通じて徴収された。だが、領家・地頭・百姓間において対立が生じるとその間に挟まれて苦慮する立場でもあった。
なお、検注に際して国衙側の公文が持つ土地台帳と荘園側の公文が持つ台帳を勘合する際の事務経費を公文勘料(くもんかんりょう)と呼び、検注時に農民に対して臨時に賦課されて、実際の経費及び実務に当たった荘園側の公文に対する得分(報酬)として宛てがわれた。
註:ウッキペディア公文から
第2節:室町~戦国時代の己斐氏の動向
古文書及び『陰徳太平記』から己斐城や己斐氏について記載されているものをピックアップして経緯を説明する。
なお『陰徳太平記』に関しては軍記物なので脚色や事実と違うものもあるかもしれないが、多くの己斐氏に関しての記述もあり無視できないため、参考程度に記載する。
康正3年(1457) 己斐城を守っていた戸坂播磨守信成
戸坂播磨守信成について
己斐の城の名前が出てくる初見は、武田方の部将として己斐城を守っていた時に、大内勢に攻められて戸坂播磨守信成が討死する事が「大内氏実録」第八教弘の項に記載されている。
具体的には、長禄元年(1457)の同資料に、
長禄元年丁丑春三月、安芸に戦う。廿一日、右田石見守貞俊、安富備後守行恒等釈迦岳城を攻めて之を抜く。夏五月十二日己斐城を攻む。右田弘篤、城将戸坂信成を斬りて戦没す。
出典:『大内氏実録』第八教弘
註:康正3年=長禄元年 改元は9月
とあり、さらに、『毛利家文書』97の康正3年(1457)5月23日、武田国信から備中守毛利熙元にあてた書状には次のようにある。
先度御状に預り、委細披見申候、仍去十四日御状同到来候、何もへ御懇に示賜候、祝着候、其れにつき候ことは、戸坂播磨守事、言語道断次第候、此仁あてかい内々可被及御覧候哉、毎事短慮二あてかい共候間、如此候、覚悟前候、不便之次第、無申計候、定而可有御同心候哉、乍去要害事未もとの如く勘忍候由申候、可燃候、去十四日合戦の趣、委細注進候(後略)
出典:『毛利家文書』97
【大意】
「先だって御書状をいただき、詳しく拝見しました。また、去る14日付けの書状も同じく到来しました。いずれも懇切に(安芸の情勢等を)お示し(お知らせ)いただき、祝着に思います。それについては、戸坂播磨守のこと(戦死したこと)は言語道断の次第(もってのほかの出来事)でした。
この人(戸坂播磨守)にあてがった知行の内容は、内々に御覧になりましたか。そのたびごとに短慮に(熟慮せずに)あてがっていたので、このようなことになってしまいました。
前もって十分に覚悟しておくべきことでした。この上なく不憫に思います。きっとあなたも同じように思われていることでしょう。さりながら、要害(己斐要害)のことは、まだ元のごとく堪忍して押さえておくように申されたとのこと、もっともなことです。」
また、『戸坂村史』68頁に紹介されている『萩藩閥閲録』巻61「宇野与一右衛門系譜」によれば、
大内教弘芸州金山城主武田ト合戦之時、武田方金山ノ端城己斐之城主戸坂播磨守信成近国無隠大力也、弘篤ト組テ弘篤勝レ信成ヲ討取、戸坂力郎党切掛、弘篤終二討死ス、康正三年五月十二日、弘篤二十四歳也
出典:『萩藩閥閲録』巻61「宇野与一右衛門系譜」
とあり、当時の戸坂播磨守は己斐城主であったという。この記述が正しければ「要害」とは己斐城のことだと思われる。
また、武田氏は戸坂氏に対して大内氏との勢力拮抗地帯の土地を知行地としてあてがった、あるいは、あてがう約束をしていたため、戸坂氏が無理な戦いをして討ち死してしまったのではないかと思われる。
そして、その所領は、もしかすると、己斐城周辺にあったのかもしれない。
では、この中に出てくる言語道断な事とはいったい何を意味するのであろうか。
本来であれば「けしからぬ」事であるが、昔は「もってのほか(予想外)」である事という意味で使用されたと思われる。文章に「もってのほか(予想外)」である事とあるので、けしからぬ事をして許さないという雰囲気ではない。
この「言語道断」の解釈について2つあると考える。
1説、己斐城の守城を任しているにも関わらず、右田弘篤に討ち取られてしまい落城したのは、非常に残念でもあり予想外なことでもある。
2説、実は己斐城がなかなか落城できない事を焦り、大内方が調略で戸坂信成に対して寝返りを誘ったのではないか。それに乗った戸坂信成は、子供と共に大内に寝返った事が言語道断(もってのほか)である事とも考えられる
確かに、1説であれば普通の解釈であり、敵と戦い討死する事は戦の世界では当たり前の事であるが、武田氏はそれを不憫に思い、戸坂にいた戸坂氏を存続させたものと思われる。
2説は次の通り考えられる。
己斐城は、厳島神領家の家臣である己斐氏の城であったが、武田氏が勢力拡大の中で併合し城代目付として戸坂氏を送りこんだ。
そのような中で、本拠の城が戸坂にあるにも関わらず、戸坂氏が子を戦の最前線にある己斐城へ入城させておくことは不自然である。
さらにその後、この戸坂信成の遺児は、家来とともに山口県宇部の東岐波村に落ち延びる事になるが、その所領について前出の『宇部市東岐波部坂家文書目録』には、大内氏から除田(租税免除の田地)や宅地を与えられたとある。
さらに前出の武田国信書状の中で、「乍去、要害事未もとの如く勘忍候由申候」とあり、要害なので我慢して押さえておく必要があるような記載がある。
これは、戸坂信成は寝返ったが、己斐城は要害なのでここは我慢してでも再度押さえておく必要があるという事か(戸坂にいる戸坂氏は取りつぶされてはおらず存続している)。
ともかく、ここに東岐波の戸坂氏(部坂に改名)と戸坂にいる戸坂氏とに分かれることとなる。
本来であれば己斐城の城主は己斐氏でなければいけないが、当時己斐村周辺は武田の勢力範囲内に組み込まれており、己斐氏は城主でない状態だったと思われる。
若しくは名目上の城主は己斐氏でも目付として武田氏から戸坂氏が派遣されて実質の城主が戸坂氏だった可能性もあるし、そもそも厳島神領衆としての立場上己斐氏は厳島方(大内方)に味方をしないといけない立場であり、当時己斐城の城主では無かったのかもしれない。
ただし、己斐氏がこの土地を治めている頃から武田氏に従っている節もあるため、当時の己斐氏の対場が親武田氏なのか反武田氏なのかを想像することが難しい。
己斐城が攻められた経緯
安芸国守護の武田氏であったが、その所領は佐東、安南、山県の三郡の分郡守護であって一カ国全てではなかった。
こうした中、勢力拡大を図るべく武田氏が目を付けたのは、隣接する厳島神領地であった。
厳島神領地は佐伯郡に広がっており、その肥沃な土地を押領して勢力拡大をもくろんでいた。
そのような中で、厳島神主家の支配地であった己斐城もいつの頃か武田方に攻められ押領されていたと思われる。
応永4年(1397)には、厳島神主家の訴えにより、室町幕府から武田氏に対し神領地を返還するよう命じられたが、領土は戻されなかった。
宝徳2年(1450)、再度、厳島神主家は武田氏からの所領返還を幕府に訴えたが、当時の幕府を牛耳る細川氏は、敵対関係にあった大内氏に対抗するために武田氏を支援していた。
一方、武力で武田氏に対抗できない厳島神主家は、大内氏に助勢を頼み己斐城を攻めた。
大内氏から見れば長年対立している武田氏を打倒して安芸国の支配権を獲得したい思惑がある。
こうして起こった長禄の合戦は、厳島神主家vs武田という構図ではあるが、大局的にみれば、実際には大内氏rs細川氏(幕府)の戦いでもあった。
出典:河村昭一『安芸武田氏』80-81頁より引用。
結果、己斐城(おそらく己斐古城と思われる)を守っていた戸坂播磨守信成は、大内軍との激しい死闘のなかで、戦場の露と消えていったのであろう。(結局、厳島神領家に助勢し勝利した大内氏もこの土地に魅力を感じ、後に自分の物にしてしまう事となり、己斐氏が城主に復帰するのは、厳島の合戦以降ではないかと思われるがそれは後程説明する。
己斐古城(岩原城)の死闘
『広島史話傳説』によれば、長禄元年(1457)頃、厳島神領地の争奪戦の時に武田信繁が築いた釈迦ヶ岳城が陥落し、続いて大内勢は、武田銀山城の前衛地である己斐城へ向け一隊は陸上から、一隊は海上から殺到し、ここで大決戦を展開した。
敵将大内家の一族である右田弘篤は、一千余攻撃軍とともに旭山山下の波打ちぎわで討死を遂げるほどの大激戦を展開しな城は陥落しなかった。手を焼いた大内軍は、己斐城の守将として武田家から派遣されていた戸坂守信成を買収し寝返りを誘った。「寝返った戸坂氏とともに己斐氏も大内家臣との後戸坂氏と別れて己斐城に戻ったとある。
己斐には千人墓と呼ばれる供養塔がある。これは、長禄元年(1457)から数えて、20年あまり後の安永7年(1778)に建てられたものである。
この墓が実際に大内氏と武田氏との戦で亡くなった戦没者の墓であるかの確証はないが、地元では戦での戦没者の墓として祀られている。
己斐の住民が、過去の歴史における壮烈な戦いを先祖からの言い伝えとして、後の受け継いだ証と推測される。
