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城データ

城名:桂城

別名:中山城、三笠山城、三笠城

標高:295m

比高:80m

築城年:16世紀初頭か

城主:桂広澄、元澄

場所:広島県安芸高田市吉田町桂

北緯:東経:34.632291/132.653984

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

看板があり分かりやすい。

進んでいく。

比高が80mとそこそこあるが急ではないので楽に進んでいける。

細い道を登ればあとわずか。

 

桂城

桂城跡は、標高295m・比高80mで中山城または三笠山城とも呼ばれていた。

 

毛利氏譜代の桂氏の居城で16世紀初頭頃坂氏から分家した広澄がこの城に入ったとされる。

城郭は、西・中央・東の山群に分かれる。西郭群は背後を堀切で区切って北・南西方向に伸びる尾根上に小郭を配したもので小規模な城の体裁をなしている。

 

中央郭群は独立丘陵の最高所に位置し、北東に伸びる尾根上に堀切と郭を並べており、見張り所的なものと考えられる。

 

西の曲輪に進む。

西の曲輪。

曲輪には鉄塔が建っている。

眼下を臨む。

東曲輪へ進む。

非常に歩きやすい城。

投石用の石か。

曲輪跡。

曲輪の数も多くある。

堀切。

 

桂元澄墓

宝篋印塔に仏像が彫ってあるが、これは県北の庄原市の特徴であり、墓の意匠が伝播したことを物語っている。

 

庄原市西城町浄久寺にある久代宮氏の墓。

庄原市東城町町小奴可にある宝篋印塔。

 

 

16 世紀後半以降になると,これまで石塔を造塔しなかった毛利領や吉川領内でも花崗岩による小型の五輪塔や宝篋印塔を建て始める。

 

これと連動するように 16 世紀末頃になると小型の石灰岩製の宝篋印塔や五輪塔を建てる動きもあらわれる。

 

なかでも注目されるのが江の川流域に位置する吉田町福原にある伝福原氏墓所や吉田町桂にある伝桂墓所,また吉田町国司に残る石灰岩製の宝篋印塔や五輪塔の残欠群である。

 

伝福原墓所や伝桂墓所にある宝篋印塔の塔身には両手を合わせた仏容が陽刻されているが,これは主に庄原から岡山県高梁市方面にかけて見られる塔身の特徴である。

 

なかでも伝桂墓所にある塔身の仏容は,直線距離にして58 km離れた庄原市西城町八鳥にある宝篋印塔の塔身に陽刻される仏容とよく似ている。

 

また伝国司墓所にある石灰岩製の五輪塔の空風輪も高梁市などに多く見られる形となる。

 

こうした石灰岩製の小型の石塔は,さきの宍戸隆家の宝篋印塔と同じく,庄原方面で製作されて西城川~馬洗川~江の川(可愛川)の水運によって安芸高田まで搬入されたのだろう。

 

なお,地元では伝桂墓所は,毛利家宿老の桂広澄の墓とれているが,広澄は,永禄 12(1569)年に 70歳で没した元澄の父に当たるから,宝篋印塔の年代とはあわない。

 

おそらくこれらの石塔は,毛利家の防長移封の直前か,あるいはそれ以降に在地に残った一門が造塔したものと推察される。

 

いずれにしてもこの塔身は,庄原方面と安芸高田(毛利領)との物流を物語る貴重な歴史資料となる。

 

『石塔から読み解く理窓院と安芸宍戸家』
―芸北における花崗岩および石灰岩石塔の検討―
舘鼻  誠
より引用

 

位置関係

毛利元就の母の出身である福原氏の居城の鈴尾城と近い。

 

余湖図【桂城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【三笠城】

拡大図。

城の概要

吉田盆地の南の,可愛川に面した独立丘陵上に位置する。

 

は西・中央・東の三群に分かれる。西郭群は,背後を堀切で区切って北・南西方向にこに小郭を配したもので,小規模な城の体裁をなす。

 

中央郭群は独立丘陵の最高所に位置びる尾根上に堀切と郭を並べており,見張り所的なものと考えられる。

 

東側郭群はつが防御が弱く,館跡と考えられる。

 

