目次

第1章 戦国時代(〜1500年)前の戸坂氏

中世の戸坂氏について

戸坂氏は、安芸国守護である武田家の庶流として戸坂の地を治めていた国人(在地の小領主)である。初見は康正3年(1457)とあるが、おそらく武田氏が守護となった頃には戸坂氏もこの地に配置されていたものだと推測される。

 

「戸坂」という地名はすでに1289年の文書に出てきており、安芸国府の役人であった田所氏の持っていた所領が1町7反余あったことが、正応2年(128)正月23日付「沙弥某譲状」(田所文書)に見えている。(註1)。

 

戸坂氏に関してはその姓から戸坂を在地とする武田氏の家臣と思われるが、その出自は判然としない。

しかし、『宇部市東岐波 部坂家文書目録』によると、武田一族だった戸坂氏がその土地の名前から戸坂氏を名乗ったものとも推測できる。

 

一族の末裔である部坂氏の家伝によると

 

(前略)源姓部坂氏世住周防岐波其先出乎新羅義光受封於甲斐其子孫為数派称武田氏者来芸州戸坂居焉因以戸坂為族経十余世播磨守信成拠州之己斐城康正中与大内氏支族右田貞安戦敗没其遺孤遜乎周防岐波及長弥六左衛門尉正信(戸部邦訓相通)此為部坂氏始祖大内氏眷顧名族淪落持除田宅地若干掌白松南北民政其後荒乱之世子孫数遭不弔遂降伍民庶民(后略)

(註2)

 

【大意】

(前略)源姓の部坂氏は、代々周防の岐波に住んでいるが、新羅三郎(源義光)が甲斐に領地を賜わったことに始まる。その子孫は数派に分かれたが、武田氏を称する者が芸州戸坂に居を構えたことにより、戸坂を族称とした。それ以来10余代を経て、播磨守信成が芸州の己斐城に拠り、康正年間に大内氏の支族・右田貞安と戦って敗れ、亡くなった。その遺児が周防岐波に移って長弥六左衛門尉正信(戸部邦訓)となり、これが部坂氏の始祖となった。大内氏は部坂氏が名族であることを称え、除田(租税免除の田地)や宅地を与え、白松南北の民政を所掌させた。その後、荒乱の世に、子孫はしばしば難に遭った(後略)

 

とあるように、新羅三郎から10世代余後の子孫が戸坂播磨守信成としている。はたしてその整合性はあるのか。

 

武田家家系図(図1-1)によると、武田信光は承久の乱〔承久3年(1221)〕の恩賞として安芸国守護職を賜った。

 

また武田信時は元寇の防備上、実際に安芸国へ下向しており、この頃一族の武田某が地頭として戸坂の地に居を構え、在地名をとって戸坂氏と名乗ったのではないかと推測される。

 

同じ一族である福井氏、国重氏、伴氏がはっきりと一族として名を連ねる中、すでにこの頃でもかなりの遠戚になっていたと思われる(福井氏、国重氏は武田信繁からの庶流)。

 

このことから、武田氏が銀山城に城を築いた頃に、戸坂氏も牛田山に戸坂城を築いたものと推測される。

 

 

註:河村昭一『安芸武田氏』を参照して作成

 

戸坂という地の重要性

昔の戸坂は交通の要所であった。江戸時代以前は、府中町から中山峠を越えて戸坂に行き、さらに、大町を経由してほぼ現在のアストラムライン沿いを伝い佐伯郡に行っていたものと推測される。

 

広島城のホームページには以下の記述がある。

平安時代の中頃になると安芸郡幡良郷(安佐南区東原・西原から東区戸坂一帯)、同河内郷(安佐南区古市・川内付近)、佐伯郡緑井郷(安佐南区緑井)、同桑原郷(安佐南区長束・山本付近)などの村に発展していったことが『倭名類聚抄』によって知ることができます。とはいえ、この時期の広島湾は奥深く湾入しており、当時都と太宰府を結ぶ山陽道も府中町から戸坂峠を越えて口田付近で太田川を渡渉し、安川に沿って西に向かい五日市に出るというルートをとっていました。

 

また、

室町時代である応安4年(1371)には、九州へ向かう今川了俊の紀行文「道ゆきぶり」にかいた(現在の安芸郡海田町)から「佐西の浦(現在の廿日市市か)」に向かう途中、「しほひ(潮干)の浜」だった現在の広島の市街地を通る様子が描かれている。

 

当時、広島市中心街はまだ海の中であり、海岸線は牛田の方であった。「牛田の土地も、葦の茂るような場所であった(図1-2参照)。「その頃、太田川は今よりも西の方を流れており、今の古川が従来の太田川の主筋であった(川の流れが変わったのは慶長12年(1607)の大洪とされる)

現在、太田川の向かい側にある東原、西原とは古代から中世にかけて条里制が制度化されたが、戸坂と東原、西原には同じ条里地割りのあとが残っており地続きであったと思われる。

 

 

図1-2 14世紀ごろの広島湾頭の海岸線と街道

出典「広島城HP」から引用した資料に作図

 

 

 

 

図1-4 江戸時代の戸坂村絵図

出典 国書刊行会 『芸藩通志』(485頁)から引用

 

図1-5 戦国時代の戸坂村(イメージ)

 

 

 

戸坂播磨守信成について

具体的な戸坂氏の名前が出てくる初見は、武田方の部将として己斐城を守っていた時に、大内勢に攻められて戸坂播磨守信成が討死する事が「大内氏実録」第八教弘の項に記載されている。

具体的には、長禄元年(1457)の同資料に、

 

長禄元年丁丑春三月、安芸に戦う。廿一日、右田石見守貞俊、安富備後守行恒等釈迦岳城を攻めて之を抜く。夏五月十二日己斐城を攻む。右田弘篤、城将戸坂信成を斬りて戦没す。

註:康正3年=長禄元年 改元は9月

 

とあり、さらに、「毛利家文書」97の康正3年(1457)5月23日、武田国信から備中守毛利熙元にあてた書状には次のようにある。

 

先度御状に預り、委細披見申候、仍去十四日御状同到来候、何もへ御懇に示賜候、祝着候、其れにつき候ことは、戸坂播磨守事、言語道断次第候、此仁あてかい内々可被及御覧候哉、毎事短慮二あてかい共候間、如此候、覚悟前候、不便之次第、無申計候、定而可有御同心候哉、乍去要害事未もとの如く勘忍候由申候、可燃候、去十四日合戦の趣、委細注進候(後略)

 

【大意】

「先だって御書状をいただき、詳しく拝見しました。また、去る14日付けの書状も同じく到来しました。いずれも懇切に(安芸の情勢等を)お示し(お知らせ)いただき、祝着に思います。それについては、戸坂播磨守のこと(戦死したこと)は言語道断の次第(もってのほかの出来事)でした。

 

この人(戸坂播磨守)にあてがった知行の内容は、内々に御覧になりましたか。そのたびごとに短慮に(熟慮せずに)あてがっていたので、このようなことになってしまいました。

 

前もって十分に覚悟しておくべきことでした。この上なく不憫に思います。きっとあなたも同じように思われていることでしょう。さりながら、要害(己斐要害)のことは、まだ元のごとく堪忍して押さえておくように申されたとのこと、もっともなことです。」

 

また、『戸坂村史』68頁に紹介されている『萩藩閥閲録』巻61「宇野与一右衛門系譜」によれば、

 

大内教弘芸州金山城主武田ト合戦之時、武田方金山ノ端城己斐之城主戸坂播磨守信成近国無隠大力也、弘篤ト組テ弘篤勝レ信成ヲ討取、戸坂力郎党切掛、弘篤終二討死ス、康正三年五月十二日、弘篤二十四歳也

 

とあり、当時の戸坂播磨守は己斐城主であったという。この記述が正しければ「要害」とは己斐城のことだと思われる。

 

また、武田氏は戸坂氏に対して大内氏との勢力拮抗地帯の土地を知行地としてあてがった、あるいは、あてがう約束をしていたため、戸坂氏が無理な戦いをして討ち死してしまったのではないかと思われる。

そして、その所領は、もしかすると、己斐城周辺にあったのかもしれない。

 

では、この中に出てくる言語道断な事とはいったい何を意味するのであろうか。

 

本来であれば「けしからぬ」事であるが、昔は「もってのほか(予想外)」である事という意味で使用されたと思われる。文章に「もってのほか(予想外)」である事とあるので、けしからぬ事をして許さないという雰囲気ではない。

 

この「言語道断」の解釈について2つあると考える。

 

1説、己斐城の守城を任しているにも関わらず、右田弘篤に討ち取られてしまい落城したのは、非常に残念でもあり予想外なことでもある。

 

2説、実は己斐城がなかなか落城できない事を焦り、大内方が調略で戸坂信成に対して寝返りを誘ったのではないか。それに乗った戸坂信成は、子供と共に大内に寝返った事が言語道断(もってのほか)である事とも考えられる(註3)。

 

確かに、1説であれば普通の解釈であり、敵と戦い討死する事は戦の世界では当たり前の事であるが、武田氏はそれを不憫に思い、戸坂にいた戸坂氏を存続させたものと思われる。

 

2説は次の通り考えられる。

 

己斐城は、厳島神領家の家臣である己斐氏の城であったが、武田氏が勢力拡大の中で併合し城代目付として戸坂氏を送りこんだ。

 

そのような中で、本拠の城が戸坂にあるにも関わらず、戸坂氏が子を戦の最前線にある己斐城へ入城させておくことは不自然である。

 

さらにその後、この戸坂信成の遺児は、家来とともに山口県宇部の東岐波村に落ち延びる事になるが、その所領について前出の『宇部市東岐波部坂家文書目録』には、大内氏から除田(租税免除の田地)や宅地を与えられたとある。

 

さらに前出の武田国信書状の中で、「乍去、要害事未もとの如く勘忍候由申候」(註)とあり、要害なので我慢して押さえておく必要があるような記載がある。

 

これは、戸坂信成は寝返ったが、己斐城は要害なのでここは我慢してでも再度押さえておく必要があるという事か(戸坂にいる戸坂氏は取りつぶされてはおらず存続している)。

ともかく、ここに東岐波の戸坂氏(部坂に改名)と戸坂にいる戸坂氏とに分かれることとなる。

 

 

己斐城が攻められた経緯

安芸国守護の武田氏であったが、その所領は佐東、安南、山県の三郡の分郡守護であって一カ国全てではなかった。

 

こうした中、勢力拡大を図るべく武田氏が目を付けたのは、隣接する厳島神領地であった。

 

厳島神領地は佐伯郡に広がっており、その肥沃な土地を押領して勢力拡大をもくろんでいた。

 

そのような中で、厳島神主家の支配地であった己斐城もいつの頃か武田方に攻められ押領されていたと思われる。

 

応永4年(1397)には、厳島神主家の訴えにより、室町幕府から武田氏に対し神領地を返還するよう命じられたが、領土は戻されなかった。

 

宝徳2年(1450)、再度、厳島神主家は武田氏からの所領返還を幕府に訴えたが、当時の幕府を牛耳る細川氏は、敵対関係にあった大内氏に対抗するために武田氏を支援していた。

 

一方、武力で武田氏に対抗できない厳島神主家は、大内氏に助勢を頼み己斐城を攻めた。

 

大内氏から見れば長年対立している武田氏を打倒して安芸国の支配権を獲得したい思惑がある。

 

こうして起こった長禄の合戦は、厳島神主家vs武田という構図ではあるが、大局的にみれば、実際には大内氏rs細川氏(幕府)の戦いでもあった。

 

出典 河村昭一『安芸武田氏』80-81頁

「安芸の夜長の暇語り」

 

結果、己斐城(おそらく己斐古城と思われる)を守っていた戸坂播磨守信成は、大内軍との激しい死闘のなかで、戦場の露と消えていったのであろう。(結局、厳島神領家に助勢し勝利した大内氏もこの土地に魅力を感じ、後に自分の物にしてしまう事となる。)

 

大内氏(厳島神領地)に戻った己斐城であるが、再度武田氏が攻めており(この時の城は別の己斐新城とされている)、永正12年(1515)武田元繁に包囲された時、

 

武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず

出典 『広島県史』古代中世資料編「房顕覚書」

 

と記されており、その頃堅城を誇っていたのである。

 

当時の城主は、己斐豊後守師道入道宗端であった。

 

康正3年(1457)、己斐城を守っていたのは武田家臣として「近国無隠大力成」と恐れられた戸坂播磨守信成であるが、その年の5月12日、大内方の部将で24歳の右田弘篤が信成と一騎討ちで組み合い、ついにこれを討ち取った。

 

しかし、弘篤も信成の郎党に切られて討死にしたという。(前出『萩藩閥閲録』巻61)。

 

当時京都にいた武田国信は、毛利熙元からの書状で信成の戦死を知り「信成を己斐城に配したのはまったく浅慮の致すところであった。大変不便なことをした」と、その死を悼んだ(前出「毛利家文書」97)。

「毛利家文書」97武田国信書状

このことから、京都にいた惣領家の若狭武田氏が、この合戦を主導していたことも考えられる。

 

なお、己斐城は、城将信成の戦死後も落城せずふみこたえたらしいが(前出「毛利家文書」97)、最終的には家臣がその遺児を伴い大内方へ降伏して、山口県宇部の東岐波村に落ち延びる事になる(前出『宇部市東岐波部坂家文書目録』)。

 

図1-6 己斐古城鳥観図

 

註:広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書第一集』の郭図を参考に余湖浩一氏に鳥瞰図を依頼

 

己斐古城(岩原城)の死闘

広島史話傳説によれば、長禄元年(1457)頃、厳島神領地の争奪戦の時に武田信繁が築いた釈迦ヶ岳城が陥落し、続いて大内勢は、武田銀山城の前衛地である己斐城へ向け一隊は陸上から、一隊は海上から殺到し、ここで大決戦を展開した。

 

敵将大内家の一族である右田弘篤は、一千余攻撃軍とともに旭山山下の波打ちぎわで討死を遂げるほどの大激戦を展開しな城は陥落しなかった。手を焼いた大内軍は、己斐城の守将として武田家から派遣されていた戸坂守信成を買収し寝返りを誘った。「寝返った戸坂氏とともに己斐氏も大内家臣との後戸坂氏と別れて己斐城に戻ったとある(註5)。

 

己斐には千人墓と呼ばれる供養塔がある(写真1-1)。

 