現在、墓は旭山共同墓地内にあり、墓石の台座の裏には「安永七年 戌 千人墓 五月下旬」と彫られている
己斐の旭山共同墓地にある千人墓。
千人墓は1778年に建立されたが、いつの時代か埋もれてしまし大正時代に発見された。
その経緯を昭和60年に己斐氏の子孫である濱嵜武士氏が語っている。
その年の春、竹の子を掘っていたら、偶然埋もれていた石が出てきたのであった。
埋もれていた千人墓
この埋もれていた千人墓が発見されたのは大正十五年の春である。発見された場所は瀬切石の藤田家(現巌氏)の竹藪である。
それを現在の位置(船着きの奥の現在の共同墓地=旧火葬場)に移健したのは、同年八月お盆を前にして墓道の修理をした時であるから八月上旬である。
運んだのは当月の出役者全員である。
その日、自分は兄(濱崎正登)と共にこの道修理に出役したのである。
当時数へ年十五才の子供で、出役の資格のない自分が出役したには次の事情があった。
即ち、その年七月七日(出役の役一ヶ月前)父彌三郎が歿し、お盆を控えて新しい墓を建てた(これが現在の墓である)墓を建てた以上、墓道の修理出役は当然である。
父が居ないのであるから、母が出るのが当然である。
然し、父の死亡直後であるし、又、逝去前、相当期間父は病臥していたから田畑の方は荒れ放題であった。
その窮状を母は、墓地干接者に訴へた。『わが家として、主婦の自分が出役しなければなりませんが、今のわが家は、御覧の通りの状況です。誠に済みませんが自分の代わりに十七才の長男と、十五才の次男とを出させて下さい。
出不足金はおっしゃる通り出します』ということであった。事情が事情であったので、皆が容認してくれた。家を出る時、母は兄と私にくり返し、この事を話し聞かせて『決して、なまけるな、一生懸命、力限り働け』と言った。
兄も私も、その言葉に背かぬ様、本当に一生懸命働いた。当日の道修理は大変な作業であった。というのはその年の梅雨には、ひどい雨で路面の土砂が流出し、大量の土を運び込まねばならなかったのである。
幸いその土は、藤田氏(戸島)から「藤田氏所有の桃山へ上がる道を新しく開いて貰えるなら、削り取ってもよい」との申出があって、墓道の左側の竹藪を削ることが出来た。その削るのが私と兄に割り当てされた仕事だった。
早初兄と二人で削ったが、私が大いに頑張ったので、私一人で間に合うことが判って、兄も他の人達に加わって、削った土を運搬する側に廻わされた。作業が終わって、休憩の時に、出役の人々の間から話が出て、作業ついでに、藤田の竹藪から出た千人墓を、個人の藪の中に置くことも、如何なものであろうか、とかいうことが。
此の共同管理の墓地に遷すことに衆議一決で、早速運んで来て、建てたものである。重い石の運搬であるから、まだ十五才の私は、直接石に触れることは無かったが、大人達が運搬(担ぎ上げ)から据え付けまでの作業一切を私は見たのである。
藤田巌氏は直接担いだ人の一人である。 その時、居合わせた長老達の言葉で耳の底に残っているのは。「為る=ゐる」
「昔周防と戦争のあった時の千人墓がシギリシにある」という言い伝えは聞かされていたが、シギリシでそんな墓を見たことが無いし、本当のことちゃうん思っていたが、昔からの言い伝えはやっぱり本当だった。
一体何時戦争があったんちゃうん、と口々に語り合っている言葉である。
(濱崎武士 73才記)(昭和六〇年七月一四日)
永正12年(1515) 己斐の要害を取巻く。数ヶ月武田攻むるといへども、銘城故落ちず
出典:『広島県史 古代中世資料編Ⅲ』 房顕覚書 1110P
経緯
「永正12年には武田元繁指揮下の熊谷・香川・飯田・遠藤らの諸兵3千騎に攻められているが、大内義興の命を受けた毛利興元が、後詰として有田城を攻撃し、武田氏勢力圏の背後をついて、己斐城を救っている」
「永正12年6月、これ以前、武田元繁、大内氏に背き、己斐城を囲むも落ちず」座)
「武田元繁、帰国して大内氏に叛き、自己の勢力圏を拡めようと、己斐城を攻撃する」(新修広島市史)ここでも己妻城主の名は書かれていない。
しかし、2年後の永正14年には後記するように、己斐豊後守師道入道宗端が有田で戦っているから、師道入道が城主であったとしてよいであろうし、城も平原城と考えられる。廿日市町史資料編には房顕覚書がのっている。これは重要な資料とされており、その中に次の文がある。
「在時(永正12年の意)東方の為合力、武田元繁神領へ打入発向す。則ち、大野河内城聞逃明る。其以後己斐の要害を取巻く。数ヶ月武田攻むるといへども、銘城故落ちず。」毛利與元が武田の攻撃力を分散させて救ってはいるが、この時期城の守りは整えられていて、固かったに違いない。
この当時の記録にも己斐城の城主が己斐氏とは記載されていない。
ただ、この城が当時大内方の城であった為に武田氏から攻められているので、己斐氏が城主であれば、大内派であり、すでに大内氏が支配していたのであれば己斐城に己斐氏はおらず、武田氏配下として己斐城奪還の為に働いていたとも考えられる。
有田合戦にて己斐豊後守師道入道宗端が武田氏に従い討死したとあるので、この当時も武田氏の家臣としており、己斐城は大内氏の城代がいたと考えたほうが自然である。
因みに当時の己斐城の城代は大内氏の家臣であった。
永正14年(1517) 己斐豊後守師道入道宗端が有田合戦にて討死する
出典:『陰徳太平記』「香川己斐討死の事」、『芸備先哲伝』
有田の戦(山県郡千代田町)については、陰徳太平記にくわしく書いているが、それを要約したと考えられる記事が、芸備先哲伝の中に書かれているのでそれを次にしるしたい。
「己斐師道豊後守師道、入道して宗端と称す、安芸茶臼山に居城す、永世14年丁丑10月22日、芸州探題武田元繁、毛利元就と有田に戦う、此の日師道、元繁を援け、香川行景、粟屋繁宗等と共に、手兵700をて、左翼の山上に陣し、相合就勝・桂元澄等が勢と戦い、之を撃破し、使を元繁に致し、まさに元繁の背後をつきて之を挟撃せんとす、
既にして元繁、又内川に戦死するとの報あり、終に果さず、麾下亦散じて、随うもの二百にすぎず、同夜間行して、今日の山上に至り、篝を焼きて餘衆を招く、
元繁の将、伴入道、同五郎、品川左京亮等集るもの六百、師道、行景と共に衆を説きて、即夜元就の陣を襲いて之をほおり、元繁を弔わん事を以てす、しかれども、品川・栗屋等は、元繁の孤光和を擁立して、再挙を謀らんことを主張し、軍議合わず。師道・行景と共にいいて日く、諸君の説く処、またすこぶる理に当たる、然れども相知るものは、其災厄を相恤(あいあはれ)むといへり、況んや、幕友熊谷元直亦すでに戦死す、徒に生を全うして、万人の指笑を受けんこと、余等の能く忍ぶ処にあらず、されば死して元繁の麾下たるの義を明にせんとすと、
茲に於て、残余の兵を集め、両軍合して三百余騎、23 日未明、有田に陣に元就を襲い、勇戦奮闘して終に斃る、元就其の義を歎惜して措かず、遺骸を求めて之を葬る。
宗端、時に61、辞世の歌に『残る名に かえなば何か 惜むべき風の木の軽き命を』
註:宗端の辞世の歌は、圖書により違いがあり「風に」となっているものもあるが、陰徳太平記所蔵のものによった。
更に同太平記により次の事を加えよう、この時、共に戦って散華した香川兵庫助行景は、まだ33才の若さであった。
その時の辞世の歌はつぎの通りである。
『消えぬとも其名や世々の しらま弓 引きて帰らぬ 道芝の露』
②『師道 手負いて討たれければ 郎等に 己斐源左衛門・河村次郎・水野平八を始めとして、数多一所に討死す』とあり、ここに己斐源左衛門という人の名が挙がっているが、続柄はわからない。
③「元就は、元繁の死骸を求め出せと下知し給ふ所に、元繁の死骸戸板にのせて舁き来りけるを、熊谷・己斐・香川一同に、円光寺と云ふ禅院へ送り、孝養ねんごろに取り行はる。其外雑兵の首共、悉く土中に築きこらめる。有田の首塚といやは是れ也」
上の記載に関して『芸藩通志巻61』「安芸国山県郡五の墳墓の項」に次の記載がある。
「古墓有田村にあり、有田刑部が墓なりと云う。有田の城主小田刑部なるべし、或はいふ、熊谷元直が墓なり。按に、元直等、有田村柴本の合戦敗死の骸は円光寺に葬ると、陰徳太平記に見ゆれど、いまは寺址も知らざれば、孰と定めがたし。
首塚、南方村丁迫山に三所あり。柴本合戦の日、武田家亡卒の首を此に埋むと云、此地有田と遠からず。有田の首塚と云へるは、即是なるべし。」
このように、武田家臣として己斐豊後守師道入道宗端は有田にて討死する。
出典:井上清氏資料
永正15年(1518)~大永元年(1521) 大内氏の家臣が己斐城の城代となる
出典:『広島県史 古代中世資料編Ⅲ』 房顕覚書 1112P
1518年 (永正15年)この年、大内義典が京都か ら山ロヘ帰って来て、厳島の神領を直轄領の扱いにしたので、己斐の城には、城番として内藤孫六がはいって来ている.房顕覚書には次の文がある「神領大内義奥存知 と為す。己斐城番内藤孫六、本城 (石 道本城)に は杉甲斐守、桜尾には此前に島田越中守など城番す」
