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実例15【今井家】

Eknbg / Pixabay




今井家

先祖探しの始まりは、「今井家」からでした。

 

図書館で「家系図をつくる」という本を見つけたのがきっかけでした。

その本で、まず戸籍を入手することを知り、1993年3月3日、バスで田舎役場まで初めての戸籍請求をしました。

 

忘れもしません、当時18才の私には自分で遠距離バスのチケットを購入して本籍地のある田舎の役場まで行く。

 

戸籍係という大人との折衝、初めて見る戸籍謄本の解読。

 

自分の直系尊属全てを入手するため、朝9時から初めて夕方頃になった事を覚えています。

 

当時戸籍係の方は20代のお姉様で親切にして頂いたことを覚えております。

 

もうかれこれ30年位前の話です。

 

先祖探しのようにまとめて遡る場合は「先祖供養のため遡れるだけ遡ってください」と伝えれば楽だな、とその時分かりました。

 

そして、1993年7月28日(水)今度は免許を取り原付で田舎まで行き再度戸籍入手。

 

1回目はバスで行きましたが、2回目は原付で行きました。

 

この日はあいにく朝から雨がしとしと降っていましたが朝の5時に家をでて5時間かけて田舎の役場に行きました。その時の情熱やわくわくした思いは忘れられません。

 

また、雨の中5時間かけていったという情熱が役場の方に理解されて、請求がスムーズにいったのではないかと思います。

 

その後「家系のしらべ方」という本を購入しました。

 

その後、戸籍を読んで家系図を作りました。完成したとき、大きな充足感がありましたが、戸籍では遡れない部分はどうなのか気になりました。

 

まず、私の一番古い先祖がどこから来たのか戸籍をみました。

 

江戸時代から田舎の村には今井常次郎はいましたが、うちの今井家の伝承では「先祖は本村からきた」ということと「屋号は南」という事は古い算術の本からわかっていました。

 

実家にある古い書物。

 

ついに本家を発見!!

そこで一計を案じ、伝承の地である今井家すべて(10軒)に手紙を書いてみました。

 

すると「本村」ではなく「峰村」の今井さんから返信があり、かなり古い先祖まで記載されていました。また屋号も南でした。

 

私はいてもたってもいられなくなり、その方に電話をし、直接お会いしたい旨を伝えたところ快諾を頂きました。

 

後日JRに乗り手土産持参で会いに行きました。(1993年秋頃)

 

先方の話では「本当は自分の父親が長男だが、素行が悪く本家は下の弟が継ぎ父親が分家した」とのこと。

先方の方は自分の先祖や家の事を詳しく知っていて話が盛り上がりました。

 

それからその先方のおじいさんから本家に連絡をしてもらい本家に伺いました。

 

本家の当主は「何もわからない」と言っておられましたが、話していくうちに意をくんで頂いて菩提寺にいく事になりました。

 

住職は過去帳をみてから「記載人物が多いのでちゃんと整理してから渡します」との事でした。

 

本家の方とは最後には一緒にビールを飲み、ご機嫌で「今日は泊まっていけ」とまで言ってくれました。

 

しかし、たまたま分家のおじいさんの子供が町から来ていたので車に乗せて頂いて帰りました。

 

今井家の伝承「本村からきた」はおそらく情報が錯綜したものと思われます。

※峰村の隣が本村でした。

 

もともとは「峰村からきた」と伝えられていたのではないでしょうか。これは調査によって判明したことです。

 

常次郎について

常次郎は峰村で生まれて田舎の村(現在の私の本籍地)でタキノと結婚しています。

徳三郎(次男で私の曽祖父)は明治3年に生まれています。

 

 

常次郎は明治17年に亡くなっており、壬申戸籍になるので交付されません。

 

子供の徳三郎の戸籍(住所は現在の私の本籍地)は存在し、交付されました。

 

(正確には徳三郎は兄善兵衛の戸籍から分家しました。兄善兵衛が戸主の戸籍には前戸主として常次郎が記載されています。)

 

しかし、常次郎が峰村出生かどうか証明する資料はありません。

 

ちなみに壬申戸籍が仮に確認出来れば、この常次郎の生年と父親の名前が判明出来るので、残念です。

 

このように常次郎が峰村からやってきたかどうかは断定できませんが、屋号の一致、伝承の一致(村の名前は違っていましたが)苗字の一致から、今井家は峰村からやってきたと断定してもよいと考えています。

 

依頼した過去帳を手に入れたのは、それから半年後のことでした。しかも私が別件で親戚とスーパーに行った時、偶然本家の当主に会い、過去帳を催促して入手できました。

 

※当主自身もまだ寺からもらっていなかった。

 

色々な事が判明!!

