城データ

城名:鞆城

別名:無し

標高:24m

比高:22m

築城年:天正4年(1576)毛利氏によって築かれたと云われる

城主:毛利氏が足利義昭の為に築く、福島氏(城代は大崎玄蕃)、水野氏(城代は荻野新左衛門重富)

場所:広島県福山市鞆町

北緯:東経:34.384338/133.381422

鞆城はここ

 

攻城記

小山の上に築かれていた。

鞆城の石垣と刻印
 
この石垣は鞆城本丸の東南隅と、それに連なる石垣の一部を復元したものである。

鞆城は、近世初頭に城郭を整えた城であるが、早くから取り壊されたため、その縄張りに不明な点が多い。

 

1986年(昭和61年)に実施した発掘調査により、この石垣の基底部が確認され、歴史民俗資料館の建設に伴い復元整備したものである。

 


なお、この石垣には「回」「大」「△」などの刻印が認められるが、他にも城跡内に残る石垣から◇、㊀、㊁、㋩、卍、日などが確認されている。

刻印は城の石垣によく見かけられ石工・採石地の印呪符などの諸説があるが定説はない。


福山市教育委員会

 

復元石垣にある刻印。

矢竹。

前方には大可城が見える。

鞆の港。

鞆城跡
  市史跡 1976年7月13日指定


ここは鞆城の本丸跡で、丘陵を利用して壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面していた。


毛利氏が築いた城を、慶長5年(1600)安芸・備後の領主となった福島正則が改修した。

 

慶長2年(1607)の朝鮮通信使の日記い「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」と記しており、その時、建設中であったことが知られる。

 

元和元年(1615)の一国一城令に先立って廃城となり、正則の後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。

 

勝俊が福山藩主となって以後は、江戸時代を通して町奉行所が置かれた

 

当時の石塁。

別の角度から。

 

山中鹿之助首塚

 

位置関係(当時の推定海岸線)

 

open-hinataより【鞆城】

 

余湖図【鞆城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

1972年まで学校用地であったが,その移転後公園として整備されることになり,それに伴い一部発掘調査が実施された。

 

最高所に主郭を置き,西に郭を2段配している。調査の結果,所々で石垣が見つかり,明治以後の学校に伴うもの,刻印のある石を使用した福島支配下の築造のもの,及びそれ以前の時代のものの3時期にわたって構築されていることがわかった。

 

出土遺物のうち中世から近世初頭のものには,軒丸瓦,亀山焼大甕,唐津焼,青磁椀がある。

 

なお,1553(天文22)年5月毛利家臣の渡辺房が鞆要害の普請を行い,番衆の派遣と兵粮を要請していることがしられる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

鞆城

この城跡は港を見下す要害の地にあり,しかも町の中央に位置する孤丘で格好の地理的条件を具えている。

 

起源については明らかでないが,村上水軍がこの地に城を築いたと考えられている。また毛利氏が将軍足利義昭を鞆に迎えた時は城が存在していたものと思われる。

 

この城が現在のような形にととのえられるのは,慶長5年(1600年)安芸・備後の領主となった福島正則が,重臣大崎玄蕃を配し三層の天守を築いて城郭をととのえたことによる。

 

元和元年(1615年)一国一城令により築きかけた天守は三原城へ移し,福島正則の後をうけて入封した水野勝成は長子勝俊の居館をここに置いた。勝俊が福山藩主となって以来は,ここに町奉行所が置かれ明治維新まで鞆の管理がなされた。

 

現在は本丸(東側最高所にあり,約2,500平方メートルの郭),二之丸(本丸西側に接する約1,200平方メートルの郭)の一部と石垣等を残すのみとなっているが,かつては北部に三之丸があり,ここに町奉行所が置かれていた。

 

福山市のサイトから

 

辆城跡  福山市鞆町後地

鞆町の中心部にある孤丘古城山(約二四メートル)にある。

 

「あくた川のまき」以下の諸史料すべて福島氏時代の草創 とする。

 

しかし「福山志料」は天正四年(一五七六)に足利 義昭を鞆に迎えた時、居館として当城を築いた可能性を示唆しており、近年は福島正則の築城以前から前身が存 在したと考えられている。

 

福島氏時代の当城については「あくた川のまき」に 「地をならし石をた>み、三重の天守すてに調ひ、みかき たてたるたくみは、雲井にそひえ朝日にかゝやく、され 共大手矢倉なとの普請はいまたなかはなりしに、一国一 城の仰せことありて、天守をおろし矢くらをさけて、平城山となんなりぬ」とあり、福島正則が鞆の地を重視して本格的な城を築こうとしていたことがわかる。

 

やがて 元和元年(一六一五)の一国一城令によって鞆城は廃棄されるが、宝永八年(七一一の火災まで大手門・矢倉屋敷などは残り、福島氏時代は大崎玄蕃が在城したという(水野記)。

 

水野氏入国後、勝成はまず神辺城(跡地は現深安郡神辺町)に入り、福山築城に努めるが、完成後も鞆城には長子 勝俊が住するなど、軍事的拠点として重視されていた。

 

勝俊が寛永一六年(一六三九)に藩主となった後は、荻野重富が鞆奉行となり、以後、城の北側鞆町分に鞆奉行屋敷 を設定した(福山志料)。

 

昭和五〇年(一九七五)に発掘調査が 行われ、福島氏時代以前と思われる石垣、福島氏時代と思われる石垣(刻印がある石材を使用)などが発見されてい る。現在は城跡公園として整備され、市指定の史跡となっている。