1521年 (大永元年)には、豊前宇佐郡の弥冨孫十郎依重が己斐城番をつとめた。廿日市町史町史には弥冨依重軍忠状が収録されており、その中に次の文がある。
出典:『廿日市町史 資料編1』647~648頁
「大永元年六月己斐御城番之儀、為百日替被抑出、子にて候五郎六月二登城仕、同到九月遂其節候」~
この軍忠状は依重の 7年間にわたる軍忠を順序に従つて記し、杉因幡守に提出し、大内氏の証判を求めたものであつて、記事は詳細である。
大永5年(1525) 天野興定の家臣である己斐氏が戦功を立てる
出典:『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』 36P
現在の東広島市志和に勢力を持っていた天野氏の家臣に己斐氏が2名いる。
大永5年8月7日には己斐彦七郎が戦で左手に矢疵をうける
。
同8月27日には己斐藤次郎が首1つの手柄を立てる。
【経緯】
8月7日には天野興定が志芳荘奥屋(現在の志和町奥屋)で佐東衆(武田氏)と矢合戦。
8月27日には天野興定が志芳荘別符面(現在の志和町別府)で佐東衆(武田氏)と合戦。
大永のはじめ(1521)になると、出雲の尼子経久が安芸へ侵攻するようになり、興定は他の諸将とともに大内氏から尼子氏へ転じた。
それをみた大内義興は嫡子義隆とともに安芸に侵攻、大内方の将陶興房は加茂郡に入ると天野氏の拠る米山城を包囲した。
当時、尼子氏を離れて大内氏に属していた毛利元就が、大内氏と天野氏の間を仲介して和睦を進め、興定も情勢の不利を悟り米山城を開いて大内氏に降った。
以後、興定は陶興房とともに尼子方と戦い、その忠節を認められて米山城に復帰している。
大内氏との和睦が大永5年頃であり、尼子(武田)から大内氏に下った為、反尼子(武田)氏の立場から武田氏の侵攻を招き、この志和町の奥屋や別府にて撃退したものと考えられる。
又、志和町の南には瀬野町がありこの地域は阿曽沼氏の勢力であったが、阿曽沼氏はまだ尼子(武田)氏に留まっており、武田氏がこの阿曽沼領から奥屋、別府に侵攻した可能性もある。
興味深いのはこの大永5年(1525)当時にはすでに天野氏の家臣としての「己斐」氏の名前があり少なくとも16世紀の初めにはこの地に己斐氏がいたこととなる。
志和町の西隣には安佐北区白木町三田に己斐氏が多くいるが、この白木町三田にいた己斐氏の系統が隣の国衆である天野氏の家臣になった可能性も否定できない。
白木町三田村は厳島の神領であり、同じ神領である己斐村と密接な関係があると考えられるのではないか、己斐村から三田村に己斐氏の庶流が扶植し、さらに隣国の天野氏の家臣となったものがいてもおかしくはない。
伝承では厳島合戦(1555年)のあとに三田村へ来住したとの伝承があるため、来住はそれ以降と考えられていたが、それよりも30年以上前に天野家臣となっていることを考えると、己斐氏の三田村来住に関しては1回でなく、数回以上あり、早い段階で(15世紀頃までには)三田村にいたと思われる。
伝承では、三田村の国衆だった三田氏の家老に「己斐氏」と「野尻氏」がいたという事からも三田氏の家臣にも「己斐氏」がおり、その一部が「天野氏」の家臣になったものもいるのかもしれない。
天文2年(1533) 己斐豊後守直之が武田氏と共に熊谷氏の城である高松城を攻める
出典:『陰徳太平記』「芸州横川合戦ノ事」
広島市西祇園公民館の中に詳細が記載しているため引用する。
【経緯】
承久の乱 (承久2年(1221)) の功績で武田氏は安芸国の守護として祇園・山本 (広島市安佐南区) へ、また、熊谷氏は地頭として可部三入 (広島市安佐北区) が与えられその後、関東から拠点を移した。
以来、熊谷氏は安芸武田氏の配下として最も頼りとする国人領主であった。
特に、武田元繁 と 毛利氏 の間で行われた 永正14年(1517) の 「有田合戦 」 では当主 熊谷元直 は武田方として奮戦したが戦死している。
しかし、元直の嫡男 信直 は武田氏と共通の敵であるはずの毛利氏に寝返った。
その背景には、 『毛利元就 が大内氏より恩賞として与えられた土地を熊谷氏の毛利服属を条件に譲る密約をするなどの懐工作や、“元繁 の嫡男 光和 の側室となった 元直 の子女が高松城へ逃げ帰った時、復縁を断り他家(飯室の恵下城主 三須房清)に嫁がせた』 ことなどがあって、遂に 大永2年(1522) に毛利氏に寝返った。
これに怒った 光和 は 天文2年(1533) 熊谷氏の籠る高松城 (広島市安佐北区可部町) を攻めた。
これが 「横川の合戦」 である。
その戦況は 『陰徳太平記』 に記載がある。 要約すると次のとおりである。
『天文2年(1533) 8月10日 武田光和 は金山城(銀山城)を出て1千騎を二手に分けて,三入(可部) 高松城 に押し寄せる.
大手の横川表 (可部9丁目付近) に光和の妹婿の伴 (安佐南区沼田町伴) 城主伴五郎繁清 を総大将として国人 八木城主 香川左衛門尉光景、己斐城主 己斐豊後守直之、飯田越中守義武、山田左衛門太夫重任、遠藤左京亮利之,福島左衛門義茂等、温科民部左衛門家行,久村玄審充繁安、武田譜代の粟屋兵庫助繁宗、小河内大膳亮、同左京亮、板垣、青木,一条、以下800余騎が三入横川表に押し寄せる。
搦め手は 武田光和 自らが大将として横川表に兵を集中して、無勢となっている高松城は攻め易しと思い、品川左京亮、内藤弥四郎 を先に立てて、兵200人ばかりが馬から降りて、城へ攻め上がる。
一方、熊谷信直 も敵が来ると予想し、あらかじめ横川表に三重の柵を巡らして枝折戸(しおりと)を構え、「作戦をわざと柵より外に進み出て、敵をおびき寄せては退き、敵は勝ちと思い柵を乗り越えて来るところを打ち取るべし」 と下知する。
信直 の弟熊谷平蔵直続、末田勘解左衛門直忠、弟新右衛門直仲、同民部左衛門忠共、同縫殿助、岸添大隅守清員、水落掃部之助、桐原、波多野 等300余騎にて横川表で待ちかまえる。
武田勢は南原川を越え足軽を矢面にたてて矢を射かければ、熊谷勢も射手を出して矢を放つ。
武田勢有利とみて、熊谷勢は退却した。 武田軍奉行 粟屋兵庫助繁宗 は先に立って“団(うちわ)„を上げて「敵は引いているぞ!進めや者ども!一人残らず打ち取れ」と下知すれば、我先に柵を乗り越えて枝折戸を押し破り、武田勢の先陣三百余騎は柵の中に討ち入り、後陣は柵の傍まで迫る。
熊谷平蔵直続 はこれをみて、 「敵は思うツボにはまりましたぞ! 、 折り返せや皆の者」と呼ばわり一番槍をいれれば、末田,岸添、桐原、水落 等300余騎は取って返し切ってかかれば、武田勢たちまち突きたてられて、半町ばかり退却したところ、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、己斐豊後守、遠藤左京、山田 の一族、等踏み止まって、真っ先に進撃してきた者67人を突き倒す。
更に、後陣に控えていた、伴五郎繁清は 「味方を討たすな」 と応援に駆け寄れば、熊谷勢 心は勇んでも無勢なれば押し立てられ、横川の山際まで退却する。 すでに危うくなったとき、平蔵直続 は 「一足も引かじ」 と、踏み止まって戦う。
末田勘解由 等は一番に引き返し槍を揃えて突き進み戦う、武田勢は三度の勝ちにのり、粟屋兵庫助繁宗 は馬上で “指麾(ざい)„ を振って先頭に進み出て下知をする。
直続 はこれを見て 「いま真っ先に立って下知するは、今日の軍奉行なり、多数を打ち取るより、軍奉行一人を射ることとせよ、この大将を射とらば諸勢は退却するー、あれを射よ」 と下知すれば、熊谷勢周囲からの一斉に射かける。
矢は粟屋兵庫助 の喉に当たり馬より真っ逆さまに落ちて討ち死する。 直続 は 「今日の合戦 味方の勝ちである 進めや者ども」 と勢いにのる。
武田勢は軍奉行を討たれて浮足たち、武田総大将 伴五郎繁清 も三か所の矢疵を受けたので一度にドット退却した。
香川左衛門尉光影 も家臣の 三宅次郎兵衛 が身をもって守ってくれたおかげで、虎口を脱するほどであったという。
しかし、武田家に類無き勇士と言われた、重臣 小河内左京亮(さきょう きよう)、弟同修理(しゅうり)、婿子 同大膳亮(だいぜん きよう) の一族7人は1か所に集まり 「今日を除いていつの為に命を惜しまんや」 と一文字に突いて出て獅子奮迅の戦いをするが討ち死にする。
一方、大手の合戦の状況が判らぬまま、武田光和 は200余騎を率いて高松城の搦手上原方面より攻め上がる。
矢を射込まれながらも城内は僅か16騎であったので 容易に城中に突入する事が出来たが、熊谷の手勢僅かな残兵で抵抗を繰り返す所、直続は200余騎を横川表に置いて、直続 みずから50余騎を率いて高松城に引き返し、光和 の後方に迂回して攻撃する。
直続 が横川表で 粟屋、小河内 等を打ち果たしたことを告げると、光和は三間半の大槍を振り回して 「当城を枕に打死するしかあるまい」 と、なおも進まんとするを、品川左京亮一 「ここは一旦退却し後日、大軍を仕立てて再度戦うべし」 と押しとどめられ、佐東郡の金山城(銀山城)に引き返す。
