城データ

城名:日下津城

別名:坂城

標高:298m

比高:100m

築城年:観応元年(1350)以前に毛利親衡にとって築城されたと云われる。

城主:坂氏

場所:広島県安芸高田市向原町坂

北緯:東経:34.603981/132.728598

日下津城はここ

 

 

攻城記

日下津城全景。

入口標識もあり親切。

三篠川が自然の堀を呈している。

麓にある平地。館跡っぽい。

 

広く館跡にはもってこい。

 

山頂に向かって進んでいく。

 

 

井戸跡、分かりにくい。

 

 

帯曲輪。

しっかりとした曲輪。

人工的な石積みの跡。

 

本丸。

見下ろすと下にも曲輪がある。

曲輪跡。

この石畳は当時のものか?

当時の人間が運んだと思うと感慨深い。

木が邪魔をしているが無ければ眼下の軍もよく見える。

曲輪跡が綺麗に残っている。

上を見上げる。

物見の段。

後から看板に気づく。

 

日下津城址

南方真向い約五00Mの山頂・日ノ宮権現 下にある。

 

正平五年(一三五〇)毛利親衡・匡時の父子は・ここを居城として坂氏を名のつた。

 

そして南北朝合戦では・北朝方の守護職武田氏信の大軍を迎え。半年間も籠城して・遂 には大勝利を博している。

 

大永二年(一五二二)尼子晴久(ママ)が郡山城を 攻めた際・城主坂広秋は親大内派の理由から 元就に攻撃されて落城し自刃した。

 

県下の古城一〇〇〇のうち・このように再三の戦禍を受けた城は珍らしい。

 

最後の城主坂新五左衛門就清は・毛利家人 としてしばしばの合戦で際立つた奮闘ぶりを 見せている。

 

城跡には四つの平段と古井戸が残り・麓の円党寺(今はふもとの薬師堂)は坂氏の菩提寺であつた。

 

昭和五十七年十二月

向原町教育委員会

向原町文化財保護審議会

 

余湖図【日下津城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【日下津城】

拡大図。

 

城の概要

城跡は瀬戸内海に流れる三篠川と北流する見坂川が合流する地点に開けた小平野を見下ろす丘陵頂部に位置している。

 

尾根筋は狭く斜面は急峻である。

 

最高所の郭から北西と北東に延びる尾根筋上に郭があり,背後(南側) と先端部(北西側)に堀切を配している。

 

城跡の北麓と西麓には平坦面があり,北麓のものは城跡に伴う館跡と考えられている。

 

現在は耕作地、墓地、荒地となっており,時期は不明であるが池庭跡,石塁,石垣が確認できる。

 

本城跡は,毛利氏の庶子である坂氏の居城と伝えられる。

 

文献上の初出は1352(観応3)直冬と結んだ毛利親衡が安芸国守護武田氏信に攻められて本城に籠ったとある。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

日下津城

日下津城は、高田郡向原町坂にある毛利・坂氏の居城で、正平年間 (一三四六~七〇)以降長く使用されたらしいが、詳細については明らかでない。

 

位置としては、戸島川とそれに注ぐ三篠川によって開けた向原盆地の東方約 一㎞、坂の谷の入口にあたり、谷の南を画する山系から北方に突出した急峻な支尾根上を利用している。

 

水田面からの比高は約一〇〇mと低いが、東・西・ 北の三方は急斜面となっており、山頂からは向原の盆地のほぼ全域を見渡すことができ、特に三篠川を挾んで北方の対岸には琴比羅宮、東方約一・五㎞の坂の谷の奥には久志城を望むことができ、向原盆地を治めるというより、坂地域全域を支配するための城という感じが強いといえよう。

 

当城の歴史については明らかでないが、観応元年以降、足利直冬と結んだ毛利親衡が、安芸国守護 である武田氏信に攻められ、同三年六月以降、 この城に籠もったとされており、六か月後の 十一月に、直冬方の軍 勢が来援して囲みを解くまで籠城している。

 

その後は、親衡の次男匡時がここに住み、坂氏を称したが、以後、 代々坂氏の居城として使われたらしい。

 