 

『広島県の地名』より引用。

 

鞆城

鞆城は、福山市鞆町の町並中央にある独立丘陵を利用したもので、天正年間 (一五七三~九二)に毛利氏が将軍足利義昭を鞆に迎えた際に築城し、居館を設 けたものである。

 

位置としては、鞆町市街地の中央にあって、西には沼隈半島を形成する急峻な山が迫り、東は灘に面している。城山の標高は二四』と低いが、鞆の市街地全域を見渡すことができ、北方には備後安国寺・沼名前神社、南方には福禅 寺・対潮楼、東方には海中に浮かぶ仙酔島・弁天島など、景勝の地を見ることができる。

 

城の歴史は、天正四年、毛利氏が、織田信長に追放された将軍足利義昭を鞆に迎えた時に築城したのが最初とされているが、鞆は港町として古くから栄えており、南方約三〇〇mにある大可島城は、南北朝の争乱時に戦場となって以 後も海上交通の要所となっていたことから、鞆城のある城山も古くから機能的 には城としての役目を担っていたことが考えられる。

 

足利義昭は、ここに六年間滞在し、鞆幕府といわれるようになるが、同十年には、福山市津之郷の部山居館に移っている。

 

その後、毛利氏は慶長五年(一六〇〇)に防長へ移封され、 新しく福島正則が芸備四十九万石の領主として入ってくるが、正則は、本拠広島城のほかに三原・三次・小方・神辺・鞆・東城に支城を設け、領地経営に当 たっている。

 

その際、鞆城に天守閣を築き、大崎玄蕃が入ったが、元和元年 (一六一五)には一国一城令が出され、天守閣などの主要建造物は壊されている。

 

しかし、大手門や倉屋敷などは残り、城の機能は保たれていたらしく、同五年、 福島氏に代わって水野勝成が入封してからも、勝成は長子勝俊をここに置いているし勝俊が二代目を継ぐと鞆には代わりに重臣荻野新左衛門重富を派遣し、 鞆町奉行としているが、重富は城館を閉じ、その北麓に新しく鞆奉行所を置い ている。

 

城の遺構は、標高二四mの独立低丘陵上から西側山麓にかけて、本丸・二 丸の二段と、現在、地蔵院がある平壇の三郭からなる。

 

本丸は、東側最高所にあるもので、長さ五五m×幅四〇mの方形をなす平担面の、東西に一辺一五mの張り出しを付けたもので、周囲には石垣がみられ、特に大手と考えられる東側の入口には、近世城郭の大手にふさわしい整った石垣がみられる。

 

なお、本丸への通路は、このほか北方からのものと二の 続くものがあるが、後世補修されたものか、旧状を保っているとは考え難い。

 

また、大手からの通路は東方へそのままるが、他は石垣に沿って大手から折れ、本丸南側で帯郭になっており、南側山麓からの登城はいっ を通らないと本丸に通じないようになっている。

 

二の丸は、本丸の西に隣接する長さ約五〇mの郭で、本丸とは比高にして約 八m下位にあり、本丸の南側をめぐる帯郭とつながっている。現在、周囲は石垣で画されているが、それは後世補修されたもので、本丸にみられるような古石垣はほとんどみられない。

 

なお、昭和五十年に行なわれた発掘調査の所 によると、二の丸は、東側高所の地盤を削り取って本丸との崖面を急にし、そ の土で西側斜面を埋めて平坦面を広げているという。

 

地蔵院は、二の丸の西麓、比高にして約八m下位にあるもので、二の丸からは長さ一〇m前後の三段の郭で結ばれている。

 

このように地蔵院は、 本丸・二の丸よりはかなり下位にあるが、平地からは約三mの比高があり、周囲に もめぐらされていること、あるいは、その配置が西側の山側から南側を取り巻くようになっていることなど、城の防備のための補助的郭として用 もののようである。

 

このように鞆城は、帯郭の効果的配置、石垣の使用法など、 世城郭の特徴をよく備えているといえよう。

 

なおこれらの石垣の石材には、#・㊀・㊁・㊇などの刻印がみられるが、これらと同様の刻印は、福禅寺対潮楼の石垣や備後安国寺石庭の石材にもみられ、 鞆城は当時これらとも何らかの関係があったものと考えられる。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

南北朝時代には何かしらの防御施設が大可城とともにあったと思われる。

 

天正4年(1576):足利義昭を迎える為に毛利氏によって築かれたと云われる。

 

天正10年(1582):足利義昭が福山市津之郷の蔀山に居館を移す。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて毛利氏は萩に転封し代わりに福島氏が入部し代官として大崎玄番を入れる。

 

慶長14年(1609):この頃まで築城されている。

 

元和5年(1620):福島氏の転封して水野勝成が入部、長子である、水野勝俊を城に置く、その後勝俊が城主となると、代官として荻野新左衛門重富を置く。

 

所感

●城域ははっきりしているが、中学校だったこともあり、石垣などが当時の状態ではない、しかし、復元されている。

 

●眼下には鞆の浦があり、また前方には大可城もはっきり見える。

 

●福島正則が安芸備後49万石の大名として入部した時に広島城のほかに「三原・三次・小方・神辺・鞆・東城」の6か所に支城を整備したそのうちの1つであり、重要だったことが分かる。

 

関連URL

 

 

 

参考URL

福山市(公式)

鞆城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備後鞆城)

西国の山城(鞆城)

大崎玄番(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/05/08

 

 

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