その後、武田光和 は1700余を結成し再度の高松城攻めを計画したが、毛利、平賀 の援軍が来ると家臣からの忠告受け決戦を延引したが、翌 天文3年(1534) 33才、銀山城で病死する。』
天文3年 (1534)
武田光和死去、家督争いで己斐豊後守直之が武田家老臣である品川氏と対立
出典:『陰徳太平記』「武田家督評定之事」
【経緯】
武田光和は、大内氏の侵攻中の天文9年6月9日に亡くなった。「陰徳太平記」によれば、その相続人として光和の妹婿、伴繁清(伴五郎)の子である刑部少輔を養子にすることになっていた。
また一説には、若狭の武田信実を養子にする案もあったが、結局、尼子の推挙した武田信実を養子に迎えいれた。
しかし、ここで重臣の中で争いがおこった。毛利元就や熊谷信直らに対して、「武田元繁や光和の弔い合戦をすべし」とする品川氏ら強硬派と、「まずは一旦元就と和睦をすすめ、武田家が断絶することのない状態にしたのちに時機をみて合戦をするべき」とする香川氏や己斐氏らからなる和平派が各々に主張した。
武田の老臣品川左京の亮は当家一味の国士 香川、已斐、飯田、温科、福嶋、山県等、其外家の子に筒瀬、毛木、部坂、粟屋、内藤、一条板垣などを呼び集め、(後略)
出典 「陰徳太平記」武田家督評定之事
天文3年 (1534)
品川氏が己斐城を攻めるが、己斐豊後直之は城に火をつけて阿曽沼氏のもとに逃亡する
出典:『陰徳太平記』「武田攻八木城付武田出奔並ニ若狭武田之事」
弱冠15〜16歳の武田信実は、家中をまとめることができず、ただただ傍観するしかなかった。結局、重臣の家督争いが決定的な亀裂を生み、その結果、香川光景や己斐豊後入道らは武田氏と袂を分かち、毛利方につくことになる。
こうした経緯の中で、品川左京亮は香川氏や己斐氏を討とうとした。
品川左京は、いよいよ怒りに堪えず、然らばまず香川、己斐を討取てその後国人等を招とてべく辺坂、毛木、飯田、福嶋、遠藤、板垣、一条、粟屋、内藤、青木、細野原、戸谷の香川、秋山己下、其勢八百余り、近日八木の城を攻めんと擬す。(後略)
出典 「陰徳太平記」武田攻八木城付武田出奔并若狭武田之事
このように、品川氏は香川氏がたてこもる八木城の攻撃に出陣している。結果は、香川氏の奮戦と親族の平賀氏や熊谷氏(熊谷氏は天文2年(1533)頃に毛利に寝返っている)の援軍により、八木城を落とせないまま帰陣することとなった。
しかし、この時、己斐豊後守直之は籠城では勝てないと思い城に火つけて、隣国の阿曽沼氏を頼り逃亡することとなる。
このような一件で武田家の命運は尽き、当主の武田信実は若狭国に出奔する。
天文10年(1541) 銀山城落城する、この時に毛利元就方として己斐豊後守が銀山城を攻める
出典:『陰徳太平記』「佐藤銀山ノ城並廿日市櫻尾城没落之事」
【経緯】
武田氏の衰退
毛利元就の台頭と対照的に、安芸武田氏の衰退は深刻化していた。天文2年(1533年)の横川表の戦いを経て熊谷信直が武田方から離反し、天文9年(1540年)6月2日[5]に光和が病没する。
若狭武田氏から養子に迎えた武田信実が安芸武田氏を引き継ぐものの、大内氏との講和を巡る家臣団の対立を解消できなかった。
ついに品川左京亮(安芸品川氏)が香川光景の居城八木城を攻撃するが、毛利方になっていた熊谷勢などの援軍を得た香川軍に、品川軍は撃退されてしまう。
この事態により、佐東銀山城から退去する家臣が続出したため、信実は城を捨てて出雲(さらには若狭)への逃亡を余儀なくされた。
吉田郡山城の戦い
信実は、勢力を拡大する元就を攻略しようと動き出していた尼子詮久(後の尼子晴久)に、安芸武田氏復興の支援を要請した。
詮久はこれに応えて牛尾幸清に兵2,000を与え、信実とともに佐東銀山城に入城させる。
そして自らは3万の大軍を擁して出陣し、9月には毛利氏の居城吉田郡山城近くに着陣する。
尼子軍に呼応して動いた信実勢は、11月に般若谷で国司元相率いる毛利軍と戦うが敗退する。
吉田郡山城の攻略は遅々として進まないまま、大内義隆から陶隆房(後の陶晴賢)率いる援軍が安芸に到着。
信実と幸清は3,000余りの軍勢で大内軍の動きを牽制するが、毛利・大内軍の優勢を変えることはできなかった。明けて天文10年(1541年)1月13日の戦いで決定的な敗北を被った尼子軍は、出雲に退却する。
落城
尼子氏の敗走を聞いた信実と幸清は、その夜の内に城から脱出し、大雪に紛れて出雲へ逃亡した。
孤立した佐東銀山城には、武田氏の一族である武田信重が残された。
大内軍は、吉田郡山城の戦いに乗じて大内に反旗を翻した桜尾城を攻める一方、佐東銀山城には元就を差し向けた。
信重と残る家臣たちは守兵300余で抗戦するも、銀山城は5月に落城。信重は自害した。
その後、この城は大内氏のものとなり、大内方の城番が置かれることとなった。
戦後
天文11年(1542年)に、安芸武田氏の旧臣で、親類でもある伴氏が、安芸武田氏復興のために挙兵するが敗北している。
出典:ウッキペディア佐東銀山城の戦いより
この一連の戦いに毛利氏の配下として己斐氏が参戦している。
(略)香川左衛門尉、己斐豊後守謀ヲ以テ扱ヒヲ入シケルニ(略)
(略)宍戸隆家其外熊谷信直、香川光景、己斐豊後守、飯田、山田当、同日八日ノ未明ニ伴ガ舊館ヘ押寄タリ(略)
などの記載が『陰徳太平記』にある。
天文11年(1542) 大内義隆が尼子氏を攻めるがその従軍に己斐氏も同行する
出典:『陰徳太平記』「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」
【経緯】
背景
天文10年(1541年)に尼子晴久率いる尼子軍は、毛利氏の本拠である吉田郡山城を攻めたものの、大内軍の援軍を得た毛利軍に撃退された(吉田郡山城の戦い)。
この尼子氏による安芸遠征の失敗により、安芸と備後の国人衆は、尼子氏側だった国人領主たちを含めて、大内氏側に付く者が続出した。
さらに、安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、陶隆房を初めとする武断派は出雲遠征を主張。相良武任や冷泉隆豊ら文治派が反対するが、最終的に大内義隆は、出雲出兵に踏み切ることになった。
なお、大内氏出陣の少し前となる、天文10年11月には、尼子経久が死去している。
【合戦の経過】
毛利元就が九死に一生を得た七騎坂
天文11年1月11日(1542年1月26日)に出雲に向かって大内軍本隊が出陣。大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。
また、義隆の養嗣子大内晴持も併せて出陣する。1月19日に厳島神社で戦勝祈願をしたのち、出雲に向かう。毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。
4月に出雲に侵入したものの、赤穴城の攻略[1]に6月7日から7月27日までの日数を要し、10月になって三刀屋峰に本陣を構えた。
その後、年を越して月山富田城を望む京羅木山に本陣を移す。天文12年(1543年)3月になって攻防戦が開始されたが、城攻めは難航する。また、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に苦しむ。
そして、4月末には、尼子氏麾下から大内氏に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。
『陰徳太平記』によると、城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。これにより大内方の劣勢は明白となった。
5月7日、大内軍は撤退にとりかかり、出雲意宇郡出雲浦 へ退いた。
だが、尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。
このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。
義隆は、宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。
しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。
また、毛利軍には殿が命じられていたが、尼子軍の激しい追撃に加えて、土一揆の待ち伏せも受けたため、壊滅的な打撃を受けた。
安芸への撤退を続ける毛利軍であったが、石見の山吹城から繰り出された軍勢の追撃によって、元就と嫡子隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。
この時、毛利家臣渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、僅か7騎で追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。