本城跡は毛利氏譜代の桂氏の居城といわれ,16世紀初頭頃に坂氏から分家した広澄がこの城に入ったとされる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

城の歴史

16世紀初頭:桂広澄が築城したと思われる。

 

大永3年(1523):毛利元就の家督相続の書状に桂元澄がいる。

『毛利家文書248』

 

これから想像するに、毛利中の中でもかなりの力を持った人物だと想像できる。

 

大永4年(1524):一族の坂広秀が毛利元就の弟相合元綱を擁して元就に謀反を起こし成敗される。この時広澄も責任を取り自刃する。

息子の元澄も自刃しようとするが元就に引き留められ引き続き元就に重用される。

 

享禄5年(1532):福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した32名の中に3番目に桂元澄がいる。

『毛利家文書396』

 

これら起請文に連なる人物は福原・坂などの一族や粟屋・赤川ら譜代家人、井上、秋山・井原、内藤、三田などの近隣国人領主など、出自を異にする面々である。

 

彼らと元就の関係は、彼らの用水管理や、従者の負債や逃亡への対応など、共同で処理しなければならない問題を抱えていたが、それらは基本的に互いの間で解決することとし、元就には違反者の処分だけを依頼している。

 

この文章は元就に対する起請文という体裁をとっているが、中味からすれば「傍輩」間の一揆契状であり、元就は保証人的立場に過ぎなかったともいえる。

 

彼らは、毛利「家中」としてまとまりは強めつつも個々の自立性が強く、主人への忠節よりも相互の一揆的関係で秩序維持を図っていた。元就からすれば統制しにくい厄介な存在でもあったのである。

『知将 毛利元就』51頁より。

 

天文22年(1553)年頃:桂元澄以下四十名が具足の注文をする。

 

桂元澄外四十名具足注文(一部略)

六十両 桂能登守(元澄)

七両  福原善五郎

六両  中村新右衛門尉

二両  中村源兵衛尉

十両  中村内蔵大夫

二両  中村四郎左衛門尉

廿二両 井上靏法士代

 

『毛利家文書624』

 

弘治元年(1555):厳島の戦いの時に陶晴賢に偽の内応書を送る、この時の内容が大永3年に元就に攻められた遺恨を訴えたものであった。

無事、陶軍を厳島に引き寄せてうち滅ぼす。

 

その後元澄は桜尾城の城主となる。その後の桂城がどうなったかは不明であるが所領もあるので城代はいたものと考えられる。

 

弘治3年(1557):福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した中に桂元澄がいる。

『毛利家文書401』

 

 

城主家系図

匡時と匡家は同一人物との指摘もある。

 

 

城主石高

桂三郎左衛門(元相)

1866.284石

【内訳】

336.286石 石見 邑知

300.079石 出雲 楯縫

044.591石 周防 熊毛

698.920石 安芸 高田

038.542石 備後 怒歌

013.750石 備後 世良

434.116石 備中 哲田(三郎左衛門子平蔵給)

 

桂三郎兵衛(元綱)

1226.075石

【内訳】

052.820石 安芸 佐西

011.632石  安芸 山県

734.662石 出雲 大原

026.532石 周防 玖珂

133.301石  周防 都濃

092.328石   周防 熊毛

174.800石 備後 怒歌

 

所感

●城域が2つに分かれているが東側が削平地も多く居館があったのかもしれない。

 

●広澄は責任を取って自刃したが、元澄の大活躍で桂一族が大いに繁栄する。

 

●広澄と呼ばれる墓は年代的に合わないので後の供養塔だと思われる。

 

関連URL

【広島県】桜尾城【廿日市市桜尾本町】

桂元澄が城主をしてまた子孫である桂太郎総理大臣に縁のある城。

桂太郎(ウッキペディア)

 

参考URL

安芸高田市(桂城)

桂城(ウッキペディア)

城郭放浪記(安芸桂城東城)

城郭放浪記(安芸桂城西城)

安芸 桂城跡、桂広澄の墓(よしだっちの城跡探訪記)

山城賛歌(桂城)

桂氏(ウッキペディア)

武家家伝(桂氏)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/06

 

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