これは、長禄元年(1457)から数えて、20年あまり後の安永7年(1778)に建てられたものである。

 

この墓が実際に大内氏と武田氏との戦で亡くなった戦没者の墓であるかの確証はないが、地元では戦での戦没者の墓として祀られている。

 

己斐の住民が、過去の歴史における壮烈な戦いを先祖からの言い伝えとして、後の受け継いだ証と推測される。

 

現在、墓は旭山共同墓地内にあり、墓石の台座の裏には「安永七年 戌 千人墓  五月下旬」と彫られている。

 

 

 

戸坂某が武田の養子となる

〜文明元年(1469)一文明18年(1486)〜

次に戸坂氏が出てくるのは、文明(1469〜86)ごろで、在京の吉川元経あてに某是経から安芸の国元の様子を書き送った中に、「御縁之事、戸坂子ヲ金山へ養子ニ」などとある。

 

また、在京費用について「只今三千疋上進之候、又戸坂方二替之事申合、重而七月中二上可申候」とも記している(「吉川家文書」380より)(註6)。

 

「吉川家文書」380是経書状

 

これは、戸坂信成の代わりに戸坂当主となった戸坂某の子を人質として銀山城へ預けさせたとも考えられるが、ただ人質にするだけであればわざわざ養子にする必要もないであろうから、武田氏と戸坂氏との間により強固な関係を築くため、養子縁組が図られたのではないかと思われる。

 

もしくは、他に養子にしなければならない理由でもあったのであろうか。

 

武田譜代衆としての戸坂氏 〜明応8年(1499)〜

次に戸坂の名が出てくるのは、明応8年(149)の史料にある戸坂参河守信定である。

 

『戸坂村史』によれば「そのころ幕府権力とそれに結びつくことによって勢力を維持していた守護武田氏、その家臣であった戸坂氏、そして実力的にはともかく、なおも幕府の意向に左右されざるをえなかった国人領主毛利氏の関係をよく示す史料の一つである」と記されている。

 

「毛利家文書」166「武田元繁外九名連署状」

 

もう一度、『戸坂村史』の記述をみてみよう。

この文章の大意は、「上意御窺之事」(毛利弘元の内部荘の支配権を将軍に認めてもらうこと)と、「内部荘伊豆守一行之儀」(それに武田元信が同意の文書を出すこと)の2点について武田元信に申し入れることを、武田元繁以下の諸将が毛利弘元に連署で約束するというものである。この当時、安芸国守護の武田は、本家である若狭武田氏の指揮下のもと動いているにすぎなかった。

 

つまり、各国人も本家である若狭武田家の武田元信については主と仰ぐが、安芸国の守護職にある武田元繁には大きな力がないため、連署によって毛利弘元に対する約束をするという事になる。

 

さらに、安芸武田氏権力の特質は、なによりもこの史料に明らかなように、安芸在住の武田元繁が惣領武田元信(若狭国守護で本家にあたる)の規制下にあって、一個の領主として自立できていない点にある。

 

この毛利氏への約束が、武田元繁一人の署名では不十分で、品河氏以下、戸坂氏までの諸将が連署しなければ安芸武田氏の全体意志が表現できないのである。

 

連署した人々は、本家武田元信(若狭国守護)の家臣であっても、武田元繁(安芸国分国守護)の家臣ではなかったということを如実に示す史料の一つである(註7)。

 

つまり、この当時から、安芸国守護の武田家には大きな権力がなく、そのことが安芸国内を統一できなかった一因であると言えよう。

 

そのような中で、戸坂参河守信定は安芸国の諸将の中でも重要な地位にいた事が明らかであるが、この戸坂参河守信定は、先の戸坂播磨守の甥にあたる人物ではないか。

 

 

 

もしくは、仮に戸坂播磨守信成の遺児は一番幼い子を連れていき、長子は戸坂城にいたとも考えられる。そうなると

 

 

 

となる。

室町時代までの戸坂氏に関しては、以上の史料がその全てであるが、武田支族の一員として要所である戸坂の地を任された事や己斐城を守っていた事を考えても、その地位が決して低いものではなかった事は想像に難くない。

第2章 戦国時代、戸坂入道道海の活躍(1500年〜1540年)

戸坂入道道海の登場と有田合戦〜永正14年(1517)〜

 

出典 『宇部市東岐波部坂家文書目録』

 

戦国時代に突入すると、武田氏も大内氏の絶対的な力によりその配下として大内義興につき活動を始める。大内義興は、永正4年(1507)には足利義材(義稙)を奉じて入京してこれに従い入京したが、永正8年(1511)頃には尼子氏が大内の留守中に出雲から国の国人も臣従したこと、また厳島神主家の内紛を解決するために、武田元繁を安芸国へ帰国させた。しかし、武田元繁は帰国するや否や尼子氏と結び、再度大内氏に叛旗を翻してしまう。

 

大内義興が管領代として在京の期間が長引けば長引くほど、留守をしている郷里の政情は穏やかでなくなった。

 

そのため大内氏は大きな悔いを残す事になるのであるが、「先に義興に従っていた厳島神主の友田興親がその年の12月に京都で病死し、その後嗣をめぐって国元が東西に分かれて兵火を交えるに至った。

 

東は武田氏、西は大内氏がそれぞれ後盾となって応援した。

 

以前からの厳島神領をめぐって武田・大内両氏の抗争が再燃したもので、この争いは両氏の代理戦争のようなものであった。「ところが義興は、こともあろうに一番の危険人物である武田元繁を帰国させて、事を処理するように命じたのである。

 

元繁は、「先の足利義稙を奉じて上京する時は、義興に従い上京したが、かつての守護職として、また源氏の名門として君臨していた身でで、「大内氏の下風に立つことは耐えがたいものであったのである。

 

永正12年(1515)に帰国した元繁は、勢力拡大の好機と捉え、手始めに厳島神領地助の行動を起こし己斐城を攻撃した。

 

「驚いた義興は、高田郡吉田の毛利に牽制の武力行動を起こさせ、武田氏の属城である山県郡山県氏の有田城(千代田町)を攻撃、これを占領させ、小田信忠を入れた。

 

このため、後方が危うくなった元繁は己斐城攻撃から撤退し、永正14年(1517)に有田城を攻撃したが、この攻撃中に有田中井手の合戦で元繁が討死をする。

 

このような中で活躍し始めるのは、戸坂氏の当主であった戸坂入道道海である。武田元繁の家臣として活躍し、また、現在の古刹(この頃に松笠観音寺や祈祷寺である無量寿院を勧請する)を造営したのも彼との伝承がある。

 

武田元繁は永正14年(1517)有田の合戦にて討死するが、戸坂氏に関しても次のように記載されている。

 

(前路)さて本陣の先鋒は、毛木民部の太輔信久、筒瀬左衛門の太夫信実、辺坂入道々海、同き小次郎繁澄、久村、溝田、中山、已下、一千騎 二陣は後略)

出典「陰徳太平記」有田合戦付元繁戦死之事

 

これによれば、辺坂入道道海と一族(息子か)の小次郎繁澄が先鋒に加わり大切な役割を果たしている。

また、「有田合戦で武田元繁が討死した際、「壬生へ敗走した軍の中に戸坂の同族者も2名おり討死している。

 

(前略)) 如斯て丹比勢北にくるを追事頻りなれは、壬生辺にて、品川小平次、毛木三屋五郎太郎、板垣新三郎、辺坂権六、同き五太夫、溝淵五郎兵衛、飯富孫八、小川権助、なと返して討死す、瓜生田三郎左衛門、尾首藤左衛門は、深手負ひ、壬生の在家に立入、隠居たりしをー揆等討果たして、頸を有田へ送りけり(後略)

出典 「陰徳太平記」有田合戦付元繁戦死之事

 

同族者は辺坂権六と辺坂五太夫と思われ、武田方の家臣として大きな犠牲を払っている。

 

松笠山合戦 〜大永7年(1527)5月13日〜

「中山村史』によれば、「大永7年(1527)に、大内勢が府中で頑強に抵抗する武田方の白井氏を攻めているが、尾長から中山に越える「大内越峠」の名前は、大内軍がこの峠を越えて府中井氏を攻撃したことから付けられたものという。

 

「大内軍は5月5日府中城の攻ていたが、同月13日に白井氏救援の武田勢が背後に押し寄せ、松笠山で合戦が行われている。」とある。

 

註:1527年 芸府要害 白井備中守後詰武田勢・松笠山7月18日仁保島并に国府城詰口(大内義興)と府中町歴史民俗資料館の掲示物に記載されている。

 

また『戸坂村史』には「大内勢は、この合戦で戸坂や玖村(現安佐北区落合)まで攻め込んだが、府中城さえ落とす事ができなかった。戸坂の北側、小田の松笠山で合戦が行われたのはこの年の5月13日であった。やがて、享禄元年(1528)に大内義興が死去し、大内方は攻撃を一時中断せざるをえなくなる。」と記載されている。

 

この松笠山の合戦は、武田氏の配下である白井氏を大内氏から守るための軍事行動であるが、武田方の防御線からみても、戸坂城ー戸坂松笠山-中山田原城一鏡山城というルートを確保できれば、府中の白井氏を救うことができると考えられたため、府中は重要なものであった(註8)。

 

当然、戸坂を所領としている戸坂氏も、この合戦で武田の支配下の部将として大内軍との戦いに参加していたものと思われる。

 

松笠山の山頂付近には、真言宗龍水山松笠観音寺があり、天文年間(1530年代頃)に戸坂入道道海が勧請したという伝承が同寺の由来記にあり、また『口田村史』にも「當山開基は詳ならざれども、古老の言に依れば慶長年代(三百餘年前)當地方の安北郡北の庄と稱へし頃隣村戸坂村住人戸坂入道なるもの、開基に屬し、寺號を龍水山松笠觀音寺と號したとぞ傳へらる。」と記載されており、戸坂入道が開基したという事では共通の伝承となっているが定かではない。

 

松笠山合戦の後に、山城を整備して観音堂を勧請し、戦時には、城として機能していた可能性もある。

 

 

 

 

新中妙泉氏によると、松笠観音由来記は安佐北区の小田の松笠観音寺世話人会が奉納されたとのことで、事実として断定できない部分もあると思われるが、以下の記載がある。

 

松笠観音由来記

松笠観音は、今から四百数十年前まだこの地方が安北郡北の庄といったころ戸坂入道々海が開祖したもので、龍水山松笠観音寺と言う。戸坂城(別名狐爪木城、戸坂町茶磨山)は、太田川をへだて、銀山城(現在祇園町山本)の大手にあたり、外堀の櫓的存在であった。牛田神田山に峯続きで南から攻略された場合には弱く陥落するに旬日を要しないから、中山峠を切口とする松笠観音堂の要衡を戸坂城の第二城即ち隠れ城とする意途が多分に含まれているものと考えられる。また同時に弘法大師が安芸国修行場の一として選んだこの静かな環境は 血なまぐさい戦国の明暮に唯一の安息場所であった。

(注)戸坂入道々海は安芸国守護職銀山城主武田氏の一族といわれた重臣であった、天文九年四月八日、どうしたことか武田家から切腹をおせつかっている。墓は戸坂城跡にある。

 

 

観音堂を主尊とする霊場は現世での利益を生む場、祈願を受ける場として機能していた(註9)。

 

戦乱でどうなるか分からないこの世の営みを豊かにするため、一族繁栄や所領拡大を願い建立されたものである。地域の豪族にとっては、現世利益の「観音堂」、一族の「菩提寺」、武運長久の「八幡宮」がセットになっているとされているが、戸坂氏にとっての松笠観音寺もそうしたものである可能性はある。

 

本城郭大系13広島・岡山』281頁では、この地が「松笠城」として明記されているがここに城があった事実はいまだ論証されていない。

「大内方の築城か」と記載があるが、城であることが論証されたならば築城が戸坂氏であった可能性はある。

 

 

戸坂合戦〜天文8年(1539)〜

『戸坂村史』によれば、享禄元年(1528)の大内義興死去に伴い安芸国侵攻は停滞していたが、その子である大内義隆が再び本格的な武田・尼子攻撃を始めるのは天文8年(153)である。

 

広島湾一帯で武田方の佐東川内水軍などとの間に激戦が展開された。

 

戦闘は戸坂の地にもおよび、尼子の家臣松田経通から武田方の吉川興経にあてた9月21日付け書状には、9月17日の戦闘について「如仰、戸坂表足軽申付候処、支合悪候て、敵不打捕候」と尼子・武田方の作戦の失敗を伝えている(「吉川家文書」408)。

 

その一方で、岡又四郎に与えられた10月5日付け毛利元就の感状には次のようにある(註10)。

 

九月十七日於戸坂合戦之時、雲州松(経通)被官近藤民部左衛門尉討捕候

高名無比類候、神妙至、感悦更不浅候、可勵忠者也、別而可成褒美候、仍感状如件

天文八年十月五日 元就

岡又四郎殿

出典『萩藩閥閲録』巻80「岡吉左衛門」2

 

 

これによれば、大内方についた元就が武田・尼子方の近藤民部左衛門尉の討捕を高く評価し武田・尼子方の手痛い敗戦がわかる。

 

武田方の戸坂氏もこの合戦に参加したものと考えられる。また、「吉田物語」においても「天文八年九月十一日於戸坂尼子衆と相戦と云々(註11)とあり、日付は異なるが、戸坂合戦が行われた事を示している。

 

このころから、次第に武田陣営の戸坂氏にも戸坂合戦の敗戦により何かしらの動揺が広がっていった可能性がある。この時の合戦で亡くなったと思われる戦死者の千人塚が、東区温品地区の二ヶ城山中腹にある(詳細は「補足」戸坂氏の由来と伝承 千人塚を参照)。

 

 

戶坂要害落城、戸坂入道道海自刃か〜天文9年(1540)4月8日〜

天文9年 (1540)4月、武田氏が戸坂入道道海を攻めて自刃に追い込んでいる。天文8年前後の大内軍に対する武田・尼子連合の敗退や、徐々に浸食していく大内勢力の中、戸坂入道道海も家の存続を図るために大内家と誼を通じ大内寄りに傾いていったことが武田氏に露見し、追討を受ける形で戸坂城が攻められ、戸坂入道道海が自刃したものと想像できる。

 

天文9年(1540)4月20日付け中間次郎四郎あての感状(写し)には、「於今度戸坂要害落居之場、頸討捕之条、寔忠節無比類」とあり、戸坂に城郭が構えられていて戦闘があり、落城したことを伝えている(註12)。