この犠牲により元就は吉田郡山城への撤退に成功した。
【戦後】
この遠征は、1年4ヶ月の長期間にも及んだ挙句に大内側の敗戦となり、寵愛していた晴持を失った義隆はこれ以後政治に対する意欲を失ってしまう。
この戦いは大内氏衰退の一因となった一方、尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ、最盛期を創出する。
また、大内氏の滅亡後には石見国を巡って毛利氏と尼子氏が熾烈な争いを続けることとなった。
註:ウッキペディア月山富田城の戦い
己斐豊後守直之がこの城攻めに大内方として参戦している
天文16年(1547)か 小幡行延と共に大内氏奉行人奉書に対する請文をしたためる
出典:『廿日市町史』『広島県史 古代中世資料編Ⅳ 洞雲寺文書』
(注)この文書は、小幡行延、己斐秀盛の大内氏奉行人奉書に対する請文である。
これより先、大内氏より円満寺分、丸山名を安堵された洞雲寺は、両所の耕作を命じたところ小幡、己斐の両人が両所を不当に拘え続けたとして大内氏に訴え、これをうけて奉行人奉書が両人に出されていたのである。
請文の内容は、(一)以前使僧に対して、両所は兼武名の内であり、丸山名については洞雲寺の愁訴のため、去年判物を与えられながら両人としては現在知行しておらず、もし丸山名を洞雲寺より渡されれば重ねて協議したい、と返答しており、
決して拘え惜んでいるのではないこと、(二)円満寺分については、所持していた証文が落城の際散逸したので、これを捜し出して重ねて言上したいこと、の二点を弁明したものである。
参考サイト
己斐直之と己斐秀盛について
己斐直之については『陰徳太平記』に己斐豊後守直之と多くの記載があり、ところどころで活躍しているが、「直之」に関しては当時の古文書等にも記載がなく実際にその名前を使用していたのかは疑問が残る、「豊後守」に関しては元就からの書状が残っており確実にいたことが立証できるが「諱」に関しての考察が必要になる。
天文16年(1547)と推測される小幡行延、己斐秀盛の大内氏奉行人奉書に対する請文があるが、当時の己斐氏の当主と考えていいのではないかと推測する。
●大内氏奉公人奉書に対する請文ということは当時の己斐氏当主が記載したものと考えた方が自然であり、当時の当主が己斐秀盛だったと考えられる。
●己斐豊後守は『陰徳太平記』のみ直之と記載されているが、当時の古文書には「直之」は出てこない(己斐豊後守は出てくる)
●以上のことから戦国時代に「直之」と呼ばれる人物は己斐秀盛の可能性も否定できない。
●受領名が「豊後守」ということから己斐豊後守秀盛だった可能性もある。
●ただし、「直之」という名前を名乗っていた可能性も全く否定はできないのである時期には「直之」、そして違う時には「秀盛」使用していたこともありうるかもしれない。
秀盛が己斐直之と同一人物かは断定できないが、大内家臣へ返答する人物と言えば己斐氏でも当主だと思われるため、後に厳島合戦で宮尾城に籠城した己斐豊後守の可能性もある。
天文17年(1548) 毛利元就が神辺城を攻めた時に、己斐豊後守も一緒に攻める
出典:『陰徳太平記』「備後ノ国神辺ノ城合戦之事」
天文18年(1548) 毛利元就が大内義隆に吉田郡山城合戦での援軍のお礼に行く時に家臣として己斐氏も同行する
出典:『陰徳太平記』「毛利元就父子防州山口下向之事」
【経緯】
天文18年(1549年)2月、元春と隆景を伴い山口へ下向する。
この時大内家は陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派で対立が起こっていた。
また、当主の大内義隆は月山富田城で負けて以来、戦に関心を持たなくなっていた事もあり、不満に思っていた陶隆房が山口下向中に元就達の宿所に何度か使いをやっている。
なお、元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くかかり、吉田に帰国したのは5月になってからである。
なお、この時元就を看病した井上光俊は懸命に看病したことで隆元から書状を貰っている。
註:ウッキペディア毛利元就より
この時に元就に従った国衆の1人として己斐氏の名前がある。
天文23年(1554)毛利元就が佐西郡の城を攻め落としていく、己斐氏は桜尾城にて守将としていたが、毛利に従い宮尾城の守将となる
出典:『陰徳太平記』「毛利元就被攻芸州所々城事」 『右田毛利譜録』2毛利元就同隆元連署書状
天文20年(1551年)の大寧寺の変で、大内義隆を討った陶隆房(変後に晴賢に改名)は大内氏の実権を握った。
周防国・長門国を本拠とする大内氏は安芸国や石見国の国人たちも傘下に収めていたが、石見三本松城(現在の津和野城)の吉見正頼が陶打倒を掲げて挙兵したため、天文23年(1554年)3月に三本松城の戦いが発生。
大内・陶の軍勢は三本松城を包囲し、安芸の毛利元就にも参陣を呼びかけたが、同年5月に元就は大内・陶と決別して桜尾城など4城を攻略し、厳島まで占領する(毛利元就が陶晴賢と決別した経緯は防芸引分を参照)。
陶氏との対決に備えて、厳島・広島湾周辺の諸城や水軍の守りを固めた。
註:ウッキペディア厳島合戦より
この時己斐豊後守は桜尾城の守将であったが、吉川元春に説得され開城する。
当時の推定海岸線
『右田毛利譜録』2毛利元就同隆元連署書状にもその時の書状がある。
註:弘治元年とあるが天文23年の間違い
この文書は天文23年のものです。己斐は陶氏の下で桜尾城の城番だったが、5月12日、桜尾城に押し寄せた吉川元春の説得を受け入れて城を明け渡す。
その後、また元春の仲介によって、今度は宮尾城の城将になる。
己斐豊後守に関してはこれが唯一の古文書になる。
分かることは
●父親と思われる己斐豊後守師道入道宗端と同じ受領名。
●宗端は1517年に亡くなっており、1510年頃生まれたとして1554年当時44才と壮年で脂がのった頃だと思われる。
●己斐城ではなく桜尾城の守将であったが、当時己斐城は陶方として別の城番がいたのかもしれない。
●桜尾城の守将から宮尾城の守将になる。
『陰徳太平記』「毛利元就被築城於厳島事」には己斐豊後守と同五郎兵衛とあるが、息子であろうか?
天文24年(1555) 毛利元就が城が脆弱で己斐氏籠る厳島の城の脆弱さ後悔するような流言を流す
出典:『陰徳太平記』「陶入道厳島渡海評定之事」
ここれは毛利元就が「宮尾城が防御するのに厳しく陶軍に攻められたらひとたまりもない」という流言を流しており厳島合戦のエピソードの1つとなっている。
しかし、これは『陰徳太平記』上のフィクションの可能性もある、
厳島合戦後の己斐氏
己斐氏が一躍有名になったのは厳島合戦における宮尾城籠城戦であったが、これ以降毛利元就による防長攻略時にどのような行動をしたかは不明である。
想像を逞しくすれば、吉川元春の勧告により桜尾城を退去し宮尾城に入城した経緯から吉川元春に従ったかもしれない、それは吉川文書の中に己斐氏が記載されているためであり、
吉川元春は,この後,大田・山里・吉和と進軍していくが、 その過程で一揆を殲滅し,神領にも所領を獲得していく。
このようなつながりから,己斐氏の中から吉川家臣となる者(己斐弥次郎元和)が登場することとなる。
豊後守も,その子と考えられる弥次郎元和も,毛利氏に服属していたが, 天正15年(1587)6月段階の毛利氏の九州攻めでは,元和は吉川軍にいたため,このときには吉川家中に属していたと思われる。
しかし,この後吉川家中では確認できず,岩国にも移っていないため、 おそらく吉川氏の富田城移転に己斐氏は従わなかったのではないか。
当時の推定海岸線。
安堵状 己斐 古江 石内などの支配を許す安堵状を送っているらしい。
『廣島軍津浦輪物語』都築要著 136頁より
真贋は不明。
永禄5年(1562) 己斐弥次郎藤原隆常が厳島に十六羅漢絵像を十五幅寄進する
出典:『広島県史 古代中世資料編Ⅲ』359P
この中に己斐弥次郎藤原隆常の名前があり、己斐豊後守の息子ではないかと推測される。
当時すでに先代の己斐豊後守は亡くなっているか、家督を隆常に譲っているものと考えられる。
隆常の「隆」は毛利隆元の偏諱か。
永禄11年(1568) 毛利元就が豊前国の立花城を攻める時に己斐豊後守も随行する
出典:『陰徳太平記』「豊前国三ツ之嶽落城之事」
【経緯】
毛利氏と組んだ立花鑑載が大友宗麟に反旗を翻して立て篭もった同城を、戸次鑑連(立花道雪)、吉弘鎮信らが攻め落とした戦い。
己斐豊後守として毛利氏に従い参戦しているが、永禄5年当時にすでに己斐弥次郎隆常として厳島に寄進しており、弥次郎隆常の受領名が「豊後守」だったと推測される。
天正10年(1582) 毛利氏厳島に一城を築き己斐弥次郎(隆常)に城を守らせる
出典:『広島県史 古代中世資料編Ⅱ』 棚守房顕同元行連署書状案 1062P
