城データ
城名:遍照寺山城
別名:今大山城
標高:180m
比高:150m
築城年:不明
城主:日本城郭体系によれば城主は安原民部小輔とあるが、宮上野介実信の城だと思われるので代々宮氏の城か
場所:広島県福山市神辺町字西中条
北緯:東経:34.576546/133.360701
攻城記
編照寺から登っていく。
曲輪。
これは戦国時代の石垣ではないと思われる。
ここの大山社があったらしい。
城からの景色。
岩に加工されたところがある。
曲輪が多いのが特徴。
土塁。
余湖図【遍照寺山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
東側谷部を中心に墓地造成によって破壊されている。山頂から東に延びる郭群と南側のピークを中心とする郭群からなる。
南郭群の東端中央の虎口は斜面側に土塁を設け桝形状にしている。なお、山頂の郭の二つ東下の郭の東端で土師質土器を採取した。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
遍照寺山城は豪族宮氏の城か
福山市神辺町の遍照寺山城跡が、中世の備後地方で最大の勢力を誇った豪族・宮氏の拠点だった可能性が高いことが、広島県東部の歴史愛好家グループ「備陽史探訪の会」の調査で分かった。同会は「幻の一族と言われた宮氏の歴史の解明につながるのでは」としている。
昨年1月から約1年間をかけて測量などの現地調査をした結果、約6万平方メートルの敷地に、山を切り開いて平地にした大小43カ所の郭(くるわ)がある県内有数の中世山城であることが分かった。これまでの県調査では、本丸跡など一部城跡しか確認されていなかった。
宮氏は、室町幕府初代将軍である足利尊氏に味方して現在の福山市北部から庄原市東部まで勢力を広げ、「備後殿」と呼ばれた豪族。毛利元就によって滅ぼされた。同会は、城の規模や、2つの本丸を持つ築城の特徴などから、遍照寺山城が宮氏の城だったとみている。
遍照寺山城跡は、福山市神辺町西中条の遍照寺の西側。調査では、本丸跡近くの岩に防御施設を設置したとみられる2つの穴も確認した。
2010年2月21日 中国新聞より
城の歴史
詳細は不明であるが『萩藩閥閲録』巻六七「高須惣左衛門書出文書」中の九月七日付渋川義陸書状の中に記載がある。
『萩藩閥閲録』巻67-42 高須惣左衛門。
永正十四(1517)年夏、出雲尼子氏の備後侵入で起った混乱に対して、御調八幡の渋川義陸が芸備の有力国衆と共にその鎮圧にあたった際に出されたものである。その中で義陸は「今太山へも今朝人を遣わし、宮上自身出馬される事が肝要だと申し遣わした」と述べている。
「宮上」、すなわち「宮上野介実信」のことである。義陸の妻は宮上野介の娘であったから(天文日記)、これは婿が舅に援軍を要請したことを伝えたもので、「今大山(ここでは今太山とあるが)」は舅宮上野介の居城と見ていい。
※今大山城の城名について(判明した遍照寺山城の山号)より
城主家系図
宮上野介実信は宮惣領家の人物にあたる。
所感
●一部遺構が破壊されているが、それでも大部分は残っており確認できる、亀寿山城からこちらに本拠を移動したか。
●曲輪の数も多く、大規模や城であったと思われる。
●過去には大山社を祀っており、大山と何かしらの縁があったのか。
●岩に加工跡のある岩がある。
関連URL
宮氏惣領家の城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/08