 

某感状(安芸郡戸坂村百姓重三郎)

於今度戸坂要害(安南郡)落居之、頸討条、寔忠節類、於向後被骨者

為神妙者也、仍如件

天文九年四月二十日

中間次郎四郎へ

判(武田信實力)

出典『広島県史』古代中世資料編V1431頁

「郡中士筋之者書出」戸坂村百姓重三郎所持

 

註:判が『広島県史』では武田信實とあるが、当時まだ武田光和は生存しており (亡くなったのは6月9日と房顕覚書にある)、信實は光和が亡くなってから若狭武田から来たので(「羽賀寺年中行事」より)、武田光和の可能性が高いと思われる。

 

また、武田家臣であった福井氏(武田氏の庶流で武田信繁の次男、二郎信通より出る)が、武田の家臣として芸州戸坂要害落去の時に戦功があり、天文9年4月20日付の感状を受けている。

(『萩藩諸家系譜』より)。

 

 

福井十郎兵衛信之家文

於今度戸坂要害落居之頸討捕之条、誠忠節無比類候、弥於向後抽粉骨者可為神妙者也

四月廿日

福井源十郎(元信)殿

(武田)光和 判

出典『毛利元就記考証新栽記』83頁

 

 

同じ感状の形式、日付で沢山の者に発給された可能性があり、中間次郎四郎も武田氏の家臣であった可能性が高い。

 

武田氏vs戸坂氏(大内氏に寝返ろうとしている)

伝承によれば、「戸坂入道道海が天文九年四月八日どうしたことか武田家から切腹をおせつかっている(松笠観音寺 説明看板より引用)」とあるが、これは武田氏から切腹を命じられたのではなく、戸坂氏が武田陣営から大内陣営に寝返った(一族全てが完全に寝返った訳ではないのかもしれない)ことによる追討によって、戸坂出城での戦いに敗れて切腹したことを、結果的に「武田家から切腹をおせつかった」という表現にした可能性もある。

 

また、同じく古い伝承によると、落城の際に戸坂入道道海は自分の菩提寺である無量寿院(現在の専教寺)の裏山の樫の木で自刃したとある(ちなみに、専教寺の裏にあたる場所が戸坂出城にあたる)。そして、中間氏や福井氏の感状の日付が4月20日であることからして、実際の落城が4月8日であったと推測できる。

 

「毛利家文書1483」によると、天文9年(1540)ごろの戦闘の最中、6月9日に武田光和が病死する。また「陰徳太平記」によると、武田家臣のうち老臣品河氏が、伴氏から跡継ぎを迎えて毛利と一戦することを提案したが、和睦を主張する香川・己斐氏との間に対立が生じて戦闘にまで至ったという。

 

さらに、「陰徳太平記」では、武田光和は天文3年3月3日に33歳で亡くなっている(これはあくまでも軍記物であり、本当は天文9年6月9日に死去したものと考えられる)。となると戸坂氏の大内寄りになる過程において、武田による戸坂氏の討伐があったと考えるのが自然である。

 

その戦いで戸坂入道道海も自刃したのかもしれない。しかし、はたして本当に戸坂入道道海は天文9年4月8日に自刃しているのだろうか。たしかに、戸坂要害落居が天文9年4月上旬に行われていることは、文献からも推測できる。だからと言って戸坂入道道海が自刃したという文献は存在しておらず、一部の反武田派が大内氏に寝返ったことに対する討伐の可能性もなお否定できない。

 

伝承では、安国寺恵瓊がまだ幼少の頃、銀山城が落城する時に戸坂入道道海の導きで城から抜け出して牛田にある安国寺へ預けられたとある。これを信じると、武田光和は天文9年4月当時まだ生存しており、銀山城が落城する天文10年5月頃までに安国寺恵瓊を逃れさせたとも考えられる。また、中間次郎四郎と福井源十郎の感状の文献では、「頸討捕之条」 とあるが、戸坂入道道海の頸とは書いていない。

 

また、天文9年4月8日に武田より切腹を申しつけられたことに関しては、松笠山にある説明看板にのみ書かれていることで、文献上確実な記載のあるものはない。そもそも、天文9年6月9日まで武田光和が生存しているのであれば、安国寺恵瓊をわざわざ城から抜け出させる必要もない。以下のことから、次の2つの推測を立ててみる。

 

 

推測1

安国寺恵の父を武田光和とする場合、もし戸坂入道道海が既に大内氏に寝返っていたのであれば、反敵対勢力になった旧主の武田光和の子をわざわざ銀山城から抜け出させることはしないであろう。

 

推測2

安国寺恵の父を伴繁清、もしくは武田信重とする場合、彼らは武田光和が生存しているのであれば銀山城にはおらず、安国寺恵瓊も銀山城にはいないと考えられる。

 

武田光和が天文9年6月9日に死去し、その後、伴繁清の息子武田信重と、若狭からきた武田信実の家督相続争いに端を発する武田家の内紛の中で、なんとか武田の一族である安国寺恵瓊を牛田へ逃れさせた後、銀山城の落城前後に戸坂道道海も自刃したことが、天文9年4月の戸坂某の裏切りを戸坂入道道海の裏切りによって武田に討伐され自刃したと後世に語り継がれていったとも考えられないだろうか。この点に関しては不明な点も多く今後の研究課題として残る。

 

 

 

 

ちなみに、安国寺恵瓊は従来武田信重の子と言われているが、別の説も多々ある。

また、戸坂氏の大内氏への寝返りについても、この時点では武田・尼子方と思われる某和重から戸坂氏あてに送られた6月25日付け書状によると、

 

光和去九日行候、然者家督之儀御料人被参、人之儀雲州へ被仰上候、即同心候、就夫湯原近々被罷下候

 

と、尼子氏の指導で後継者を決めた上で、さらには

 

此節御同心候て、如前之御家之儀御定候て、乍恐可然存候

 

とある。内容は、戸坂氏の離反がないよう申し入れ、必ず尼子氏の本格的な南下があることを伝えている(「毛利家文書」1483より)。

 

 

実際には、「羽賀寺年中行事」(『小浜市史』社寺文書編、「羽賀寺文書」24)によれば若狭国の武田氏から尼子氏の斡旋で武田信実が迎えられた。やがて、予告通り尼子氏の大軍が毛利氏の本拠吉田郡山城に押し寄せるが、大内氏の援軍も到着し、天文10年(1541)正月、尼子勢は郡山城を落とすことができないまま、大敗して雪の中を敗走してしまう。この時、当主であった武田信実も尼子氏とともに逃走したらしいとある(註13)。

 

戸坂氏は武田氏の家臣であったが、この天文9年頃、武田光和に離反して戸坂で討伐があった。

 

天文9年4月には戸坂城が落城して戸坂入道道海(もしくは戸坂某)が自刃したとすれば、天文9年6月9日には武田光和が病没、その後、武田信実が家督相続をしてから和睦し、戸坂一族は旧領を回復したと推測できる。いずれにせよ、武田氏の討伐によって戸坂要害が落城したことは事実と考えてよいだろう。

 

なお、以下の点については、研究者からご教示を得た。

「毛利家文書」1483は、「和重」という人物が「戸坂殿」に宛てた書状である。和重の「和」は武田光和の偏諱と思われる。

 

内容として

●光和が去る九日に死去したため、跡継ぎの人選について尼子氏に相談していること。

●近々、尼子氏直臣の湯原氏が下向の予定であること。

●このような時期なので、武田方(尼子氏)に同心して前々のように武田の「御家」を安定させるのがよろしいと思う。

などなどである。

 

つまり、武田方の和重が大内方の戸坂氏を懐柔しようとする書状と推定される。この文書が毛利家文書に収載されていることから、この書状を受け取った戸坂氏は、この書状を毛利氏に届け、大内氏方に留まることを示したものと推測される。

 

 

第3章 戦国時代、戶坂入道道海以後の戸坂氏(1540年〜)

吉田郡山城の戦い〜天文9年(1540)一天文10年(1541)〜

吉田郡山城の戦いは、尼子晴久が安芸国吉田の毛利を攻めた戦いである。尼子方30,000の兵に対し、毛利は兵士2,400人と農民や女子、子どもなど5,600人の計8,000で吉田郡山城に籠城し戦ったとされる。籠城戦や野戦を繰り返していたが、結局、尼子軍の撤退により収束する。

 

この結果、安芸国の国人が大内氏へ服属したのと同時に、毛利氏が安芸国での優位を確立することとなった。これは毛利氏が戦国大名として飛躍する大き転機となった出来事である。

図3-1 吉郡山城鳥瞰図

 

図3-2 郡山城旧本城鳥瞰図

 

実際は、尼子軍が攻めて来た時にはまだ旧本城で、現在の吉田郡山城ではなく尾根の先端部分の小さな山城であったともいわれる。

 

武田光和の死亡〜天文9年(1540)6月9日〜

武田光和が亡くなった年については2つの説があるので、このことについて、焦点をあててみることとする。

 

1説  天文3年(1534死亡説)

天文3年(1534)に亡くなっているというのは「陰徳太平記」の記載である。天文3年3月3日に33歳にて死亡、また、誕生年を文亀2年3月3日にするなど、多分に「3」へのこだわりで光和に神秘性を持たせているようにも受け取れる。

 

本来であれば、各種文献等から天文9年(1540) 6月9日に亡くなっているとする見方が強いが、武田光和の庶子である武田小三郎は天正11年(1583)に50回忌を行っており、武田小三郎家では天文3年(1534)に亡くなっていることになっている。

 

山口県玖珂町の欽明寺には武田光和の供養塔があり、その碑文には「営五十回忌法要 第三子刑部少輔 武田小三郎」「天正癸未歳三月八日 明寺住職四世日秀上人施行」とある。武田光和が銀山城で病死した天文3年 (1534)から49年後の天正11年(1583)に供養されたことになり、天文3年(1534)に亡くなったこととなる。

 

ただし、この欽明寺には武田小三郎の妻の墓があり、その妻は実は「安国寺恵瓊が還俗した時に生まれた娘である」という記述が『玖珂町史』79頁にあり、疑問に感じる。

 

また供養塔の成立年代が新しいため、天正未歳三月八日に五十回忌法要をしたという事実を断定できない。

 

 

 

また、近くの周防武田氏屋敷跡にも武田光和の墓がある(所在地 岩国市玖珂町)。

写真3-5 武田光和(左) 武田信宗(右)の墓

 

以下、墓碑から武田光和の部分を引用する。

五輪塔 室町時代

安芸源氏七世武田光和の庶子にして周防源氏の祖武田小三郎は天正十一年三月父光和の五十回忌法要を営み五輪塔を建立し以て光和の墓となす

 

 

 

写真3-6 武田小三郎らの墓

 

 

武田光和、信宗の墓の左隣には近代の武田家の墓がある。さらに、裏山を登ったところには、武田小三郎、妻、義母、息子らの墓が残っている。

 

 

2説  天文9年(1540)死亡説

 

天文9年4月付けの感状に、武田光和が書いたと思われる書状が2通ある。

 

某感状(安芸郡戸坂村百姓重三郎)

於会度戶坂要害(安南郡)落居之、頸討条、忠節比類、於向後被抽粉骨者可

三无妙者也、仍如件

天文九年四月二十日  判(武田光和力?)

中間次郎四郎へ

出典『広島県史』古代中世資料編V1431頁

「郡中士筋之者書出」戶坂村百姓重三郎所持

 

 

福井十郎兵衛信之家証文

於今度戸坂要害落居之場頸討捕条、忠節比類候、弥向粉骨者可為神妙者也

四月廿日

福井源十郎(元)殿  (武田)光和 判

 

出典『毛利元就記考証新裁軍記』83頁

 

 

これらから、武田光和が天文9年 (1540) 4月までは生存していたことがわかる。

 

武田・尼子方と思われる某和重から、戸坂氏あてに送られた6月25日付書状(「毛利家文書1483」より)によると、「光和去九日遠行候、然者家督之儀御料人へ被参、人躰之儀雲州へ被仰上候、即同心候、就夫湯原近々被罷下候」と、尼子氏の指導で後継者を決め、さらに、「此節御同心候て、如前之御家之儀御定候て、乍恐可然存候」 と、戸坂氏の離がないように申し入れ、必ず尼子氏の本格的な南下がある事を伝えている。

 

以下に参考文献として「毛利家文書」1483を掲げて大意を明らかにしておく。

 

尚も申入候、前々の一向無御座之由承及候、不残御心底被仰越候ハ々、何事も可致其覚悟候、能々御思案過間敷候、態申入候、誠不寄思召御引分無是非候、乍去数年就所労、不限御貴所存分まかせ候て洞之儀、余方も無是非次第候、定而可及聞召候、光和去九日行候、然者家督之儀御料人へ被参、人躰之儀雲州へ被仰上候、即同心候、就夫湯原近被罷下候、何事如近年順路二可被仰付由、各申上候、無別条返事候、此節御同心候て、如前之御家之儀御定候て乍恐可然存候、加様為事、如何存候へ共、前之儀も御家儀、親にて候者致御使、御無事申定候口る哉、当春之儀致奉公儀も候口る哉、定可及御覧し候間、不及申候、態方も、唯今色々被申事候、旨神御志やうらん候へ、偽にて候口す候、さきへり候ハ、自雲州取出一定候哉、鹿是も被申事候哉、志芳邊にも一両人御入魂候、これハ存いたし候、於御不審者重而可申入

恐々謹言

六月廿五日                                                      和重

戸坂殿 御宿所

「毛利家文書」1483和重書状

【大意】

わざわざ申し入れます。まことに思ってもおられなかった対立に至ったことは、致し方ことです。しかしがら、光和が数年病気で、貴方の思い通りに任せていたので、一族にもいずれの方においても、致し方もないことです。きっとお聞き入れになるでしょう。

 

光和は去る9日に亡くなりました。したがって、家督のことは御料人(御子息か)が継ぐこととし、人を雲州(尼子氏)へ遣わしたところ、直ちに同意されました。そのことについて、(尼子氏家臣)が近々(安芸へ)やって来られます。

 

何事も近年のように道理に従って仰せつけてほしいと、(武田氏の)各々が(尼子氏へ)書状をもって申し上げましたところ、(武田)の各々が(尼子へ)書状をもって申し上げましたところ、異存という返事でした。

 

この際、(戸坂氏も)これに同心して、前々のように(武田家の)御家のことを定めてほしいと、恐れながら思います。

 