【経緯】
この年の春、来島村上氏が毛利氏から離れて織田方に付く。来島村上が尾道・広島湾頭・宮島などに来襲するという噂が流れて、大混乱が起こる。
その時に己斐弥次郎は「吉例」により厳島に設けた「一城」の 「城番」を命じられる。
この「吉例」とは,弥次郎の父と思われる己斐豊後守が宮要害へ入った,天文23年の事である。
天正15年(1587) 吉川経言(広家)が家督相続した時の18人連署起請文の1人として己斐弥次郎元和の名前がある
出典:『吉川家文書683』 613P
この中に己斐弥次郎元和の名前がある。
上記の吉川文書に己斐氏があることから、惣領家である己斐弥次郎に関しては吉川氏に従い、所領も吉川所領内に一時期はあったのかもしれない。
しかし、その後の記録の中に出てこないことを考えると、おそらく天正19年(1591)吉川氏の富田城移転に己斐氏は従わなかったのではないか。
またこの頃弟とされる己斐理右衛門興員に家督を譲り白木町三田に隠遁したと思われるのかもしれない。
己斐興員は己斐豊後守の弟とされているが、豊後守の諱が不明の為、『陰徳太平記』で記載されている豊後守直之の弟なのか。文書に出てくる隆常若しくは元和の弟なのか断定できない。
天正17年(1589) 毛利輝元が広島城主として入城、二之丸御番を己斐利右衛門が務める
出典:『新修広島市史第7巻』 82P 原本は「岩国微古館蔵」山縣源右衛門覚書書
出典:『新修広島市史 第7巻』82P
天文19年(1591)頃 己斐理右衛門が1,022.325石を賜る
出典:『毛利八箇国御時代分限帳』 163P
出典:『毛利八箇国御時代分限帳』163P
村井良介氏によれば
おおよそ、『毛利八箇国御時代分限帳』で3000石程度以上の大規模領主、1000石前後の中規模領主、500石前後の一村規模領主(およびそれ以下の小規模領主)に分類している。
このことから、己斐理右衛門は中規模領主に該当しており、仮に己斐氏として吉川家中にいれば相当高位のクラスに属すると思われる。
また、中規模領主だった為に広島城二の丸の番も仰せつかったのではと想像できる。
第3章 戦国時代の己斐氏の家系
己斐氏推定家系図
あくまでも推定の為確証はない、また、興員に関しては豊後守弟ということで誰の弟か断定できない。
隆常に関しては豊後守を称した文書はないのであくまでも推定。
己斐宗端
受領名:豊後守
諱:不明(一部資料にな直道とも)
『陰徳太平記』のみに記載している武将であり、詳細は不明。
己斐豊後守師道は己斐城主己斐豊後守宗瑞である。
永正14年(1517年)有田中井手の戦いで武田元繁に従って戦ったが、大将である武田元繁が吉川毛利連合軍に敗れ討死してしまった。
残兵は今田城に退いて軍議を開き、一度退いて体勢を立て直すことを主張したが、香川行景と己斐宗瑞は弔い合戦を主張し、翌日敵陣に打って出て討死した。
参考サイト
『陰徳太平記』では享年61才とある
そうなると1457年に生まれたこととなるが、息子と思われる己斐直之や利右衛門興員との親子関係に疑問が生じる。
己斐直之
受領名:豊後守
諱:直之or秀盛?
己斐直之(こい なおゆき)は戦国時代の武将。父は己斐宗端。安芸武田氏家臣。己斐城主。祖は厳島新領衆で、安芸神領衆の一人。豊後守と称した。のちに香川光景らとともに主家を離反し、毛利家に属した。厳島の戦いの際には、草津城代だった新里宮内少輔とともに宮尾城に入り、奮戦した。厳島の戦いの後、隠居した。
参考サイト
直之という名前は『陰徳太平記』のみの記載であり、古文書の中では唯一己斐豊後守としてあるのみで直之を証明する文書は無い。
同時代(1547年)に洞雲寺文書の中に己斐秀盛という人物がおり、彼が直之に該当するのではないかと推測する。
『陰徳太平記』の中では多くの記述もあり様々な戦にて活躍する。
己斐隆常
受領名:豊後守か
諱:隆常
通称:弥次郎
父直之隠居後(1555年頃)に家督相続したものと考えられる。
古文書の中では永禄5年(1562)に厳島に寄進、天正10年(1582)には厳島に城を構えて守将となる。
『陰徳太平記』の中では宮尾城籠城の時に己斐豊後守と同五郎兵衛とあり、己斐姓で五郎兵衛がいた事が示唆される、ひょっとしたら弥次郎の可能性もある。
己斐元和
受領名:不明
諱:元和
通称:弥次郎
天正15年(1587)には吉川広家の家督相続の署名者に己斐弥次郎元和がいる。
隆常と元和がともに弥次郎であることから、親子ではないかと考えられる。
書状から元和は吉川家中に属した武将となる、そもそも吉川元春の勧告で桜尾城から退去して宮尾城の守将になる。
また推測ではあるが、その後も吉川氏の家臣として毛利軍の防長攻略や尼子氏攻略にも参加したのではないかとも考えられる。
己斐興員
受領名:豊後守
諱:興員
通称:利(理)右衛門
別名:濵豊後守利右衛門興員
通説では己斐豊後守の弟とされている、一見己斐直之の弟と想像してしまうが、そうなると己斐宗端の息子となる、宗端が1517年に亡くなっており、また利右衛門が広島城の二の丸御番を仰せつかったのが1589年頃と仮定して80才近い年齢でのお役目となり考えにくい。
ここは、直之の子どもではなく、兄である隆常が豊後守を踏襲したとして彼の弟であると仮定すれば違和感が無くなる、若しくは元和の弟の可能性も否定できない。
兄である豊後守が己斐平原城に戻る際に弟の家に必ず立ち寄ったという伝承があり、その場所が「濵」という地名であったことから、別名濱と呼ばれるようになり、江戸時代には屋号が「濵」となった。
明治以降に子孫は濵に関りのある「濵」「濵本「濵嵜」「濵井」などの苗字なったという。
弟である興員も受領名が豊後守との伝書があり、己斐の当主は代々受領名、豊後守を名乗った可能性がある。
妻は坪井将監(新里元政)の娘。
第4章 白木町三田村に来住した己斐氏
伝承によれば己斐豊後守は厳島合戦の後に三田村に来住したとの伝承がある。
あくまでも推定家系図の為確証は無い。
古文書、その他伝承等から復元。
国衆である三田氏の伝書では弘治、永禄年間(1555~1570)頃に三田氏家老に己斐氏がいて勇戦し元就から賞詞を受けている。
『芸州三田』永井弥六著185P
このことから己斐氏でも別の系統がすでに三田村にいたとも思われる。
推測であるが、己斐豊後守は長男である隆常に家督を譲り、自分は次男である和泉守直之(直道)とともに三田村に移住したと考えられるのではないか、三田村は同じ厳島神主領であり、恐らくであるが昔から付き合いが深かったと思われる。
その証拠に己斐家文書の中に正覚寺のことが記載されている文書があり、厳島神主家と三田村との付き合いがあったことを示す文書も残っている。
出典:『廿日市町史 資料編1』620P
本来であれば、長男系統(隆常系統)が村でも有力者になるが、当初から次男系統(直之系統)が最初に来住しており、この己斐和泉守直之の子孫の家が三田の己斐惣領家となったと考える。
また、己斐五郎兵衛は責を負い切腹したといわれる。
どのような経緯があったか不明であるが、これらの事も三田村で惣領家にならなかった遠因かもしれない。
己斐土居畠系統
隆常の系統と考えられる。
白木町三田小字外原の共同墓地にある己斐豊後守の墓
己斐豊後守(直之か)から家督相続をした時に受領名である豊後守も踏襲したと考えられる。
となると己斐隆常が豊後守に該当するのではないか。
江戸時代を通じて当主は七郎右衛門を名乗る。
明和4年(1767)には庄屋に任じられる。
分家は己斐姓以外にも白砂姓を名乗っていたと思われ、親族にも白砂姓が多い。
※当時の屋号が白砂で明治新姓の時に本家は己斐氏を庶流は白砂姓を名乗ったかは不明。
己斐和泉守系統
己斐豊後守と一緒に白木に来た人物か
己斐和泉守直之墓
己斐豊後守師道入道宗端嗣子
この石碑は後世に建てられたものだと思われるが、宗端の嫡子は豊後守直之であり和泉守ではない。
豊後守(直之)の嫡子が和泉守であり、混同しているのではないか。
宗端嗣子であれば豊後守直之であり、和泉守の墓であれば裏面は己斐豊後守直之嗣子となる。
芸藩通志にある己斐和泉の墓
正覚寺にある三田氏の墓。
己斐氏はこの正覚寺の僧になり屋号も「正覚寺」になった。
その後の白木己斐氏
江戸時代を通じて己斐氏は三田村の小字である「畑」や「外原」周辺で繁栄していく。
屋号「正覚寺」家は江戸時代末期に男子無く上深川村に割庄屋中家の分家である沖野屋彦右衛門の次男、林助を婿養子として迎え、その子孫たちも大いに繁栄する。
屋号「土居畠」家の場合はおそらく分家をした時に「己斐」を名乗らずに「白砂」姓を名乗っている可能性がある。
出典:『三田雑記』14P
また、伝承では己斐豊後守直之(直之かどうかは不明)が厳島の戦い以後に隠居して三田村に来住したとあるが、それ以前にも先に己斐氏が三田にはいたとも考えられる。
理由として大永5年(1525)当時天野興定家臣に己斐氏がいること、弘治、永禄年間(1555~1570)頃に三田氏家老に己斐氏がいたことから、遅くとも16世紀の初めにはすでに三田村に己斐氏がいたとも考えられる。
