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城データ

城名:狐城

別名:無し

標高:240m

比高:40m

築城年:不明

城主:不明(槙原氏か)

場所:広島県三次市布野町下布野

北緯:東経:34.866770/132.788852

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

狐城全景。

一部墓所になっている。

一応公園のようだ。

曲輪にある神社。

更に上がある。

登ったところ。

本丸部分。

井戸跡。

麓には川も流れており堀の役割をしていたと思われる。

先端部。

位置関係

 

余湖図【狐城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【下布野村】

大城山城の対面となると狐城は青色部分あたりか。

 

城の概要

大きく三段の郭で構成され,最下段は神社の境内地として利用されている。

 

最高所の郭は1994年に発掘調査が行われ,柱穴等が検出されている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

城の歴史

詳細不明であるが、三吉氏の城として機能していいたものと思われる。

 

天文13年(1544):尼子晴久が三吉氏の居城である比叡尾山城を攻略する為に軍を進めたが、布野の地で大内軍(毛利氏、三吉氏)がそれを迎撃した。

 

しかし、強力な尼子軍の猛攻により、毛利軍には多くの死傷者が出ており敗北する、油断した尼子勢は翌日の三吉軍の奇襲にて混乱しこれを打ち破る。

 

この布野崩れの際にこの姫ヶ嶽城も三吉氏の支城として何らかの役割をしていたと考えられる。

 

キツネも味方した布野合戦

下布野の姫ガ嶽城の出城を狐ガ城というが、なぜ狐ガ城と呼ぶのか理由は分からない。

 

ただし、明治時代の布野村役場の『布野村現勢調査簿』は、狐ガ城について「芸藩通志に狐城と云へども、世俗には狸城と云う」と

狐城は狸城の間違いだとしているが、このことは現在の地元では確認できない。

 

また同書は同村大字横谷の石具に熊谷氏が居城したという狸城のことを狐城と呼んでいて、下布野、横谷両所でキツネがタヌキになり、タヌキがキツネになっていてややこしい。

 

 

尼子方の大軍が神野瀬川までやって来たところ「そのころ三好入道は数多く狐を畜養しているが、夜毎に出てとも三好・粟屋・江田・祝目の山に数十の火を灯す、これを見、尼子三軍たちまち猶予を生じ」渡河をためらっていたところへ毛利の援軍が吉田からやって来た。

 

戦いは毛利軍の散々の敗北であったが、三好方は反撃に出て「其夜又々狐共所々に火を灯せば、(尼子方は)いかなる敵ぞ、平に引けよと旗幕を打ち捨て跡を省りみず敗軍し雲州差して引く納めける」と述べている。

 

この話が『西備名区』(巻67)になると次のように脚色されている。

 

 

「三吉広隆はそのころ狐を愛して数百疋を飼い置きけるが、この軍起りしより、夜々三吉・粟屋・江田・祝詞の近辺の山々にちり渡りて野狐まで誘わしめ、数千の火をともし、昼は遠山に色々の幡さし物をひるがえす躰をなし、芸備の諸勢三吉に加勢し、山々に陣せし躰にみせければ、尼子の諸将これを見て、近国の諸士三吉に加勢し、山々に取上り加勢せんとする様子とみへたり、味方大軍といへ共此一所にあり、三方より後陣を謎たれ、又城方より打ち出なば前後の敵に破らるべし、先本陣へ引退り川を隔てて退陣せんと軍議して、囲いを解いて本陣へ引入りけり、三吉広隆これを見て我が計略これりと思い(中略)九月二日の夜吉田・三吉両勢ぐって夜討をかけ焼討せんと、彼猛狐をすぐって数十疋を従え、三吉勢五百余騎前よりすすみ、吉田勢、高橋と二千余騎密かに川上より尼子勢の後へ廻り、丑満比と相図を定め、三吉党尼子の陣へ忍びより、松炬に火をうつし、かの狐共に投げあたえければ、狐銘々この松炬をくわへ入り散って陣屋へ飛び上がりければ、諸陣一同にも上る、前より三吉党鬨を作って攻め入れば、尼子方火を防がんと騒ぎ立てれども、諸陣一時にもえ出れば防ぐ手便なく、煙りの中に途を失い、ふろたへ騒ぐを、味方は兼ねて用意の事なれば、思いのままに馳廻りて、分捕高名さまざまなり」

 

山家村(三次市)古戦場跡へ毛利氏が記念に建てたのも稲荷社で、これもキッネに関係ありそうである。

 

『布野村風土記』もこの稲荷塚のことを書いて「この頃の武将は多く稲荷を崇拝し、狐を利用していたという事である。三吉が狐を利用していた事は有名な話である」と述べているが、どうであろうか。

 

(三次地方史研究会 藤村耕一)

 

 

所感

●城の規模としては小さく、大城山城の出城と思われる。

 

●出雲街道に隣接しており、見張りの城とも考えられる。

 

●井戸跡もあり、実戦では姫ヶ嶽城、大城山城と連携をして防禦機能を高めていたと思われる。

 

●一部道路が通っており背後は崩されている。

 

関連URL

【広島県】姫ヶ嶽城【三次市布野町下布野】

同じく大城山城の出城であったと思われる姫ヶ嶽城。

 

参考URL

備後 狐城跡(よしだっちの城跡探訪記)

西国の山城(狐城)

布野崩れ(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/19

 

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