このように差し出がましいことを申すのはいかがと思いますが、前々も御家のことは「親にて候者」(不明)がお使いを出して、無事に定

きたのではなかったでしょうか。また、富春(不明)も、精一杯奉公したのではないでしょうか。

 

こうしたことについては、きっと貴方も御覧になっているでしょうから、申すまでもとです。

 

わざわざ方々からも、いろいろと言って来ているかもしれませんが、このことについて誓って少しも偽りはありません。「さかき」になってしまえば(不明)、雲州から出兵しことは必定ではないでしょうか。

 

また、鹿渡殿(不明)も申されていることではないでし志芳(志和か)辺りにおいても、1、2人が味方されましたが、これは存じております。

不審があれば、再度申し上げるつもりです。

 

恐々謹言

六月廿五日                                                      和重

戸坂殿 御宿所

 

中世における御宿所というのは、宿泊している場所=いつもの拠点(館)ではない所と解釈できる。この書状は天文9年6月25日のものであるが、その2か月前の天文9年(1540)4月9日には戸坂入道道海が武田光和の攻撃により落城自刃の可能性がある。ということは、戸坂入道道海は死亡したが、庶流が生存しており、その庶流に対しこの書状が送られたものとも推測できる。

 

落城して拠点にいない以上、別の場所に宿泊している場所があり(御宿所)、その御宿所に手紙が送られてきたのではなかろうか。

 

「6月9日」としか記載されておらず年が不明であるが、家督相続の件や雲州から出兵してくる件(吉田郡山城への出兵か)を考えれば、天文9年(1540)であるを生が高い。

 

また、厳島神主家である棚守房顕の「房顕覚書」では、光和の死去を天文9年6月としており、「毛利家文書1483」と「房顕覚書」という文献から天文9年(1540)6月9日に亡ったと考えるのか妥当と思われる。

 

吉田へ御合力の陶(隆房)、杉(元相)、内藤(興盛)、毛利殿為初ト、至佐東打被入ル、武田光和八昨年之六月二病死タリト云へ共、洞の賀川早川(品川)、無藤(斎藤)、内藤、返見(逸見)、親流(親類)ノ伴、其外被官ノ者共金山(佐東郡)ヲ持黒免在城ナルノ間、陶大将陣、南御所被陣取儿、其外在所々二陣、毛利元就金蔵(龍)寺/山ヲ陣取給、此等佐東表之儀ナリ

出典『広島県史』中世古代資料編房顕覚書

 

 

【大意】(大内軍が佐東銀山城を攻めた時の記述)

吉田へ参陣した陶隆房・杉元相・内藤興盛、そして毛利殿らが佐東に討ち入った。

武田光和は前年の6月に病死していたが、支配領域の香川・品川・武藤・内藤・逸見、親類筋の伴氏そのほか被官の者どもは、銀山城に在城していたので、陶大将は南の陣所に陣を設けた。その外の部将も在々所々陣取った。毛利元就は金龍寺の山に陣を構えた。これらは佐東表での出来事である。

 

このような状況のなか、光和の死去する2カ月前に武田氏に攻められて戸坂城が落城したが、それでも戸坂氏は某和重の手紙にあるように、尼子や武田氏の配下としての立場であったか、または、すでに大内方に内通していた可能性もあるかもしれない。

 

安国寺恵瓊の出自と戸坂氏

戦国時代、毛利氏の外交僧として有名な安国寺恵の出自については諸説ある。

1説目は、銀山城主武田信重の子で幼名を竹(武)若丸と称したとするもので、これは、信重の墓が安国寺にあるという伝承が論拠とされる(「新山安国寺不動院由来」より)。

 

また、若狭国仏国寺所蔵の「武田氏系図」には「信重之長男、童名武若丸」ともある。

 

2説目には、武田氏の分家の1つである伴氏の伴五郎の子で、8歳の時、徳山の大乗寺で僧となり、11歳で京都の東福寺に住したとするものである(「新山安国寺不動院由来」より)。

 

3説目には、安芸国豊田郡農良村(乃良村か)の民家の子で、11歳の時に薙染(仏門に入ること)して洛東の東福寺に入ったとするものである(「不動院蔵 無表題の由来草案」より)。

 

 

4説目には、武田光和の末子説がある(註14)。

 

さて、3説目を除く上記の説では、安国寺恵瓊は武田氏に縁のある人物であり、銀山城落城時に戸坂入道道海に連れられて牛田の安国寺に入ったとされている。では、その安国寺恵瓊の父親は誰であったのだろうか。

 

まず、1説目の武田信重の長男とする場合、

 

 

となる。武田信重は武田光和の甥にあたり、『安芸・若狭武田一族』によると光和が死亡時に15歳ということから、大永6年(1526) 生まれであり、天文10年 (1541)の銀山城落城時に自刃とされているのは、数え年で16歳の時である。

 

その数年前に、もし安国寺恵瓊が生まれているのであればかなり若い時の子供であり疑問に思う。若狭国仏国寺所蔵の「武田氏系図」に「信重之長男、童名武若丸」とあるが不明な点も多い。

 

さらに、「陰徳太平記」では、伴五郎の子が武田刑部少輔信実との記載があるが、実際には武田信実は若狭武田家からの養子であり(「羽賀寺年中行事」より)、武田信重は伴五郎の嫡子であるとされている。

 

武田光和が亡くなって家督相続したのは、若狭武田氏からの武田信実であって、武田信重が銀山城に居住した可能性は低い。

 

その後、武田信実が出雲に逃亡し最終的に武田信重が家督相続した際、銀山城に入城しその時に安国寺恵(竹若丸)も一緒に銀山城へ入城した可能もあるが、この点に関しては慎重に検討する必要がある。

 

さらに、上記の内容から武田信重と武田信実の事柄が入り混じり混乱している可能性が高い。

 

次に、2説目にあるように安国寺恵瓊を「伴五郎の子」とする場合、

 

 

となり、武田信重と安国寺恵瓊が兄弟になる。この場合には、銀山城落城において伴五郎は居城の伴城にいると思われ、武田信重や安国寺恵瓊も子として伴城にいたと推測されるため、つじつまがあわなくなる。また、戸坂入道道海がわざわざ恵を伴城から逃れさせようとすることは考えにくいことである。武田信実が出雲に逃亡した後に伴下野守繁清や息子の武田信重、安国寺恵(竹若丸)親子が銀山城に入城したのであろうか。そして、その後、毛利氏に攻められて銀山城が落城したのか。

 

 

さらに、4説目の「武田光和の末子」であるならば、

 

 

 

となる。『玖珂町誌』によれば、武田光和には、側室との間に武田小三郎と名乗る子がおり後に成長して毛利元就の影武者として活躍している。

 

そのため、武田光和に男子がいなかったとされるのは正室との間だけのことであり、側室との間に安国寺恵瓊が生まれていた可能性もある。

 

ちなみに、武田小三郎は、銀山城が落城した際に周防欽明寺へ逃れた。彼の正妻は、安国寺恵瓊の娘であるという。

 

つまり、庶子の武田小三郎が周防に逃れたように、別の庶子である安国寺恵瓊(竹若丸)も戸坂入道道海によって逃れされたという事も可能性としては否定できない。

 

以上のことを踏まえると、父親は武田信重、伴五郎、武田光和の3人に可能性があることとなる。しかしながら、どの説にも確実な証拠がないため、現在では、安国寺恵瓊の父親は「不詳」とされている。(『広島市の文化財第23集 不動院の歴史』より)

 

いずれにしても、おそらく戸坂入道道海は、家督相続の内紛や銀山城が落城する事を見越して安国寺恵瓊を逃したのではいだろうか。

 

また、戸坂入道道海は、安国寺恵瓊の傅役(養育係)であったかもしれない。そのような縁で、なんとか落城までに竹若丸を逃れさせ、安国寺へ出家させることによって助命させようとしたとも考えることができる。

 

 

武田氏の家督相続争いと香川氏の離反、八木城攻撃

武田光和は、大内氏の侵攻中の天文9年6月9日に亡くなった。「陰徳太平記」によれば、その相続人として光和の妹婿、伴繁清(伴五郎)の子である刑部少輔を養子にすることになっていた。

 

また一説には、若狭の武田信実を養子にする案もあったが、結局、尼子の推挙した武田信実を養子に迎えいれた。

 

しかし、ここで重臣の中で争いがおこった。毛利元就や熊谷信直らに対して、「武田元繁や光和の弔い合戦をすべし」とする品川氏ら強硬派と、「まずは一旦元就と和睦をすすめ、武田家が断絶することのない状態にしたのちに時機をみて合戦をするべき」とする香川氏や己斐氏らからなる和平派が各々に主張した。

 

武田の老臣品川左京の亮は当家一味の国士 香川、已斐、飯田、温科、福嶋、山県等、其外家の子に筒瀬、毛木、部坂、粟屋、内藤、一条板垣などを呼び集め、(後略)

出典 「陰徳太平記」武田家督評定之事

 

この家督相続の評定衆の中に、武田の有力家臣として部坂氏の名前があがっている。評定衆の一員ということは、それだけ有力家臣であると同時に、4月に戸坂城が落城して2か月あまりで元の地位を回復していることとなる。

 

ただし「陰徳太平記」では、武田光和は天文3年に亡くなっていることになり、事実と食い違っている事もある。

 

弱冠15〜16歳の武田信実は、家中をまとめることができず、ただただ傍観するしかなかった。結局、重臣の家督争いが決定的な亀裂を生み、その結果、香川光景や己斐豊後入道らは武田氏と袂を分かち、毛利方につくことになる。

 

こうした経緯の中で、品川左京亮は香川氏や己斐氏を討とうとした。

 

品川左京は、いよいよ怒りに堪えず、然らばまず香川、己斐を討取てその後国人等を招とてべく辺坂、毛木、飯田、福嶋、遠藤、板垣、一条、粟屋、内藤、青木、細野原、戸谷の香川、秋山己下、其勢八百余り、近日八木の城を攻めんと擬す。(後略)

出典 「陰徳太平記」武田攻八木城付武田出奔并若狭武田之事

 

 

ここで、武田家臣の筆頭として辺坂が挙げられている点に注目したい。このように、辺坂氏は香川氏がたてこもる八木城の攻撃に出陣している。結果は、香川氏の奮戦と親族の平賀氏や熊谷氏(熊谷氏は天文2年(1533)頃に毛利に寝返っている)の援軍により、八木城を落とせないまま帰陣することととなった。これにより、武田家の命運は尽き、当主の武田信実は若狭国に出奔する。

図3-3 八木城鳥瞰図

小さな山城でありながら武田氏の猛攻に耐えた

 

疑問なのは、香川氏が離反したのがいつ頃であったのかということである。

 

「陰徳太平記」によれば、香川光景の武田氏離反は武田光和の死去後、天文3年(1534)3月3日以降ということになる。また、史実においても、武田光和は天文9年(1540)6月9日に亡くなっているとされているので、その後に家督相続の評定があったと考えると、香川氏の離反は天文9年以降ということになる。

 

しかし、ここではあえて、天文9年以前にはすでに香川氏が武田氏から離していた可能性があることを示す文献から、その時期についてもう一度考えてなおしてみたい。

 

『佐東町史』によれば、香川氏が八木城攻めに耐えて戦に勝利した後に、毛利元就は使者を送り、再度武田氏来攻の節には支援を約束した上、毛木・筒瀬・細野で合わせて350貫をあてがっている。

 

しかしながら、当時、まだ大内氏が健在であるのに関わらず、香川氏がいきなり毛利氏に従うことができたかは疑問である。

 

やはり、はじめのうちは、大内氏に従ったと見るのが妥当であり、その時期ももう少しさかのぼらせることができるのではなかろうか。「香川伝」(「陰徳太平記」の中でも香川氏の記述を抜粋し手を加えたもの)の中に「有田合戦の際行景戦死後、元景は父吉景と共に大内家へ随身した」とある。

 

さらには、「継述録」(「香川伝」よりさらに詳しいものでロ伝や言い伝えを書き記している)の中に収められている「八木村松岡才茂四郎家記写」には、大永6年 (1526)2月21日、才茂四郎は香川氏の家臣の沖源次兵衛に従って「西条鏡山城へ御用二付御供仕候」とある。

 

大永6年 (1526)といえば、大内義興が尼子氏方の志芳米山城などを攻めた翌年であり、大永3年(1523)、尼子氏に奪われていた鏡山城を大内氏が奪回したのもこの時であったことから、その戦闘に参加したためではなかったかと推測される。

 

これまでに、大内氏が鏡山城をいつ奪回したかという資料は発見されていないので、そうした点からみるとこの「八木村松岡才茂四郎家記写」は大変に興味深い。

 

また、先の「関東下知状」などと一緒に香川景継氏が所蔵する「吹挙状」もまた、大内氏との関係を知る有力な手掛かりとなる。

 

主殿允所望之事

可令挙京都之状

如件

享禄二年六月十日 花押

出典『佐東町史』

 

この書状は、「主殿允という官名を所望してきたから、それを京都(朝廷)へ吹(推)挙するであろう」というものである。

 

他の書状と異なる点は、宛名がないことと、花押のみでその名がないことであるが、大内氏発行のもので花押は大内義興のものによくている。

 

義興はこの享禄2年(1529)の前の年の12月に死去しているから、この書状はその子・義隆が書いたもので、彼の初期の文書としては珍しいとされている。

 

なお、香川氏の中に主殿允を称した者は見当たらないので、このこともまた今後の研究課題となろう。

 

この書状が大内氏から香川氏あてのものである以上、享禄2年(1529)には大内との関係ができ、さきの元景が父吉景とともに大内への款を通じたとすることに合致することになる。

 

さらに、熊谷信直は、大永4年(1524)に大内義興が安芸へ侵攻し武田氏の銀山城を包囲した際、大内軍が三入庄まで進出しており、まだ熊谷信直が幼少の為、八木城主の香川吉景らの支援を得て大内軍を打ち破ったことが「陰徳太平記」の中の根之坂上合戦に記載されている。

 

同年7月には、銀山城の防御で父の仇である毛利元就の指揮下に入り、大内軍に奇襲をかけこれを打ち破った。仇であった元就の戦いぶりを間近に見た信直は、元就に対する認識を変え、その後毛利氏との和解、さらには毛利氏の調略による武田氏からの離反に繋がったと思われる。

 