第5章 己斐村に残った己斐氏
第1節 己斐興員の子孫
伝承によると、己斐豊後守の弟である己斐利(理)右衛門興員は広島城築城の再に二の丸の御番を仰せつかっている。
出典:『新修広島市史 第7巻』82P
又『毛利八箇国御時代分限帳』には石高として1000石余りを賜っており中級国衆としての力も備えていた
出典:『毛利八箇国御時代分限帳』163P
己斐利(理)右衛門興員は濵と名乗っていたが、理由として住んでいた場所が「濵」という地名であったからだと思われる。
丁度旭山神社の麓が小字「浜」になる。
中世以前の推定海岸線
戦国時代は公称として「己斐」を名乗っていたが、平時は「浜」を名乗っていたと思われる。
そして、江戸時代になり武士以外は公称禁止となり屋号として己斐氏一族は「浜」を名乗ったと思われる。
『芸藩通志』の己斐村より作図
第2節 江戸時代初期の己斐氏
己斐興員の子孫は以下につながる。
この家系図からみると興員は1550年頃に没してもおかしくはないが1589年頃までは生存していることは確認できるため、長生きしたのか、それとも伝承に誤謬がある可能性もある。
芸備先哲伝の記載では師道の嫡子直之、嫡孫理右衛門興員、曽根(曽孫か)和泉守直道とあり、直之の弟ではなく、子どもになっている。
ただし、この出所は不明である。
『萩藩閥閲録』巻69坪井与三兵衛の中に坪井元政の子どもで就政がいる。就政は文禄3年(1594)に亡くなっているが、己斐興員の妻はこの元政の娘との伝承がある為、就政の姉か妹になると考えられる。
となると、概ねこの頃に亡くなっていると思われるため、その夫である興員も同時代に亡くなっていると判断しても違和感はない。
つまり、伝承では己斐直之の弟とあるが、それでは時代が1世代ずれるため、直之の子どもとして考えてもおかしくはない為、芸備先哲伝の記載が全くの荒唐無稽な話でもなくなってくる。
出典:『備後先哲伝』
第3節 江戸時代中期の己斐氏
己斐中にある蓮照寺の近くに己斐氏の墓がある。
伝承では明治時代に己斐の一族が別荘を山の上に建てる為に墓が邪魔になり、現在の地に移動したとのこと。
昭和36年 11月 15日 (36号)己斐歴史研究会短信斐山斐渓に以下の記載がある。
伝
九月の末近所の方か ら、裏の山に己斐豊後守の墓があると聞いた。その人が祖父から聞かれた所によると、「豊後守の墓はつつじ山の上の方にあつたのだが、己斐氏が山に別荘を建てたいので、墓をもつと低い所に移したい。あなたの所の墓地の一角を使わせてくれ、と申し入れがあり、それが移された。現在も墓地はとなりあわせである」と 。
墓地
中二丁目の浜商店の横を通り、少しゆくとフジハイツヘの登り道がある。かつての「つつじ山への登り道のひとつの名残りである。その段坂をあがってゆくと、左側 に大きな樫の本が一本見える。そこが墓地であり、話題の墓がある。
墓石
墓石の配列は後出写真の通りである。その列の中央 にあり、正方形の表面のものが 「伝己斐豊後守」ときいて、現地を訪れた。二基 には刻字はない。大きい墓三基の刻字は次の通 りである。
●享保二十乙卯歳 己斐釈園宗信霊位 九月二十一日 善兵衛
●延享三年亥 正月十七日 釈教念信士 (側面 己斐与三郎)
●元文四巳未十二月十九日 釈了雲 俗名善太郎
右:善兵衛墓 左与三郎墓
善太郎墓
その他墓。
墓の人間を時系列にすると以下になる。
享保20年(1735) 己斐 善兵衛
元文4年(1739) 己斐 善次郎
延享3年(1746) 己斐 与三郎
続柄が不明な為、親子関係、兄弟関係か不明である。
しっかり「己斐」の字が彫ってある。
墓石に「己斐」と彫ってあることから公称は出来ずとも、「己斐」という苗字を大切に守っていたと思われる。
第4節 江戸時代後期から明治時代の己斐氏
江戸時代末期になるまで、己斐氏(濱氏)に関する史料は出てきておらず、初期と中期、中期と後期を繋げることは出来ない。
しかし、後期になると、お寺の過去帳や墓からおぼろげながら多くの「濵」氏が繁栄したことが分かる。
江戸時代までは「濵」で統一していた家も明治新姓で「濵本」「濵嵜」「濵」「濵本」などに分かれていく。
特に総本家は「濵本」と名乗る、「濵」の本家なのでそのように名乗ったのだろう。
その他にも「濵嵜」家が明治時代以降大きく繁栄して今日に至る。
第6章 己斐氏縁の史跡、文書
己斐古城(岩原城)
己斐古城跡
種別:中世山城 住所:西区己斐西町
この山城跡は、自然地形を巧く利用し、地面を平らに加工したり(郭)、深く掘り込んだり(堀切)するなど、防御を固める様々な工夫を施して造られています。
このような山城跡は、広島市内から200近く見つかっていますが、大部分は戦国時代(1467~1578)を中心とした時期に造られたものと考えられ、大小の山城がそれぞれの領地を取り囲むように配置されています。
この山城の場合は、大田川河口の西端、眼下に広島湾を出入りする船舶を監視することのできる絶好の位置に造られており、当時は麓まで海岸線がせまっていたものとも考えられますので、船着場を伴った水軍城であったかもしれませんね。
城主等の記録は残っていませんが、急斜面に造られた数多くの郭が当時の面影をしのばせてくれます。
参考サイト
余湖くんのホームページから
本城跡は、柚木城山(標高339.6m)から東南へ延びる丘陵先端に位置している。
旧状は麓まで海岸線が迫っていたと考えられている。
最高所の1郭の周囲には2~3段の郭を巡らせており、背後は不明瞭ながら堀切を配している。
なお、周囲は開墾が進み城跡の周囲にも多数の平坦面が存在しており、これらの解釈次第では城域が拡大する可能性もある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
己斐新城(平原城)
所在地 茶臼山(200.2m) 現在通称 小茶臼
西区己斐上四丁目茶臼185
平原城跡は中世の山城跡で、己斐にある四城跡の一つであり、地元では平原城跡、一般には己斐城跡・己斐新城・茶臼山城跡の名で知られている。
構築の歴史は鎌倉時代中期までさかのぼると推定され、厳島合戦(弘治元年・1555)当時まで要衝として争奪の渦中にまきこまれたが、以後は廃城となった。
その間、永世12年(1515)武田元繁に包囲された時、「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(房顕覚書)と記されており、その頃堅城を誇っていたのである。当時の城主は、己斐豊後守師道入道宗端であった。
「残る名に かなえば何か 惜しむべき 風の木葉の 軽き命を」(陰徳太平記)の辞世の歌を残し、有田の戦で討死したが、勇猛と義に厚い武将として著名であり、その死が惜しまれた。
その子・己斐豊後守直之は厳島合戦のとき、要害山・宮ノ城にたてこもった毛利方の猛将として名を知られ、さらに己斐利右衛門興員は、後に広島城(鯉城)二の丸御番をつとめた。
城は南側を大手、北側を搦手とし、山頂部には本丸・二の丸・空堀があり、山頂部を同心円形に囲んだ北・東・南・西の四郭および縦堀が、昔の姿を残している。山腹に残されていた出丸跡や、ノミ跡のあった岩は宅地造成で惜しいことに、その姿を失ってしまった。
「平原・岩原、この二墟を茶臼山と称す」と芸藩通志に書かれている「岩原城跡」は、旭山奥に今もあり、「ふるじょう」と呼ばれている。
当城跡背後の大茶臼は「立石城跡」であり、さらに己斐峠をおいて左方に「柚ノ木城跡」が見られる。
茶臼山は己斐の要の位置を占め、且つ昔は東・南側とも山麓まで海が迫っていた。
城跡山頂に立つ時、「平原城は大田川口を扼す海城的性格をもった山城である」という立地条件が、よく理解出来る。
この城跡を身近かな文化財として、大切にしたい。
なお、推定であるが、往時の「船溜り」は現在の中一丁目の「仲の御前社」附近にあったであろう。
東部の桂原天神は古くから祀られていたが、寛延元年(1748)旭山に遷され、三国屋天神(知新集)、更に後年、己斐天神とも呼ばれ、有名であった。
昭和58年9月吉日 撰文 己斐の歴史研究会
己斐城
己斐城は、広島湾頭西部の丘陵南端部に所在する。
草津城の北東約三㎞に位置し、東下を山陽道が通る眺望のよい古来からの交通の要衝である。
城主己斐氏は、厳島神領衆の出身で、その動静はあまりわかっていない。
長禄元年(一四五七)、武田方として大内氏の攻撃に遭い、落城して守将の戸坂信成以下が戦死している。
永正十二年(一五一五)には、武田元繁指揮下の熊谷・ 飯田。遠藤らの諸兵三千騎に攻められているが、大内義興の命を受けた毛利興元が後詰めとして有田城を攻撃し、武田氏勢力圏の背後を突いて己斐城を救っている。
己斐豊後守直之は厳島合戦の際は、毛利氏の配下として草津城 の新里氏と共に宮尾城(佐伯郡宮島町)に入っている。
城は、南西に延びる丘陵の後背部を、三か所にわたって掘り切り、その先端部を利用している。
