驚きの朗報
前回、超遠戚?と推測される一族の総本家の方に手紙を書きました。
手紙の内容と求めていることは以下です。
↓
手紙の内容
①同姓の調査を行っている。
②県内の同姓の方にも話しを伺い、伝承を纏めている。
③調査研究の為にはどうしても、家系図の確認が必須。
④ご高齢で尚且つ、病気がちでご主人様の介護をしている状態なので、自宅に伺うのは躊躇してします。
⑤可能であれば家系図の画像をデジカメやスマホに取ってメールで送って欲しい。
※基本的にご高齢の為、ご子息かお孫様にお願いしています。
本日電子メールがきて、ご子息の方に写真を撮って貰って送って頂きました。
まさに、感無量です!!
家系図を確認すると以下の事が分かるのではと思っていました。
①家系図の内容には何故一族が私の県に来たのか?
②そこからどのように、現在の一族発祥の地に流れてきたのか?
③戦国時代以前の経緯はどうなのか?
④市町村史に出てくる人物がいないのか?
⑤江戸時代以降はどうなっているのか?
と前回記載しましたが内容としては⑤が判明しました。
①私の所有している家系図のコピーと内容は同じものでした。
私のコピーは戦国時代までで、この度の家系図は現代まで繋がっていました。
ここで、同じ家系図が2つ存在しているということになります。
模写したと思われますが、同等のものが2つおなじものがあることに感動しました。
②家系図には江戸時代以降の男が諱が「某」で記載しており、通称名「嘉右衛門など」で記載されていました。
そして同村●●に「分家」という記載 や ▲▲村に●●家に養子 というような記載が多く発見しました。
ここで、かなりの分家が江戸時代に発生したことも裏付けが取れました。
1600~1700年代のことですので、それから300~400年経過すれば、それがまた分家していきますので、この地域に一族が多くいることも納得できます。
③昨年県内に150通くらい手紙を出して、同姓の調査をしましたが、その時にある家から手紙を頂きました。
「当家は戦国時代には武将であったが落城して●●村から落ち延びて▲▲村にきたとの伝承がある、当家の初代は■■である」
確かに、その可能性は極めて高いのですが、今となっては確認のしようがないことでした。
しかし!!!
この度の家系図にバッチリ四男である■■が▲▲村へ分家と記載されていました。
この▲▲村は結構距離があったので、どのような経緯でこの地にきたのか疑問でした、分家の分家の分家くらいで数世代かけてこの地にきたのかと思っていましたが、一発ストレートで分家したので、何故という疑問が発生しました。
④江戸末期辺りからはほほ養子で繋がっている。
妻が娘で娘婿という形で養子に入るケースもあれば、全くの他人が隣村から養子で入ってくるケースもありました。
早世した場合もありますし、子どもがいなかった場合もありました。
この家は江戸時代には大庄屋の家でした、分家も近隣に多くあるはずなのに、全くの他家からの養子が多いように感じました。
やはり、優秀な人材を養子や娘婿として迎入れたと考えるのが自然な気がします。
⑤逆に家系図に記載されていない内容を私が知っていた。
過去帳の内容で戦国時代から江戸時代の戒名のコピーを持っていました。
家系図には妻不詳や火事の為、書物焼失という記載がありましたが、その部分を若干ではありますが埋めれることが出来ました。
疑問①
丁度戦国末期1580年から1600年代の1世代が私の持っている家系図のコピーとこの度の家系図の人物が変わっていました。
※私が持っているコピーの家系図の人物が、この度送られてきた家系図には記載なし。
疑問②
同様に、この度送られてきた家系図には四男と記載されてが、長男で城主であった家の系図の記載がない。
以上のことから仮説をたてました。
この度送られてきた家系図は自家を主軸に記載している家系図の為、自家に関わりの無い家は省略されている可能性を否定出来ない。
そうなると、庄屋として分家して繁栄した家もあるが、そうでは無く、長男の家系や次男の家系も連綿と続き、分家繁栄した可能性もある。
以前この地域に伺った時に同姓の方から同じ同姓なのに、よく分からないという話しを聞いたことがあります。
※家紋が違っていたりします。
庄屋の家(四男)系以外にも、長男や次男の家系も一族繁栄したと思われます。
色んな事は分かり、興奮状態でした。
実はここまでくるには壮大な経緯がありました。
当初、この地域に同姓が多く集まっていることを本で知る(25年位前)
同姓の方に手紙を書いて何か知らないかを確認(当時は40軒位)
若干の情報を入手したが、当時はそれで満足した。
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その後やはり気になり教育委員会に連絡したら、郷土史家を紹介された(12~13年位前)
郷土史家から古文書から詳細な家系図を作成したもの(この家系図は分家の家のもの)を頂き大感激し満足した。
いつもこの家系図から推測をしていたが、総本家の方の家にはもっと凄い家系図があるのでは無いかと思い、思い切って手紙を書く。
しかし、当主の方もどこにあるか分からないので分かったら、また連絡するということで、それ以降はそのままになっていました。
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その後、しばらくは諦めており停滞期でした。
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総本家の家系図や古文書は無理でも、分家の家の家系図は確認できないか?と思い郷土史家の紹介で原本を持っているご自宅(分家の家)に伺う(6~7年位前)
原本を確認した時も興奮しました。
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これ以上はもう厳しいなと諦めていたが、1年半前に同姓の調査研究で県内150通にお手紙を書き何かご存じ無いかのアンケートを送付。
発祥の地からも連絡があり、取りあえず来いとのことで伺う。
この方の家も古い事は不明であるが、総本家が県外に出てから墓守をしている方がいるという事で紹介して頂く。
この方から、現在の総本家の家の事や奥様の事を教えて頂く再度手紙を書く(1年前)
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その後、お忙しい中機会が無く、伺う事も申し訳ない為、不躾ながら手紙で電子メールで家系図の画像を送って頂くよう依頼。
そして、本日メールがきた次第です。
とうとう、25年来の想いが通じました!!!
総本家の方にはとても感謝しています。
まさにライフワークです。
総本家と私の家は直接は繋がりません。
私の先祖で一番古いと推測される人物は恐らく1630年頃の生まれ。
家系図の仲で全ての家はこの人物から発生したと思われる人物が1527年の生まれ。
100年の差がありますので2~3代の空白が生じますし、それを証明するものは存在しません。
ですからここは単に歴史ロマンになります。
しかし、歴史ロマンでもここまで夢中になれることは幸せだと思います。
皆さんも、夢中になれるものがあると、人生が豊かになれると思います。
まとめ
①先祖の資料を探していくと、思いがけないところから発見することがある。
②資料を発見して感激して色々やって行くうちに、更に調査していきたい気持ちが生じる場合はチャレンジしてみる。
③逆に停滞期になることもあるが、その時は現況を受け止めて、気持ちが乗ってくるまでそのままにしておく。
④思い続けると、数十年後に思わぬ形で進展することもある。
公開日2019/08/18
更新日2021/07/24
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