このことから、当然ながら、熊谷氏と同じ陣営で戦っている香川氏も元就への認識を変えていき、毛利氏との和解、ひいては大内家への誼を通じることになっていったのではないかと想像できる(註15)。

 

 

熊谷氏や香川氏の離反について

推測①

熊谷信直が天文2年 (1533)に武田氏から離反し、しばらくして香川氏も武田氏から離反した可能性が高い。それが実は天文3年 (1534)頃であり、「陰徳太平記」の著者である香川景継には、先祖が主君の武田氏に対して叛旗を翻したとなると都合が悪くなるため、ここは主君である武田光和を天文3年に病没させたことにして、家臣であった品川との反目で仕方なしに武田家から離反したという名目にしたのではないだろうか。

 

そして、「陰徳太平記」の著者である香川正矩、景継の親子は、先祖である香川光景が後に主君となる毛利氏につく事の”先見の明”を誇示しようと潤色したのではないか。

 

そう考える理由の1つには、国主である武田光和の死亡年を間違えるとは考えられないし、調査すれば簡単に判明することだからである。

 

2つ目の理由としては、武田氏に公然と叛旗を翻したことを、江戸時代中期の忠義第一の時代にあって記述することは、先祖をおとしめる行為となり、ひいては自家を落とすことになりかねない。そのため病没にして家督相続争いの中でやむなく離反したことにしているのではないかとも考えられる。

 

さらにいえば、「陰徳太平記」は「二宮俊実覚書、森脇春方覚書」が「安西軍策」となり、それが「陰徳記」になったのち最終的にまとめられ完成したものである。この変遷のなかで、よく注視してみると、「陰徳太平記」のヘサカの当て字が変わっていくことに気づく。

有田合戦(1517年):辺坂入道道海

武田家督評定(1534年3 月前半):部坂(実際に武田光和が亡くなったのは1540年)

八木城攻撃時(1534年3月中旬か?):辺坂

 

作者が、部坂や辺坂を書き間違えるとは考えにくいとすれば、その前の書物である「二宮俊実覚書 森脇春方覚書」には、部や辺坂が区別して記載されていたのかもしれない。

 

ここで大胆に考えると、有田合戦(1517年)時には辺坂入道道海、香川氏が離して八木城攻撃時(1534年)で辺坂となり、戸坂城陥落(1539年)後に武田陣営に再度戻り、武田家督評定以降(1540年6月9日以降)、部坂と漢字が変更されている(この時辺坂から部坂になった可能性がある)。

 

こうしたことから、香川氏は天文9年(1540)より以前には寝返っていた可能性が示唆されていないか。

 

註:ただし、当時は音があっていれば漢字は当て字の場合も多い。

 

推測②

「天野毛利文書」37には以下の文章がある。

陶隆房書状

其以後無差題目故相過無音候、慮外候、元就被申旨候之条、于今爱許逗留候、近日可隙明之由候間、然者如西条可打越候、彼表一着候者、則至佐東可取懸候、就中香川事此節御調略候者要候、何茂一途被仰調候者、併可為御忠節之所致候、委細者從元就可被电候、自然御存分共候者示給、重可申述候

恐々謹言

正月三十日                                                      隆房

■野民了太輔殿御宿所

 

(大意)

それ以後、大した問題がなかったので連絡もせず、失礼しました。元就が申されることがあったので、いまだに爰許に逗留しています。

 

近日中に暇ができそうなので、そうすれば西条に出向くつもりです。かの表が落着すれば、すぐに佐東に取り懸かるつもりです。

 

とくに、香川の事は、この節に御調略されることが肝要です。いずれも一途に仰せ調えられれば(調略を進められれば)、あわせて(大内家への)御忠節を尽くされることになります。

 

委細は元就より申されるでしょう。もし御存分等を言っていただければ、重ねて申し述べます。

 

恐々謹言

(天文十年)正月三十日                                                隆房

天野民部太輔殿  御宿所

 

天文10年(1541)1月30日付けで晴賢から天野興定へあてた手約を調略(寝返り)するように催促したものである。

また、「棚守房顕覚書」によれば、

 

吉田へ御合ノ陶、杉、内藤、毛利殿為初ト、至佐東打被入ル、武田光和ハ去年之六月ニ病死タリト云ヘ共、洞ノ賀川、早川、無藤、内藤、返見、親流ノ伴、其外被官ノ者共金山ヲ持黒免在城ナルノ間、陶大将陣,南ノ御所被陣取儿、其外在々所二陣取、毛利元就金蔵寺ノ山ヲ陣取給ウ、此等佐東表之儀ナリ

 

【大意】

(大内軍が佐東銀山城を攻めた時の記述)

吉田へ参陣した陶隆房・杉元相・内藤興盛、そして毛利殿らが佐東に討ち入った。武田光和は前年の6月に病死していたが、支配領域の香川.品川·武藤・内藤・逸見、親類の者どもは、銀山城に在城していたので、陶大将は南の陣所に陣を設けた。その外の部将も在々所々取った。毛利元就は金龍寺の山に陣を構えた。

 

これらは佐東表でのなると、大内軍が銀山城を最終攻撃する時まで香川氏は武田の家臣とし、八木城の攻撃の事実がなくなってしまうので(天野興定の調略も失敗におわったのであろうか)、品川氏を筆頭に「陰徳太平記」に出てくる武田氏の八木城攻撃も架空の話になってしまう。

 

その点からも、「陰徳太平記」の八木城攻撃の記載は、史実に反する部分もあると判断してもよいのではないか。(ただ、棚守房顕は香川がすでに武田氏を離反していたのあるため、断定はできない。)上記のように、八木城の戦い自体が謎に仮に攻めているのであれば、武田家臣の一員として戸坂氏が一番最初にあら、武田氏の有力家臣であった事は想像できる。房顕覚書」では金蔵寺となっているが広島県史では蔵がカッコ書きで(龍)となっている。

 

 

銀山城陥落〜天文10年(1541)5月12日〜

村史』によれば、尼子氏が吉田郡山城の戦いで撤退したことで、大内勢および毛利勢は調略にかかり、天文10年(1541) 5月12日から13日にかけておこなわれた最後の戦闘でついに銀山城は落城した。

 

最後まで抵抗した家臣もあったが和談による解決もあったらしく、武田家臣のなかには、続いて大内氏や毛利氏の家臣として活躍した者もいる。

 

戸坂氏の場合、「芸藩通志 巻42」によれば、戸坂道海が戸坂の茶臼山城(戸坂城)に拠ったといい、また地域の伝承をまとめた戸坂公民館の『戸坂のむかし』によれば、天文9年(1540)4月の戸坂要害落城(戸坂出城)の事件は、戸坂氏が武田配下から離反して大内方についたため、武田勢に攻撃されたものと考えたい。

ただ、6月25日付け某和重書状にもあるように、どちらともつかい微妙立場であった事も事実である。

しかし、吉田郡山城で尼子氏が敗北したころには、態度は決まっていたはずである。後述するが戸坂氏は、銀山城陥落後も大内氏や毛利氏に従っていたことが史料に見えるので、最終的には和談によって降伏したものではなかろうか」とある(註16)。

 

註:戸坂城があった山は現在では茶臼城山と呼称する。以前は茶臼山、茶磨山、西山と呼ばれていた。

 

さらに、『中山村史』によれば「戸坂氏は、金山落城の最後まで武田氏に従ったとの伝えもあるが、むしろ武田氏に攻撃されて戸坂道海が倒されたとする伝承のほうが正しいと思われる。おそらく、戸坂道海は天文9年4月以前に大内方に転じており、武田方の攻撃をうけて戸坂要害が落とされ、再度武田方に帰参したらしいが、結局大内氏に内通していたのであろう。そうでなければ、戦後の武田旧領処理で、毛利氏が与えられる予定だった温科の地を、戸坂氏らに与えるようなことはなかったはずである」とある(註17)。

 

さて、天文9年(1540)の戦闘で落とされた要害は、現在も城北学園の上手に残る城郭遺構「戸坂出城」に当たるのではないかと思われる。尾根続きに西山(やまつみさん)とよばれる戸坂城(別名茶臼山城)があり、その一帯で激しい戦闘が行われたのである(註18)。

 

この戸坂要害落城の折、戸坂氏の一族の中には宇部の岐波の部坂一族を頼って移動した者もいたかもしれない。

 

態度が決まっていないということは、戸坂入道一族のように武田氏から離して大内氏につこうとした者や、まだ武田・尼子連合に従って行動しようとする者もいて、6月25日付けの「某和重の書状」は、そんな状況において戸坂氏に対して送られたものと考えだろうか。

 

そして、吉田郡山城の戦いで尼子氏の敗北が決定的になるにいたって、親大内派の戸のまま戸坂に留まったが、反大内派(武田・尼子派)の戸坂一派は戻れずに、一族である宇部の部坂氏を頼ったものと考えられないか。

 

この文書が「毛利家文書」1483に収載されていることから、この書状を受け取った戸坂一派は、この書状を毛利氏に届け、大内氏とを示したものと推測される。

 

また、伝承によれば、その後は芦品郡木野の小林山城主である杉原播磨守盛重の弟、盛村が武田信重の摩下に属して戸坂を領し、嫡子盛宗の代に武田家とともに離散したと言われている(註19)。

 

事実は不明ではあるが、このことからも、一度は戸坂の地が戸坂氏以外の支配者に移ったが、銀山城陥落の折に再び戸坂に戻った一族と、宇部に行った一族とに分かれたとも考えられる。

 

根拠は明確ではないが『日本城郭体系13 広島・岡山』281頁には、杉原盛村は狐爪木城に居城したとある。

註:松笠山の観音寺由来記に戸坂城の別名が狐爪木城とある。

 

図3‐4 銀山城鳥観図

 

図3-6 戸坂城鳥観図(別名:茶臼山城)

牛田山の山頂にある 標高260m 比高232m

戸坂城跡は、牛田山の山頂に位置し、眼下に太田川の可耕地を見下ろすことができる眺望良好の場所にある。

郭は最高所とその北東から東にかけて囲むものの2つからなる。立地から考えて、連絡ないし詰城としての機能を考えたい。

城主は戸坂氏と伝えられている。

 

 

 

 

 

城の構成は、1郭の北東側に郭2を階段状に配し、1郭の背後には堀切を設けて尾根を分断している。城跡の位置や規模から見て戸坂城の支城である可能性が強いが、戸坂城自体も現状では小規模な縄張しか確認できておらず、本城跡と一体としてとらえていく必要がある。

出典『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第1集』

 

 

 

言い伝えによれば、「城の山(丸子山)の麓に無名の墓が3基ばかりある。付近にたくさんあったが、城北学園の敷地造成のさいに不明となる。これは、昔から里人が首塚と呼んでいる墓で、戸坂城落城の時、多くの敗残兵が、ここで討ち首になった者を葬った所を尾首という。」(註20)

 

 

銀山城落城後の戸坂氏 〜天文10年(1541)以降〜

『戸坂村史』によると「金山落城後、毛利氏は広島湾頭への進出を果たす。大永5年(1525)、尼子方から大内方に寝返った時点で、すでに元就は大内義興から可部・深川上下(現在の上深川と下深川)・温科(現在の温品)・玖村の1370貫を約束されていたが、天文10年(1541)の武田氏滅時に、(大内)義隆は可部・温科を熊谷氏や戸坂氏に与え、その代わりに佐東郡のうち緑井・温井(現在の川内)・原郷内(今の西原、東原)・矢賀・中山の1000貫を元就に預け、元就の子隆元も、佐東郡のうち大牛田・小牛田を得た。

 

これは内陸の領主毛利氏にとって大変意味を持つことであったが、この時点では戸坂氏も旧主武田氏を離れ、大内氏の家臣となって健在で、先に見たように本来毛利氏に渡る所領を与えられているほどであった。」(註21)

 

大永5年(1525)当時、毛利元就が尼子氏から大内氏に寝返った時点では、まだその支配を約束されたにすぎず、切り取り次第では毛利の所領となる約束をしていたのであろうか。

 

『広島県の地名』(平凡社)によると、元和5年(1619)当時の石高は次のとおりである。

可部 1683石

深川 1573石(中深川含む石高ではないか?)

温科 1128石

玖村 549石

これらの合計は4933石となり、1貫を約4石と仮定すると約1233貫に換算される。これは、元就が与えられた領地1370貫に近い石高となることから、およそこの地域の支配権を得たのと同じ程度のことと考えられる。

 

ただし、天文10年(1541)に実際に与えられたのは、熊谷氏への可部1683石と戸坂氏への温科1128石を除く地域であり、その減った所領分を緑井、温井、原郷、矢賀、中山で補填したと思われる。

 

深川 1573石

玖村 549石

緑井 1159石

温井 274石

原郷 1060石(西原、東原と推測される)

矢賀 184石

中山 728石

合計5527(=約18貫)

 

さらに、息子の毛利隆元が石高730石(1619年当時)の牛田の地を賜る。これにより、天文10年(1541)当時の広島湾頭における毛利氏の所領は、1619年の石高換算として合計6257石となる。

 

武田氏の滅亡後、その所領のなかでも武田氏直接の支配地を毛利に譲ったものと思われる。緑井は式田氏家老の品川氏の所領で、原郷や牛田なども直接武田氏が支配していた地域と考えられ逆に、武田氏から離れ、大内に臣従し所領を安堵されたところは除外されているのではないか(温井のとなりの中調子村は福島氏の所領であるが、福島氏は大内に従属している)

 

福井氏や山県氏など武田水軍(正式には川ノ内衆)として活躍していた者たちも従属したため、所領安堵している。福島氏、福井氏、山県氏などは武田水軍として活躍した豪族であり後に厳島合戦において重要な役割を果たすこととなる。

 

毛利氏が内陸から広島湾岸へ進出し協力な水軍をを持つためにはどうしても彼らの力が必要だったのではないただろうか。

 

福島氏は、中調子(現在の川内)の国人であった。広島の由来は、毛利元就の先祖である大江広元の「広」と、福島大和守の「島」からとったとの伝承もある。福井氏は、武田繁信の次男である二郎信通より出る。安芸国福井に居住して福井氏を称した。また、山県氏は、武田家臣として佐東川周辺の国人であった。

 

 

戸坂氏が毛利の支配下へ〜弘治元年(1555)以降〜

『戸坂村史』によれば「天文20年 (1551) 9月には、陶晴賢が主君大内義隆を倒すが、前々の意を受けていた毛利氏は金山城などの義隆派を攻撃、翌21年2月には佐東陶晴賢に提出して晴賢の擁立した大内義長の承認を得た。