郭は、最高所の本丸相当郭を中心に、同心円状に十数か所 配置されている。
本丸は、幅一五m×長さ二五mの大きさで二段に分けられている。
前方には空堀を挟んで幅一一m×長さ一八mの郭、後方には幅二三m× 長さ二三mの郭があり、その西端の一角には小社が祀ってある。
本城の西北約二畑の大茶臼山(標高四一三m)には、詰の城が設けられ、己斐 氏の一族が拠ったというが、現在はテレビ塔が建てられている。
『日本城郭大系』13より引用。
参考サイト
余湖くんのホームページから
第7章 己斐氏の伝承
己斐興員の妻
己斐興員の妻は坪井元政の娘である、坪井元政は己斐豊後守と一緒に厳島の宮尾城を守った守将であり、また同じ神領衆の一員だったと思われる。
坪井元政の母も怪力で有名であった。また元政の娘(妹説もある)も、近隣の己斐氏当主・己斐興員の妻となる。しかし彼女もやはり怪力で、その怪力を旦那に向けられる事を恐れた興員によって離縁された。
興員の妻は新里元政の娘であるが、元政の母は温品家親で怪力であった。
温品家親
武田元信の家臣であったが1499年に大内氏に加担すべく謀反をおこす、しかし毛利弘元や熊谷膳直ら周辺の安芸国人も室町幕府の命令で出陣し、叛乱は鎮圧された。
家紋の変遷(推定)
己斐家本家の家紋は抱き茗荷の中に四ツ目が入っている、しかし、分家の家紋は杏葉紋である、厳島神主家の庶流と考えれば杏葉紋であるが、抱き茗荷と杏葉は似ており混同した可能性もある、ここでは時系列で家紋の変遷を考えてみたい。
厳島神主家の家紋 「杏葉九曜」
厳島神主家の庶流として杏葉紋を使用したのではないか。
武田菱 安芸守護の武田氏がこの家紋を使用していた。
己斐氏が武田氏の家臣となり、杏葉の中に武田菱を入れた家紋を新たに作成したかもしれない。
武田家から家紋を下賜されて杏葉紋に組み込んだのではないか。
その後、武田菱が混同して四ツ目になった可能性もある。
最終的には杏葉紋も抱き茗荷に混同してこのような家紋になったとも考えられる。
この家紋が己斐豊後守系統の家紋となる。
豊後守の弟とされる、己斐興員は中の四ツ目を家紋にしている。
豊後守系ではなく和泉守系はもとの杏葉紋(厳島神主家の家紋)に戻ったとも考えられる。
更に和泉守系の分家は杏葉紋から抱き茗荷紋に変わっているが、家紋が似ている為に混同したか。
まとめ
以上のことから管見であるが、神領衆である己斐氏についての所感を述べる。
己斐氏は神領衆の一員として己斐村周辺に土着した国衆と考えられる、鎌倉時代の史料からは佐伯氏との関係も示唆されており、そのルーツが厳島神主家である佐伯氏の庶流ではないかと考えられる。
その庶流が神領地である己斐村の地を得て「己斐」氏を名乗ったものと考えたい。
特に鎌倉時代の文書を読むと、佐伯氏が藤原氏になり、その藤原一族が親族のなかで公文職を得る事にしのぎを削っていることが分かる。
己斐氏の初見の名前は己斐六郎左衛門で佐伯氏若しくは藤原氏が己斐の在地名から己斐氏を名乗ったのが分かる。
室町時代には神領地として足利尊氏に安堵された「己斐村」であったが、早い段階で近隣の武田氏の押領に悩まされたと思われる。
しかし、その武田氏の傘下に入ったと思われ、長禄年間の己斐城の戦いでは、己斐城(ここは己斐古城か)に守将として戸坂播磨守信成が入城して大内氏の部将である右田氏討ち取られている。
当時、己斐城や己斐村がすでに武田氏の支配下となっており、己斐氏はその傘下に組み込まれていたものと考えられる。
時は移り変わり、戦国時代になると、再度武田氏が己斐城を攻めていることや大内氏の守将が守っていることからも、当時己斐城や己斐村は大内氏の支配下に変更されていたものと考えられる。
己斐氏で有名な人物としては『陰徳太平記』の中で華々しく討死した己斐豊後守入道師道宗端である、毛利元就の初陣である有田合戦にて当主の武田元繁は討死して家臣である己斐氏も『残る名に かえなば 何か 惜むべき 風の木の 軽き命を』という辞世の句を残して討死する。
その後のほとんどは『陰徳太平記』の中に出てくる己斐豊後守直之であり、様々な合戦などで活躍するが、当時の史料には直之の記載もなく、本当に実在しているかどうかは不明。
史料から確認すると、1547年頃に己斐秀盛という人物がいる。また1554年の文書には己斐豊後守が毛利隆元、元就から書状を渡されている。
当時は毛利元就が陶晴賢との戦の最中で、当時陶方にいた己斐氏も元就の意向に従い、陶方として守っていた桜尾城を離れ、厳島の宮尾城の守将となり、結果厳島合戦に勝利することとなる。
その後の豊後守の消息は不明であるが、文書のなかは、己斐隆常が1562年、1582年と出てきており、豊後守の息子ではないかと思われる。
更に、1587年には己斐元和が吉川家臣の1人として名前が残っている、このことから己斐氏は吉川氏の家臣として生き残ったものと考えるが、吉川氏の山陰移封及びその後に己斐氏の名前が出てこないことを考えると、吉川氏から離れたものと考えるほうが自然である。
己斐直之が隠居して白木の三田村に来住したという伝承もあながちこの吉川氏から離れたことを関連するのかもしれない。
しかし、己斐氏が毛利の家臣ではなくなったという訳ではなく、己斐豊後守の弟である己斐利右衛門興員が広島城の二の丸御番を仰せつかっているため、当時重く用いられたものと考えられる。
賜った石高も1000石余りと中級国衆レベルの所領を得ていることからも証拠になる。
関ケ原以降に己斐氏は萩に行かなかった模様で、興員の子孫は己斐村で「濵」姓を名乗り子孫は現在まで己斐に住んでいる。
一方白木の三田村に来住したと思われる、己斐氏であるが、こちらも確実な文書が残っておらず謎も多い。
16世紀初めに近隣の天野氏の家臣に己斐氏がいることから、三田村にはもう少し早い段階で己斐氏が入植していたのではないかと思われる。
この三田村の厳島神領地であり、昔から深いつながりがあったと思われ、その関係から己斐村の己斐氏が三田村に移動していたとも考えられる。
室町~戦国時代には己斐村は武田氏、大内氏の草刈り場になっており、その支配権を持たない己斐氏としては、地縁や血縁をたどり早い段階で三田村に行った一族もいたと想像できる。
その一族の中には三田氏の家老になったものや、近隣の天野氏の家臣となったものもいたのかもしれない。
時は流れて、戦国時代も後半になり、己斐和泉守と呼ばれる人物が三田の地にて大きく勢力を拡大したと思われる、和泉守は豊後守の子息との伝承もあり、それが三田氏の家老として活躍したものかどうかは不明であるが、江戸時代を通じて村の指導者滴立場であったことは間違いない。
江戸時代の地誌である『芸藩通志』の三田村の絵図にも己斐和泉守の墓が載っていることから、当時から墓も認識されていた証左となる。
特に明治時代には多くの土地を持っており、和泉守の子孫と思われる己斐秀一氏は三田村の村長にもなっており地元の名士であった。
また、三田の己斐氏は戦国末期の当初から土居畠系統(惣領家)と正覚寺系(庶流)に分かれていた、お互いに交流もあったと思われるが、婚姻関係もあったと思われる。
ただ、残念なことに「土居畠」系の子孫も「正覚寺」系の子孫も現在三田にはおらず、別の土地に転居したとのこと、更に「正覚寺」系の古文書は昭和50年頃に盗難にあったり、紛失したりして残っているものが少ない。
しかし、現在、己斐氏で一番多いのは白木町であるが、それでも子孫は明治時代以降に広島市、または県外へも派生しており大きく繁栄している。
苗字由来netというサイトで検索すると「己斐」氏は日本で150人いるそうである、発祥の地が判明しており、尚且つ江戸時代には三田村しかいないと思われるため、日本の己斐氏本貫地は広島市西区己斐で己斐姓一族の起点となるのは広島市安佐北区白木町三田になる。
鎌倉時代から連綿と続いている一族であり、今後も史料が出てくることを期待したい。
以上
参考文献
『広島県史 中世』
『広島県史 古代中世資料編Ⅱ』
『広島県史 古代中世資料編Ⅲ』
『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』
『新修広島市史 第7巻』
『廿日市町史 上巻』
『廿日市町史 資料編1』
『府中町史 2巻』
『大日本古文書 家わけ第八巻 毛利家文書之一』
『大日本古文書 家わけ第九巻 吉川家文書之一』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『大内氏実録』
『萩藩閥閲録』
『陰徳太平記』
『新裁軍記』
『三田雑記』 永井弥六著
『わがふるさと 芸州三田』永井弥六著
『がんす夜話』蒲田太郎著
『廣島軍津浦物語』都築要著
『廣島郷土史談』都築要著
『厳島大合戦』都築要著
『廣島史蹟名勝絵日記』都築要著
『広島史話伝説 己斐の巻』都築要著
『廣島古代史の謎』都築要著
『新廣島城下町』都築要著
『わが町己斐のあゆみ』己斐の歴史研究会編