このように坂氏は、毛利氏とは親類関係にあたるため毛利家中では重臣 として用いられ、子孫の広秋およびその子広明は、毛利弘元の代か ら幸松丸の代まで毛利氏の家務に携わってお り、その後、大永三年(一五二三)の毛利元就の本家相続に際しても、広秋の孫広秀は重臣の一人とし て連署している。

 

当城の遺構は、南側の山系から北方に突出し東西に延びる丘陵の背後を空堀で区切って独立丘陵状とし、その上に郭を配置したもので、頂部の 、西方へ階段状に七段の郭を並べている。

 

ただ先端部の郭群は、途中もある空堀で区切っており、頂部郭群に対して補助的な意味を持っていたもののようである。

 

なお、北側の支尾根上にも幅約二〇mの郭があり、それに隣接 する支谷には井戸状の窪みを持つ小郭がある。

 

また、それぞれの郭は五~一〇mとかなりの段差を持っており、特に崖部分は岩盤状の地山を削平と盛土で急峻にしており、実戦的な色彩が濃い。

 

なお、当城の東北山麓には比高五~一〇m、長さ五〇mの平坦地があり、「日下津」の屋号を持った家もあることから、ここに居館があったことも考えられる。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

日下津城跡 向原町坂

西流する三篠川がつくる谷の入口近くの南側、保垣から北に張出した山塊を背後に、空堀で区切った独立丘陵 状の地にあり、比高一〇〇メートルの最高所から西へ段 階状に七段の郭を並べる。

 

東北の山麓には居館跡とみら れる平坦地が残る。

 

正平五年(一三五〇)それまで属した足利尊氏に背いて足利直冬と結んだ毛利親衡は、一族とともに本拠吉田庄に 拠ったが、安芸国守護武田氏信に敗れたのを手始めに敗戦が続く。

 

同七年(文和元年)六月よりは坂にあった城にこもり丸五ヵ月間武田勢の攻撃に屈せず、一一月に及んで 援軍を得て武田勢を破った。

 

文和二年(一三五三)三月二二日付の吉川実経軍忠状(吉川家文書)に(文和元年六月)「同十五日、毛利備 中守親衡楯籠坂城之間、(下略)」「同廿日武田六郎殿御返之時、則御共仕、迄于十一月八日六ヶ月之間、彼城取巻、 日々致合戦之処、十一月八日終夜武田甲斐守相共致合戦畢」とあるのがそれである。

 

その後親衡の次男匡時がここを本拠とし坂氏を称し、 城も日下津城と称した。

 

坂氏は毛利氏の分流であるため、 のちには重臣として重んじられ子孫の広秋、その子広明は毛利弘元の代から幸松丸の代まで家務に携わっており、 元就の本家相続の際の大永三年(一五二三)七月二五日付福原広俊外十四名連署状(毛利家文書)には、広秋の孫広秀が重臣の一人として連署している。

 

『広島県の地名』より引用。

 

城の歴史

正平年間 (1346~70):この頃築城か。

 

文和2年(1353):北朝方の武田氏に攻められるが守り切る。

『吉川文書 1053』

 

日下津城攻城戦は『広島県史』に詳しく記載されているので一部引用する。

 

安芸守護であった尊氏方の武田氏信は、観応三年熊谷直氏・同直平・内藤教泰・阿曾沼光郷らを糾合し 側勢力の討伐にあたっている。

 

武田軍はまず四月十四日毛利弥次郎の相籠る祢村城を攻め、同十七日にこれも陥落させた。

 

ついで二十二日には、毛利元春の構えた内部城を攻撃し二十八日に落とした。

 

元春は逃れて吉田城に楯籠ったが、六月八日降参して 武田軍は親衡の相籠る坂城攻撃を開始した。

 

親衡は約六ヵ月間武田氏の攻撃を持ちこたえた。

 

なお、十月中旬には直冬方の先遺隊が石見国から安芸国へ入っていたが、大将今川頼貞は十一月八日坂城を取り囲む武田軍を攻め、氏信を追い落とすとともに要害二〇余カ所を焼払った。