その地域は、安上下中洲.山本·北庄·岩上諸木末光.府中.村.馬木.原五名・後山・筒瀬・温科・長束・大塚阿土にわたり、さらに戸坂・香川・三須・遠藤の旧武田氏を大内氏から毛利元就の支配下に置いたのである。

 

その後、5月には、毛利氏が新たに得た戸坂の地から、山県就相に「戸坂本地内田畠四十貫を与えている。

 

天文23年(1554)5月には、今度は陶氏に対して毛利氏が反旗を翻し、広島湾頭の陶氏方勢を討ち、更に翌弘治元年(1555)10月の歴史上有名厳島合戦で、一気に陶氏の軍勢を壊滅さる。ここに、安芸国のおける毛利氏の地位は確立したのである。

 

武田の旧家臣で毛利氏の配下についた者の多くは、川内水軍を構成する本来、内陸部の領主であった毛利氏が、陶氏を打ち破ることができたのは、直接衆を味方につけたためであるが、その前段階として広島湾頭の旧武田家ことが大きい。それは、単に水軍というだけでなく、流通を握る商人や、一向宗寺院を含めてである。

 

戸坂氏もそのうちの一つと考えられる。例えば、陶氏との対決を控えた弘治元年7月、元就は「戸坂方をはじめとして、佐東衆各一同に能々可申合候へ、此之由内蔵丞へも申遺候、万々此者可申候」と山県就相・福井元信に書き送っている。

 

内蔵丞とは元就側近の児玉就方で、旧武田系の山県・福井氏を通じて川内水軍を統括していた。

 

戸坂氏は、その山県・福井氏等のもとにあったのである。そのほか、先にあげた香川・三須・遠藤を含めた四家が毛利元信のもとに人夫を差出した例もある。」とある(註22)。

 

毛利元就袖判奉行人連署人足注文

注文

元就公御判

二十人  香川領毛木

       筒瀬

       八木

十人    三須領 

三人    遠藤領   

八人    戸坂領

        以上

 

常楽寺之家臣八屋津(佐東郡)被招寄候、就其人足之儀被电候条、被成御合力候被仰付御馳走肝要之旨候、

恐々謹言

五月八日(年号は不詳)

児玉三郎右衛門尉

      就忠

井上四郎兵衛尉

      就重

平佐源七郎

      就之

 

福井十郎兵衛尉殿

御番所

出典『広島県史』古代中世資料編V(339頁)

「毛利元就袖判奉行人連署人足注文」「譜録」福井信之

 

【大意】

常楽寺の家臣を(佐東郡の) 八屋津に召し寄せられた。それについて、人足を出し言われたので、協力することになった。(福井から香川・三須・遠藤・戸坂氏へ)仰せ付けられ、馳走する(所定の人足を出す)ことが肝要である。恐々謹言

(所定の人足は、香川領の毛木・筒瀬・八木から20人、三須領から10人、遠藤領から3人、戸坂領から8人)

 

当時の軍事動員能力を100石につき約4人位と仮定し、香川領が八木、毛木、筒瀬にあると推測してみると次のようになる。

 

註:石高は1619年当時。『広島県の地名』(平凡社)による。

八木 713石

毛木 273石

筒瀬 249石

合計 1235石

このことから、全体で40人以上は徴兵可能となる。戸坂氏から8人の動員とすれば、200石〜300石が必要となるので、戸坂氏の所領もそれに準じたものではなかったかと推測される。

 

『萩藩閥閱録』巻133「山縣四郎三郎」24によれば、天文21年(1552)5月には、毛利氏が新たに得た戸坂の地から山県就相に「戸坂本地内田畠四拾貫」を与えている。

 

また、弘治2年(1556) 4月5日には福井元信にも戸坂の地が与えられており、『萩藩閥閲録』巻119「福井十郎兵衛」8には「戸坂(安芸)分四町七段、米拾四石三六升足之事、14石分として田4町7反を与えられている)」とある。戸坂の地も、山県・福井氏以外の家臣にも与えられていた可能性が考えられるので、何らかの理由で戸坂氏が戸坂の地のすべての知行を持ってはいなかったと思われる。

 

天文22年(1553)当時の毛利元就の知行地

安上下 2304石

中洲 266石

山本 697石

北庄 1000石 (現在の東野と中筋、古市と推定される)

岩上 467石

諸木 251石

末光 87石

府中 1856石

玖村 549石

馬木 369石

原五名 不明

後山 394石

筒瀬 249石

温科 1128石

長束 520石

大塚 692石

阿土 831石

合計 11660石(原五名除く)

出典 『広島県の地名』(平凡社)

註:石高は1619年当時

 

1541年当時に賜った所領を合わせると17000石強となる。原五名や戸坂・の所領も合わせると、この当時に広島湾頭に約20000石の所領があったと推定できる。

このようにして、戸坂・香川・三須・遠藤の旧武田家臣を大内氏から毛利氏の支配下に置いたと思われる。

 

天文10年(1541)に元就が安芸武田氏を滅ぼし、旧武田氏の警固衆であった川ノ内衆の福井元信と山県就相を家臣とした。飯田義武は児玉就方とともに川ノ内衆の指揮権を委ねられた。これが毛利家直属の水軍の始まりであった。

 

支配系統

毛利元就

飯田義武、児玉就方へ水軍の指揮権を与える。

川ノ内衆の触れ頭である福井元信や山県就相がその実質運用者となる。

さらに近隣の小領主(国人)を実践部隊として傘下に入れる。

 

 

 

天文21年(1552)5月11日には、毛利氏が新たに得た戸坂の地から、山県就相に「戸坂本地内田畠40貫」を与えている。

 

戶坂(安芸)本地内田富四拾貫遣候可知行之状如件

天文二十一年五月十一日

山縣左衛門(就相)大夫とのへ                        元就

出典『萩藩閥閱錄』巻133「山縣四郎三郎」24

 

また、弘治2年 (1556)4月5日には福井元信にも戸坂の地が与えられている。

 

戸坂(安芸)分田四町七段、米拾四石三斗六升足之事、為給地遣候、

全可知行候、仍一行如件

弘治二

卯月五日

                                           元就

福井十郎兵衛尉殿

出典『萩藩閥閱錄』巻119「福井郎兵衛」8

 

戸坂の名前が最後に出てくるのは、弘治3年 (1557)11月18日である。これは、毛利元就が防長攻略をして大内義長を滅ぼした年である。

 

「福井十郎兵衛尉殿 元就」

尚々各馳走要之由可有候、方郷人落口へ可遣候熊申遣、徳地(周防)□集候地下方□□落散之由电候間、爰元人数迫々諸□□遣候、然間佐東(安芸)衆之事明日可罷出之由申て候へ共、今日中爰元罷着候様二急度可相觸候へ

香川·三次・戸坂□□可申遺候、其外事能可申遣候へ 謹言

(弘治3年)

十一月十八日

                                   元就

出典『萩藩閥錄』巻119「福井十郎兵衛」20

註:荒木清二氏のご教示よれば、『萩藩閥閲録』巻119「福井十郎兵衛」のところでは、「三次」と読んでいるが、「三須」の可能性が高いのではないかと思われる。原本を見た訳ではないので断定はできないが、「次」と「須の崩し字はよく似ているし、ここに「三次(三吉)

氏」が出てくるのは唐突のような気がする。

 

[大意】

わざわざ申し遣わす。徳地に集結していた地下人が方々へ逃散したと言ってきたので、こちらの軍勢を追々諸方面へ派遣することにした。したがって、佐東衆のことは明日出てくるように申し付けていたけれども、(情勢が変わったので) 今日中にこちらへ到着するように、取り急ぎ触れを出すべきである(触れを出しなさい)。

 

香川・三次(三須か)・戸坂にも、そのように申し遣わすべきである。その外の衆にも、よくよく申し遣わすべきである。謹言。(追伸部分)なお、各々が馳走する(しっかり働く)ことが肝要だと言いなさい。方々の郷人(地下人)が逃げて行った村へ派遣するつもりである。

(弘治3年)11月18日

元就

 

1591年の毛利氏家臣の知行を記している『毛利氏八箇国御時代分限帳』によれば、当時毛利氏から知行を与えられた人物に戸坂氏の名前が出ていない。

この頃にはすでに戸坂氏が戸坂の地にいなかったのか、別の国人の家臣となり毛利氏からは陪臣となったため、所領を直接得る立場になかった可能性も考えられる。

 

天文22年(1553)に大内義長から所領を賜り、厳島の合戦までには広島の湾岸部を抑えていた毛利氏が、その後、戸坂の地を直接支配するようになった(戸坂氏の所領を福井氏や山県氏に与えた)。

 

この時にどのような事があったのかは不明であるが最後まで戸坂に残っていた戸坂氏一族も最終的には帰農、もしくは宇部の一族を頼って行ったのではないかと想像する。

 

『広島県史』の通史編中世では山県氏は戸坂本地にも所領があり、このころには戸坂氏は山県氏の支配下に置かれていたのかもしれない。

 

戸坂(安芸)本地内田島四拾貫遣候可知行之状如件

天文二十一年五月十一日

山縣左衛門(就相)大夫とのへ

                       元就

出典『萩藩閥閱録』巻13「山縣四郎三郎」24

川ノ内衆(武田水軍)について

川ノ内衆とは、武田の水軍をさす時に「川ノ内」とよばれるくらいので、河川におり警固をしていたものと考えられる。

現在では、交通網の発達や自動車の普及などで陸地の交通が主流であるが、江戸時代までは水運が交通の最大の手段であり、そのスピードは人間の足の何倍も速かった。現代社会の常識で中世を図ると見誤るので注意が必要である。

 

では、中世の海はどこまであったのであろうか。太古の昔、広島はかなり内陸部にあって、戸坂や長束でも貝塚が発見されている。また、古来、神皇后の三韓征伐の折には、可部まで海であったと伝説もある。鎌倉時代には武田山の麓の下祇園の駅付近に「帆立」という地名がある事から、この付近までは船の行き来があったはずであり、さらに安佐南郵便局付近には「今津(新しい港の意味)」という地名があり、これもまた海に関連する。

 

 

安芸国守護武田氏の居館があり、政治、経済、文化の中心地であったとともにこのあたり (特に河口部)は、所領の米その他の物産が集まる一大集積地でああった。

 

鎌倉時代初期、旧祇園町一帯には、安芸国内から運ばれてくる物資の保管倉庫(倉敷地)が集中していました。また、この地域は、古市、今津などの市場や港町で賑わい、安芸国の政治、経済、交通の大変重要な場所をしめていました。

引用元 「銀山城(武田山山頂)の看板」

 

こうした要衝の地をおさえるため、承久の乱(1221年)で手柄をたてた甲斐(山梨)、安芸守護職に任命され、守護所を武田山南麓に構えました。その後、鎌倉時代末までには、武田氏により銀山城が築かれたと伝えています。

銀山城は、これ以後、天文10年(1554)大内氏の命をうけた毛利元就に攻め落とされるまで約300年間、大田川中、下流域を中心として安芸国支配をすすめとうとした武田氏一族の一大拠点として重要な役割を果たしていました。

引用元 「銀山城(武田山山頂)の看板」

 

『戸坂村史』によれば、「従来内陸部荘園の倉敷地として、また水陸交通接点の市場として繁栄し、武田氏城下町が設定されたのは太田川西岸であったが、この16世紀半ばには東岸も経済的に重要な拠点になりつつあったようである。」とある。続いて、天正年間(1573〜92年)の吉郡山城修築に関係するらしい2月16日付け「毛利輝元書状では、「米之事ハ、戸坂米つかい候へく候、遺様、惣四・山田・其方可相談候、かいへ敷普請ハ候ハて米銭入候てハ、更無所詮との申事候」とある。

『譜録』二宮辰相『広島県史』古代中世資料編Ⅴ

 

また、天正17年(1589)の広島築城に関係するらしい正月19日付けの、二宮就辰あて毛利輝元書状では、なんとしても島普請(広島築城)を成功させると決意を述べ、「於其元まかない方事、戸坂米可在之候、其元越候ハハ、則可受取候」とある。同上

 

吉田郡山城修築や広島城築城に戸坂米が使われているのは、ただ戸坂産の米を使用したでなく、戸坂に、ある程度の米が集積されるようなことがあったからかもしれない」とある。(註23)

 

 

川ノ内衆は水軍で武装集団ではなく、平時は海運を担い戦時には武装化して戦う国衆であったと思われる。

そもそも当時は、海と川との境界線の認識が現代と異なっている。現代は河口の広い場所が海という認識あるが、中世の時代には「船がもうこれ以上遡れないという場所」までが海という認識であった。また、昔は橋がないので、かなり奥まで船で進むことができた。

 

「船がもうこれ以上遡れないという場所」ということで、広義の意味ではかなり河口から奥深くまで海という認識があったかもしれない。(註24)

 

安国寺恵瓊が朝鮮の役から帰って来た時には、安国寺の付近まで船をつかせて戦利品を安国寺に納めたという伝承がある。また、毛利輝元も、豊臣秀吉の命により大坂城を建設する中で三篠川の上流の白木町から大木を川で船に乗せて移動ということがあった。

 

鎌倉時代から室町時代初期は、太田川(中世の太田川は現在の古川に比定される)の西側を中心に発展したが、戦国時代頃には太田川の東側も経済的に発展していった。そこで、戸坂氏も川内衆の一員若しくはそれに近い関係の国人として武田氏の中で重要な位置を占めていたと考えられる。

 

毛利氏の初期には広島湾の近くで活躍していた川ノ内衆も、その後、村上水軍や小早川水軍と交わって戦闘している間に次第にたくましくなっていき、朝鮮出兵などでも活躍するようになる。

 

このように、毛利水軍の成長とともに川ノ内衆も成長していったが、歴史の表舞台に出てくるのは毛利家とともに萩に行った香川氏、福井氏、山県氏などである。しかし、戸坂氏については、川内衆としての活躍が不明であり、今後の研究課題として残る。

 

初期の毛利水軍

川ノ内衆(毛利水軍)

毛利氏譜代の臣

児玉氏(毛利氏家臣) 飯田氏(毛利氏家臣)

 

武田氏の譜代の臣や国人

福井氏(安芸武田氏一族)、山県氏(安芸武田氏家臣)