● 長男が後を継ぐとは限らない。常次郎が家を継がなくて、弟が継いだ、理由はわからないが事例はある。

 

●お寺も忙しいので即作成して頂けることは無く時間的な猶予が必要。

 

また、なぜ本家の当主が自分の先祖のことがわからないのかというと彼は4男で兄らは戦死しているからです。

 

さらに、本家の当主が成人したころには父親が亡くなっている。これが長男だったら違っていたでしょう。

 

しかし伝承で、

本家の当主から「先祖は峠を越えてきたと聞いている。昔は峠向こうの町あたりに住んでいたのだろう」「江戸時代にはじめに峰村にきたらしい」と教えていただきました。

 

その2ヶ月後、峠の向こうの町を含む郡部の今井さんすべてに手紙を送付し「今井の伝承について何かご存知でしょうか?」と訊ねました。

 

江戸時代はじめの話なので、直接の先祖につながる情報は得られないだろうな、と考えていました。

 

すると役場勤務の方からお手紙を頂きました。

 

その今井さんのお宅では

「私の家では昭和50年頃までえんどう豆を作りませんでした。理由は戦国時代に私の先祖に当たる武士が戦でえんどう豆のつるで足を引っ掛け、転倒、そこを討ち取られたため縁起が悪い作物ということで作っていません。」

 

という伝承を教えていただきました。

 

嬉しくなった私は、その今井さんに電話を掛け感謝の気持ちをお伝えしました。

そのとき、さらに、2人の今井家の歴史に詳しい人を紹介してもらいました。すぐにその二人に手紙を書いてみましたが音沙汰もなくそのままになってしまいました。

 

それから3年くらいたって、図書館で「今井五郎入道和時」という人物が居住し(1350年頃)その地で威をはっていたらしいことは確認できました。しかし、それ以上のことは分かりませんでした。

それから10年後

それから10年以上たった頃友人の家系図作成に刺激を受け再度今井について調べてみようと思い、再度調べ始めました。

 

まず役場に「私は趣味で郷土史を研究しているものです、この地域に今井という武将がいたと聞き何かご存知ではないか、宜しければ何かご教示くださいませんでしょうか」とメールをおくりました。

 

すると役場から返信で町史があることを教えてもらい、後日、役場にいき、町史をすべてコピーさせてもらいました。

 

そして地域郷土歴史家の先生を紹介して頂き今井の歴史についてお尋ねしたところ、古文書を持っておられました。

 

その古文書というのは、福島正則が大名の時に「地域の有力者の覚書を提出しろ」というお触れがでて、

 

そこで家が提出した文章らしいです。家の由来書のようなものです。その中で今井は平安時代の有名な武将の子孫だということが判明しました。

 

鎌倉時代からの先祖が記載されている家系図もありました。ただし峰村の今井家とこの戦国武将の今井がつながらないので、この子孫だとはいえません。

 

しかし、ロマンのあることでした、このように先祖探しはロマンがあります、自分の遺伝子の基になった人物を探す行為は知的好奇心を大いに揺すぶります。

 

これにはまって、自分の直系尊属を全て調査、時には停滞することもありますが、それでも少しづつ進展して今があります。

 

今では、日本中の同好の士がおり、情報交換も活発になりつつあります。

 

このワクワクした感じ、次はどのような事が出来るか?当時のご先祖様はどのような暮らしをしていたのか?

などを皆で共有出来ればと想います。

 

学んだこと

●志があれば、困難に直面しても必ず乗り越えられる。

 

●順風満帆な時がいつもある訳ではない、仕事、育児などのライフステージで中断してもOK。

 

●ネットというものが無限の力をもっており、即座にしらないもの同士をくっつけるものだと認識。

 

●当時でも躊躇している事で、詳しい方が亡くなったということもあり、生きている人間の情報は値千金になることを身をもって体験。

 

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