註:この福井、山県の両名は毛利氏から触れ頭として水軍を統率する存在であった。

 

地元の小領主で実際の行動部隊

香川氏(安芸武田氏家臣)福嶋(安芸武田氏家臣)

三須氏(安芸武氏家臣)遠藤(安芸武氏家臣)戸坂氏(安芸武田家臣)

註:実際には触れ頭が彼らに指示命令を下して参戦させていた。

 

 

その後の戸坂氏 〜弘治3年(1557)以降〜

戦国時代後期から戸坂氏が歴史上の表舞台に出てこなくなる。理由は不明であるが、毛利氏の家臣として仕えなかったのか、または陪臣になったため記録が残らなかったものと考えられる。

 

その中には、帰農した一族もいたと思われる。また別の一族は宇部の岐波(きわ)村に移動した者もいたとも思われる。ここでは、宇部に行った一族について考えてみたい。

 

推測では、まず第1陣は、長禄元年(1457)の戸坂播磨守信成が己斐城落城時、右田弘篤によって討死した際、家臣がその遺児を伴って投降したものと思われる。詳細な理由は分分からないが戸坂に戻れない(戻らない)ことにより宇部の岐波に行くこととなる。

 

戸坂を部坂と変更したが、「戸」も「部」も読みは同じ「へさか」である。家臣は遺児を奉じて投降、どんな縁で岐波に住むようになったかは不明であるが、『宇部市東岐波 部坂家文書目録』によれば「東岐波に右田領という地名がある所から右田氏の所領が岐波村にあったのでその縁によって来住したのではあるまいか」としている。

 

また、部坂の遺児は長じて弥六左衛門尉正信となり「大内氏の眷顧をうけて云々」とあり、この地方の有力者となっていく(註25)。

 

延徳2年(1490) には、部坂弥六左衛門尉正信の名前があり(『宇部市東岐波部坂家文書目録』)、らに天正16年(1588)の文章の中には戸坂神兵衛尉の名前が出ている。

 

第2陣は、天文9年 (1540)の戸坂要害落城の頃ではないだろうか。一族が「武田・尼子派」と「毛利・大内派」に分かれた時、戸坂入道道海は反武田派として攻められて自刃したとされているが、一族の中には親武田派もいたと思われる。

 

また、戸坂は一時期「杉原播磨守盛重の弟盛村が、武田信重の摩下に属して戸坂を領して」(『新廣島城下町』125頁)とあるように、杉原盛村に占拠していたという伝承もあることから、この時期に一族の一派が岐波の部坂氏を頼り移動したことは可能性として大いにありうる。

 

興味深い繋がりとして1つの伝承がある。

「(東岐波の隣町である)阿知須町には本竜寺という真宗寺がある。この寺は元東岐波磯地貞宗にあったもので、現在(昭和30年代をさす)でも姓を部坂といい紋所は中に紋様のない松皮菱である。この寺から西本願寺へ出した届書の控によると「天正十一年(1583)芸州戸坂城主部坂左近道正尼子氏の乱に際し落城して磯地に来り草庵を結びて住す。享保六年(1721)十一月廿三日阿知須に移転す」とある。(註26)

出典 『宇部市東岐波部家文書目録』11-12頁

 

 

天正11年(1583)と言えば、既に毛利は尼子を従属している時期であるからおかしいが、誤謬で天文11年 (1542)であれば時代的に合う。天文9〜10年(1540〜1541)の騒乱の後に、一族の部坂左近道正が宇部の部坂一族を頼って移動してきたものと考えられる。

 

第3陣は、銀山城落城以降、毛利元就が徐々に広島湾頭の所領を拡大していく中で、戸坂も毛利氏の所領となり、理由は不明であるが最後の戸坂一族も宇部岐波村に行ったか、もしくは、名前を変えて帰農したものと思われる。

 

なお、専門家のご教示によれば、天文20年(1551)の大寧寺の変において陶氏の謀反後、それに与した恩賞として毛利氏が大内義長から認められた所領の中に、「玖村」「温科」「戸坂」がある(『毛利家文書』261)。謀に際して戸坂氏は最後まで大内義隆方に与したのであろうか。

 

あるいは、国衆としての自立性を放棄して、毛利氏家臣に転じたのであろうか。前者の可能性の方が高いと思われるが、この点は不明である。戸坂氏が大寧寺の変に際して大内義隆に与したために所領を没収された可能性も否定できない。

 

さらに、『萩藩閥閲録』巻133「山縣四郎三郎」10について、同様に専門家から以下のご教示頂いた。

『萩藩閥閱錄』巻133「山縣四郎三郎」10

元就が川ノ内水軍の触れ頭である山県・福井両名に対し、次のことを指示した書状。

 

【大意】

戸坂方を始めとして佐東衆とお前たちが一緒にしっかり申し合わせよ。このことを児玉就方にも申し遣わした。詳しくはこの者が話す。

 

① 陶氏の謀反後、毛利氏がその恩賞として広島湾頭を大内義長から認められたのが天文21年(1552))5月3日である(『毛利家文書』261・262)。こうして、元就は戸坂ほかを領有することとなり、その数日後の同年5月11日(または21日)に山県左衛門太夫に対し「戸坂本地内」の

田畠を与えている(『萩藩閥開録』巻133「山縣四郎三郎」24・92、「山縣小伝次」4)。

 

戸坂を領有したいという元就の希望は、郡山合戦・武田氏滅亡後11年を経て、やっとかなえられた。

 

② 本地について 例えば、現在の東広島市福富町久芳の領主久芳氏の本拠地を「久芳本地」と呼んでいる(『萩藩閥閱録』巻117「久芳五郎右衛門」2)ように、この「戸坂本地」とは戸坂氏の本拠地のことである。

 

この段階において、元就は戸坂氏の本拠地内の知行宛行を意のままに行えるようになったのであり、戸坂氏の勢力が確実に後退したことを示している。

 

この原因を戸坂氏が陶氏の謀反に際して最後まで大内義隆方に与したことと推測することは、あながち間違っていないと考える。

 

③ 天文24年(1555)7月段階に「戸坂」を名乗る「佐東衆」の存在が確かめられる(『萩藩閥悦録』巻133「山四郎三郎」 10)ことから、元就の領有下においても生き延びた戸坂氏が知られる。おそらく戸坂氏の惣領家は大内義降とともに没落し、庶子家が戸坂に権益を維持したまま、元就の傘下に入り、「佐東衆」の一員に編制されたのではないかと思う。

 

また、専門家からのご教示により以下の事が判明した。

「部坂」か「戸坂」姓の藩士について、萩藩、支藩に関しては徳山藩以外にごく一般的な分限帳のデータの中に「部坂」「戸坂」という名字の藩士はいない。しかし萩藩陪臣としては各一家存在している。

 

萩藩陪臣とは:「陪臣」と言う言葉は、「家来の家来」とか「家来(またげらい」という意味で、「直参(じきさん)」や「直臣(じきしん)」に相対する言葉です。萩藩の藩主が毛利氏で、萩藩士は毛利氏の家来、即ち、直参になります。萩藩士の家来(例えば、ご家老の家来)は毛利氏にとっては家来の家来ですから「陪臣」ということになります。これを「萩藩陪臣」と呼びます。

 

「部坂」は萩藩士(大組)井上家(禄高225石)の家来(萩藩陪臣)で廃藩直前の当主は部坂吉蔵という、住居は萩に在住していた。

「戸坂」は萩藩士(船手組)山家(禄高280石6斗4升の家来(萩藩陪臣)で、廃藩直前の当主は戸坂織人という。住居は三田尻に在住していた。

註:ただし、この家は「とさか」と読む。

出典 山口県文書館「元陪臣帳」

 

上記の山県家の家来である戸坂織人に関して主君が船手組の山県家であることから、中世佐東郡内において川ノ内衆として活躍していた山県氏の系統と考えられないか。

註:専門家のご教示によれば、この山県家の明治3年時点での当主名は「山県四郎三郎」であり、幕末から明治の武士はその家の古来の名前を名乗ることが多く、山県家もその一例と考えることは無理がないとのこと。

 

前述のご教示とあわせて考察すると、以下の推測ができる。

 

銀山城落城の際に親大内に属していた戸坂氏は、温科の地を賜るまでに勢力を拡大したが、陶氏の謀反の際に大内義隆に与したため、毛利元就から攻められて没落し所領を没収される。

 

戸坂氏の本地であった場所は、山県氏や福井氏がその所領を毛利元就から拝領する(『萩藩閥閲録』巻133「山縣四郎三郎」24、巻119「福井十郎兵衛」8)。しかし、庶子家が戸坂に権益を維持したまま、山県氏の家臣となった者もおり戦に参戦している(『萩藩閥閲録』巻119「山縣四郎三郎」10)。

 

戦国時代後半の戸坂氏は山県氏の家臣として存在していたが、関ケ原の戦いの後、山県氏の山口への移動の際に戸坂氏も従ったため、本貫地である戸坂にはいなくなり、最終的にすべての戸坂氏が山口に移動したものと推測される。

 

『戸坂町誌』によれば、戸坂にある専教寺は「元真言宗、無量寿院の跡寺である。戸坂入道の祈願寺であったが、天文9年(1540)の戸坂落城後は寺運ふるわず、無住となって荒れ果てたが、文禄3年 (1594)には真宗寺に改めた」とある。

 

おそらくは、陶氏の謀反以降に戸坂氏が没落したために無住となったのではなかろうか。これらのことが、戸坂氏が戸坂からいなくなった、もしくは著しく勢力が後退したことを示す根拠になると思われる。

 

ホームページの「姓名分布&ランキング写録宝夢巣」にあるデータによると、山口県内における「部坂」姓は、宇部市に43軒、山口市に7軒、山陽小野田市に9軒、下関市に1軒とある(全国では85軒)。また、「戸坂」姓は宇部市に4軒、山口市に4軒、山陽小野田市に2軒ある(全国では209軒)。

 

現在、山口県で合計70軒もある「部坂(戸坂)」姓が、一つの家から派生したとは考えにくく、いくつかの庶流があったものと思われる。

当然、戸坂参河守信定や戸坂入道道海、さらには小次郎繁澄には、有田合戦における辺坂権六や辺坂五太夫など多くの子や兄弟がいたであろうから、それらが一族や庶流を形成していたものと考えられる。

 

註:現在、部坂氏の嫡流は東岐波から東京へ移動され、医院を開業されている。また多くの文書を蔵している。

 

 

 

補足 戸坂氏に関する由来、伝承、遺跡

戸坂氏の由来と伝承

〇菩提寺

無量寿院(真言宗)。現在の専教寺。天文年間に開山との伝承があり寺域は広く大きかった。

他にも戸坂氏としての菩提寺があったものと思われる。1825年当時の「芸藩通志」には、東帰庵跡、理寛寺跡、竜泉寺、浄玄寺などの表記や城谷という場所があり、城の谷とも呼ばれて昔は寺がたくさんあったことが推測される。武田氏と戦をして戸坂氏が負けたので寺がなくなったとの伝承がある(「戸坂のむかし」より)。

 

〇龍水山松笠観音寺

松笠山の山頂付近にあり、戸坂氏の現世利益を祈願する寺であったと思われる。また、隠れ城としての機能もあったとの伝承もある。大永7年(1527年)5月〜7月にかけて大内義興が攻めてきた時、5月13日にこの松笠山にて合戦が行われている。

 

 

 

〇八幡宮

一番大きなものは狐瓜木神社があり、八幡社の三柱を祀ってある。勧請が永観2年(984)と極めて古く、文永11年(1274)には武田信時が安芸国守護に任じられ、狐瓜木神社を佐東郡の惣社としており、大内義隆や毛利元就も神田を寄進しているため、戸坂氏も崇拝していたのではないかと推測される。また、数甲には三宅神社があり、旧記によれば明徳3年(1392)に八幡様を勧請したとあるので、初期の戸坂氏が何らかの関わりをもち勧請した可能性もある。

 

 

 

〇大山祇神

大山祇神は全国約1万社といわれる山祇神社に祀られているが、その中心は瀬戸内海の大三島に鎮座する大山祇神社である。一説によれば、仁徳天皇の時代に創建されたという古い神社。中世には瀬戸内海の水軍に篤く信仰され、そのため、武神とみなされることもある。この神社には多数の鎧・兜が納められており、国宝・重文級のものも多数ある。その数は全国の国宝・重文クラスの鎧兜の7割にも達する。

引用元URL  http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/yamazumi.htm

 

牛田山は茶臼山、茶磨山、西山とも呼ばれていた。また古老は山積さんとも言っていた。戸坂入道もまた、この山を拠点にし、この神を崇敬した可能性がある。江戸時代までは山頂に神社があったが、明治初年に狐瓜木神社に合祀された(『戸坂町誌』による)。

 

武田の家臣として川ノ内衆(武田水軍)の一翼を担ったと思われる戸坂氏は、その武運長久を祈願し、大山祇神を山頂に祀る事によって得ようとしていたのではないか。

 

〇安国寺(不動院)

戸坂入道道海は、まだ幼かった竹(武)若丸(後の安国寺恵)を天文9年(1540) 銀山城落城の際に安国寺へ逃れさせたとの説がある。武田氏が安芸国守護となると、武田氏の菩提寺となった。

 

恵瓊は、僧侶として天正2年 (1574)に安芸安国寺の住持となり、大内義隆が建立した建築物を安国寺に移築するなどした。本堂は天文9年(1540)に山口から移築して建立したものである。(安国寺は、後の「関ヶ原の戦い」で毛利氏が萩に移り広島に福島正則が来た際に臨済宗

から真言宗へ改宗し、寺号も安国寺から不動院に変わった。)

引用元URL「広島県の文化財」 http://www.pref.hiroshima.lg.jp/kyouiku/hotlin/bunkazai/data/101010020.htm

 

 

〇千人塚

戸坂の東に位置する松笠山のさらに東に二城ヶ山があり、その中腹に千人塚がある。この千人塚は、天文8年(1539) 9月17日に「尼子・武田氏(支配下に戸坂氏も含む)」対「大内・毛利氏」の戦いによって亡くなった戦没者の供養をしたものだと考えられる。この時期を含め前後にこの松笠山周辺での戦闘は大永7年(1527)の松笠山合戦と天文8年(1539)の戸坂合戦しかない、しかも、尼子方が参戦したのは後者のみである。千人塚の伝承には、「麓の「菰口」の地名は現在の島根県の温泉津地方(島根県大田市温泉津町荻村菰口)に由来した」、などのいわれがあり雲州との関わり合いが深い。断定は出来ないが天文8年の戦の犠牲者が千人塚のいわれがあり、埋葬され千人塚と後に呼称された可能性は多分にある。

戦後まもなくは、千人塚あたりまで下草刈り場だったので大きな木が育っておらず、子どもたちのの遊び場であったという。しかし、その後は柴刈りも行われず、植林もされたために大きな木が生えており、場所の特定は困難だったが、現地調査を行いほぼ位置を特定できた。山麓付近には延命地蔵(供養地蔵)などがある。

引用元URL: 送電線巡視路から登り、一の谷を下る 二ヶ城山(483.2m)

 

 

千人塚の由来伝承

千人塚には、次のような由来伝承が伝わっている。

・戦で亡くなった大勢の人間を千人塚として供養した。

・塚の石は太田川から取ってきた。

・麓には延命地蔵があり、戦で亡くなった者を供養するために出来たと伝えられる。

・地蔵から真正面の山へ直線で行ったところに千人塚がある。

・麓の「菰口」の地名は現在の島根県の温泉津地方(島根県大田市温泉津町荻村菰口)に由来し、尼子の敗軍兵が千人塚を供養するために住みついたため出身地名をあてた。敗軍兵の子孫はもともと山の中腹に住んでいたが、後に麓付近に出て来た(明治ごろ)。

・昔は里山で山の中腹までは柴刈りのため木は生えていなかった。子どもはこの千人塚でよく遊んでいた。

・今では植林や柴刈りがないため木が生えて大きくなり、千人塚の場所が分からなくなっている。

・昔、この付近で槍や刀が出てきたという言い伝えがある。

 

 

蝦蟇ケ峠から約1350mの地点に「千人塚 入口350m」 の看板がある。直線距離では350m程度であるが、実際にはかなりの距離を歩かないと到達できない。高低差は100m程度。途中で藪化していて、最後には大きな倒木があり道に迷いやすい。千人塚には相当数の瓦礫があり、若干木が生えているが草は生えていない。井戸跡があることから、近くにあったとされる「二ヶ城」の郭だった可能性もある。

 

図4-4 二ヶ城鳥瞰図

千人塚の近くにある二ヶ城

 

〇多々万比城

多々万比城は、戸坂一族である戸坂弾正が攻め滅ぼした山城で大内越山にある。

この地一帯は、多々万比城という中世の山城があったところです。周防国山口の大内義隆方の、大須三郎が築いたと伝えられており、城郭全体は明らかにはわかりませんが、三つの郭を階段状した城であったようです。「知新集」では戸坂弾正によって亡ぼされたと記されています。

引用元「多万比城跡看板」

図4-5  多々万比城鳥瞰図

〇戸坂氏の館の位置(戸坂城を中心とした地形図)

成(牛田山頂上付近)を中心にして鬼門(北東) の方向に「無量寿院(菩提寺)」「三宅神社(八幡宮) と「松笠観音寺(観音堂)」がある。平時に戸坂氏が居を構えたであろう居館の位置は不明であるが、もし仮に、居館の位置を城と八幡宮を結ぶライン上の平地(現在の大上~数甲周辺)あたりに考えてみると、居館の鬼門に八幡宮や観音堂が、また裏鬼門(南西)に菩提寺や城、大上祇神(戦いの神)などが配置された格好になる。小字の「数甲」の由来が甲(かぶと)を販売していたという伝承から、この地域が戸坂氏と武具を通じて関わりがあったとも想像できる。

 

 

 

時系列 戸坂氏の変遷

ここに、戸坂氏に関わる事柄を時系列でまとめてみる。

 

承久3年(1221)

武田信光が安芸国の守護を賜る。

 

文永11年(1274)

武田信時が蒙古襲来に備えて安芸国へ下向する。一族の武田某も一緒に下向し、在地名を取り

戸坂氏を名乗った可能性が高い。

 

明徳3年(1392)

三宅神社が勧請される。戸坂氏の勧請か。

 

康正3年(1457)

戸坂播磨守信成が己斐城にて討死。信成の遺児は家臣とともに宇部の岐波へ。

註:長禄元年ともあるが長禄は9月28日からあり戦があったのは3月なので正式には康正3年になる。

出典「大内氏実録」第8教弘、「毛利家文書」97

明応8年 (1499)

戸坂参河守信定が毛利氏の所領安堵について武田氏以下重臣と連署する。

出典 「毛利家文書」166

 

永正14年(1517)

武田元繁が有田の合戦で討死。この戦いに戸坂入道道海や戸坂小次郎繁澄が参加している。ま

た、辺坂権八や辺坂五太夫が討死している。

出典「陰徳太平記」

 

大永7年(1527)5月13日

松笠山で戦いがある。戸坂入道道海も参陣か。

出典 「三浦家文書」97

天文年間(1530年代)

この頃、松笠観音寺や祈祷寺である無量寿院を勧請する。

また、大内方の大須三郎が矢賀新開で戸坂弾正に滅ぼされる。

出典「知新集」

天文8年 (1539) 9月17日

戸坂において「武田・尼子」対「毛利・大内」の合戦がある。おそらく戸坂入道道海も参陣。

温品の二ヶ城山中腹にある千人塚はこの戦いの戦死者か。

出典『萩藩閥閱録』卷80「岡左衛門」2「吉川家文書」408

 

天文9年 (1540) 4月8日

武田氏に攻められ戸坂要害落城。戸坂入道道海自刃か。

出典『広島県史』古代中世資料編V1431頁

「郡中士筋之者書出」戶坂村百姓重三郎所持

 

天文9年 (1540)6月25日

武田・尼子方の某和重から、戸坂氏の離反がないように書状がくる。

出典 「毛利家文書」1483

この頃一時期、杉原播磨守盛重の弟盛村が武田信重の麾下に属して戸坂を領したとの伝承がある。この時期に戸坂氏の一派が宇部の岐波へ移動しているかもしれない (1542年の事と繋がっている可能性がある)。

 

天文10年(1541)5月

銀山城落城。この時戸坂氏は、毛利氏の所領になるはずだった温科 (温品)の所領を大内氏から賜る。

出典 「毛利家文書」258

 

天文11年(1542)

「天正十一年(天文11年の誤りだと思われる)芸州戸坂城主部坂左近道正尼子氏の乱に際し落城して磯地に来り草庵を結びて住す」

出典『宇部市東岐波部坂家文書目録』

 

天文20年(1551)9月

陶晴賢が大内義隆を謀反で滅ぼし、一族の大内義長を君主にする。

 

天文21年(1552) 5月3日

毛利元就が大内義長から所領を賜り、戸坂、香川、三須、遠藤を支配下に置く。この時から戸坂氏が毛利氏に臣従する。

出典 「毛利家文書」261,262

 

天文21年(1552) 5月11日

毛利氏が新たに得た戸坂の地から、山県就相に「戸坂本地内田畠四十貫」を与えている。

出典『萩藩閥閱録』巻133「山県四郎三郎」24

 

天文24年(1555)7月6日

毛利元就が川内水軍の触れ頭である山県・福井両名に対し戸坂方を始めとして佐東衆と一緒にしっかり申し合わせよと指示。厳島合戦の前であるのでその事についての書状と推測される。

出典『萩藩閥開錄』巻113「山縣四郎三郎」10

 

弘治2年(1556)4月5日

福井元信にも戸坂の地が与えられている。「田四町七段、米十四石三斗六升足之事」

出典『萩藩閥閱錄』巻119「福井十郎兵衛」8

 

弘治3年(1557) 11月18日

毛利元就が防長攻略をして大内義長を滅す。戸坂氏も出陣している。

出典『萩藩閥録』巻119「福井十郎兵衛」20

 

戸坂氏に関係する人物と事柄

ここに、戸坂一族の名前をまとめて挙げてみる。

戸坂播磨守信成

康正3年(1457の己斐城の合戦にて討死、遺児は家臣に伴われて周防東岐波に渡る。

 

戸坂参河守信定

明応8年(1499)の3月6日付け「武田元繁外九名連署状」(「毛利家文書」166)より、武

田氏の家臣であることがわかる。

 

戸坂入道道海

戸坂氏当主として、永正14年(1517)に有田合戦に参加する。また、天文9年(1540)4月8日には、武田光和に戸坂要害を攻められて自刃したといわれる。戦国末期、毛利氏の外交僧として有名な安国寺恵瓊が幼少の頃、銀山城から抜け出させ牛田の安国寺に預けたとの伝承がある。

 

戸坂小次郎繁澄

「陰徳太平記」によれば戸坂入道道海と一緒に参陣している。「繁」は武田元繁の編諱と思われる。戸坂入道道海の子か。

 

戸坂権八

有田合戦時において討死する。戸坂一族である可能性が高い。

 

戸坂五太夫

有田合戦時において討死する。戸坂一族である可能性が高い。

 

戸坂弾正

戸坂一族で天文年間に矢賀の多々万比城を攻撃して落城させたとの伝承がある。

 

戸坂左近道正

戸坂一族で天文11年 (1542)頃、戸坂から宇部磯地に草庵を結ぶ。

(伝承では天正11年とあるが誤りと思われる。)

 

戸坂正信

戸坂播磨守信成の子で、己斐城落城時に家臣と共に宇部東岐波に落ち延びる。後年、成長して部坂弥六左衛門尉正信と名乗る。1490年頃の人物。

脚 註

(1)『広島県の地名』平凡社 昭和57年 625頁 原本は府中町の田所恒之輔氏所蔵

(2) 宇部市教育委員会/宇部市東岐波郷史研究会『宇部市東部家書目録』昭35年5-8頁

(3)都築要『広島史話傳説』(第二輯)己斐の巻 昭和42年161頁

(4)『大日本古文書家わけ第8-1刻毛利家文書』東京学料所 昭和54年97頁

(5) 都築要『広島史話傳説』(第二輯)己斐の巻(前揭)160頁

(6) 『戸坂村史』広島市役所編 平3年69頁

(7)『戸坂村史』(前揭)70-72頁

(8)『中山村史』広島市役所編 3年114頁

(9) 齋藤慎一『中世武士の城』吉川弘文館 平成18年126頁

(10)『戸坂村史』(前掲)74頁

(11)田村哲夫『手元就記考新』マツノ書店平成5年105頁

(12) 『戸坂村史』(前掲)74頁

(13)『戸坂村史』(前掲)76頁

(14)提田英雄『安芸武田氏銀城戦記』昭和6年46頁

(15)『佐東町史』広島市役所編 昭和55年133-36頁

(16)『戸坂村史』(前揭)76頁

(17)『中山村史』(前掲)118頁

(18)『戸坂村史』(前掲)76頁

(19)都築要『新廣島城下町』昭和49年125頁

(20)木村八千穂『戸坂町誌』戸坂町誌さん所 昭和51年 42頁

(21) 『戸坂村史』(前掲)78頁、『中山村史』(前掲)118頁

(22) 『戸坂村史』(前掲)79-80頁

(23)『戸坂村史』(前掲)80頁

(24) サムライワールド

http://samuraiword.web.fc2.com/rediscoverofhistory-moldcastlesarenotcastlesofmountain01.htm

(25)『宇部市東波部坂家文書目録』8頁

(26) 『宇部市東部坂家文書目錄』11-12頁

(27)岸浩『資料毛利氏八箇国御時代分限帳』 マツノ書店 昭和62年183-184頁

(28)『毛利氏八箇国御時代分限帳』 (前掲)174頁

(29)『毛利氏八箇国御時代分限帳』(前掲)255頁-256頁

(30) 『毛利氏八箇国御時代分限帳』(前揭)128頁

(31)『毛利氏八箇国御時代分限帳』(前揭)225頁

(32)『毛利氏八箇国御時代分限帳』(前掲)337頁

(33)『毛利氏八箇国御時代分限帳』 (前掲)234頁

 

参考文献

高野賢彦『安芸・若狭武田一族』新人物往来社 平成18年

広島市『戸坂村史』広島市役所編 平成3年

広島市『中山村史』広島市役所編 平成3年

木村八千穂『戸坂町誌』戸坂町誌編さん所 昭和51年

広島市『佐東町史』広島市役所編 昭和55年

森本敏雄『玖珂町史』玖珂町役場 47年

山口県文書館『萩藩閥閱録』昭和46年

岡部忠夫『藩諸家系』 マツノ書店 平成11年

国書刊行会『芸藩通志』昭和56年

河村昭一『安芸武氏』戎光祥出版 平成22年

堤田英雄『安芸武田氏 銀山城攻防戦記』昭和60年

堤田英雄『武田氏の系譜と戦歴』昭和61年

田村哲夫校訂『毛利元就記考証新記』マツノ書店平成 5年

岸浩『資料利氏八箇国御時代分限帳』 マツノ書店 昭和62年

『広島県の地名』平凡社 昭和52年

『山口県の地名』平凡社 昭和50年

『角川日本姓氏歴史人物大辞典3 5山口』角川文庫 平成3年

都築要『広島史話傳説(第ニ輯)己の巻』 昭和42年

広島市立戸坂城山小学校『戸坂の歴史』 平成17年

広島市戸坂公民館『戸坂のむかし』 昭和55年

広島県『広島県史』(原始古代 通史広島県編昭55年

広島県『広島県史』(中世通史)広島県編 和59年

広島県『広島県史』 (古代中世資料編I)広島県編 昭53年

広島県『広島県史』(古代中世資料編V)広島県編 昭和55年

齊藤慎一『中世武士の城』吉川弘文館 平成18年

広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書第一集』平成5年

『日本城郭大系13 広島・岡山』新物往来社昭和55年

『広島市の文化財第二三集不動院』広島市教育委員会編 昭和58年

『宇部市東波部家文書録』宇部市教育委員会 昭35年

木村信幸「安芸国人吉川氏の山県表占拠について」広島県教育委員会編『中世遺跡調査研究報告 第4集 史跡川氏館跡に係る中世文書目録』平成14年

川内貞雄『口田村史』文堂書店 昭和8年

新中亮『物語・松笠観音寺』松笠観音寺別院 平成12年

『大日本古書 家わけ第8-1覆刻毛利家文書』東京大学史料編所 昭和54年

 

参考URL

ひろしまWEB博物館

余湖くんのホームページ(山城のHP)

ウィキペディア

防長将星録

不動院

広島市西祇園公民館

サムライワールド

安芸の夜長の暇語り

 

公開日2021/4/12

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