 

氏信は十三日に三田馳山に陣を構えたが、頼貞麾下の直冬軍は十七日にこれをも追い払ったのである。

 

こうして直冬方は毛利親衡らの宮方勢力を取り込むことによって、安芸国北部に大きな勢力を扶植することになった。

 

なお、直冬は同年十一月十二日宮方に帰順していた。

 

『広島県史』より一部引用。

 

大永2年(1522):親大内派であった坂広時であったが、当時毛利元就は尼子経久の干渉圧力で広時を粛清する。

※家督は息子の広秀が継ぐ。

 

大永3年(1523):毛利元就の家督相続の書状に3番目として坂広秀がいる。

 

大永4年(1524):坂広秀が元就の異母弟である相合元綱を担いでクーデターを起こそうとするも失敗し、元就に誅殺される。

※この時広秀の息子である元祐は平賀氏に逃亡する。

 

その後坂氏の家督は志道広良の息子である元貞が継ぐ。

 

享禄5年(1532):毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では5番目に「坂次郎三郎広昌」と署名する。

『毛利家文書396』

これら起請文に連なる人物は福原・坂などの一族や粟屋・赤川ら譜代家人、井上、秋山・井原、内藤、三田などの近隣国人領主など、出自を異にする面々である。

 

彼らと元就の関係は、彼らの用水管理や、従者の負債や逃亡への対応など、共同で処理しなければならない問題を抱えていたが、それらは基本的に互いの間で解決することとし、元就には違反者の処分だけを依頼している。

 

この文章は元就に対する起請文という体裁をとっているが、中味からすれば「傍輩」間の一揆契状であり、元就は保証人的立場に過ぎなかったともいえる。

 

彼らは、毛利「家中」としてまとまりは強めつつも個々の自立性が強く、主人への忠節よりも相互の一揆的関係で秩序維持を図っていた。元就からすれば統制しにくい厄介な存在でもあったのである。

『知将 毛利元就』51頁より。

 

天文3年(1534):坂元貞が、父広良より安芸国志道の「みとろ名」の内の飛田3段、坂の助守名、中麻原の下末永名・さたつね名、上竹仁村の西条の内の「さねかね名」・乙丸名、河根村の延安名を与えられる。

『萩藩閥閲録巻49坂九郎左衛門-2』

 

天文5年(1536):坂元貞が元就からも知行を認められる。

『萩藩閥閲録巻49坂九郎左衛門-3』

 

天文11年(1542):元就から安芸国津田の定国名・中村名・森兼名を給地として与えられる。

『萩藩閥閲録巻49坂九郎左衛門-4』

 

天文18年(1549):平賀氏の家臣となっていた坂元祐であったが、平賀隆宗が死去した後に、元就に許されて毛利氏に帰参する。

 

天文19年(1550)坂元貞が毛利隆元から安芸国の坂300貫の代官職を与えられる。

『萩藩閥閲録巻49坂九郎左衛門-6』

 

天文19年(1550):坂元貞が井上氏誅殺時に家臣から忠誠を誓う連署に3番目に記載されている。

『毛利家文書401』

 

天文24年(1555):坂元祐が野間隆実の立て籠もる矢野城攻略戦に参加、また厳島の戦いでも活躍する。

その後、防長経略が始まり、周防高森城主となる

 

青字の坂元祐は毛利家に帰参した時にはすでに坂元貞が城主としていたと思われるので日下津城には関係ないが、同族ということで記載。

 

城主家系図

元貞は元の名を広昌という。

城主石高

坂新右衛門(元克)

1,143.055石

 

坂九郎左衛門(元時)

626.098石

 

所感

●城の登り口が分からなくて3回目でやっと本丸に到着。

 

●城は実戦向けで数多くの戦で実際に使用されただけあって堅牢。

 

●比高も高くなく、散策しやすい山城。

 

●主流派から反主流派になった為焦りを感じて相合元綱の擁立を図ったか。

 

関連URL

【広島県】長見山城【安芸高田市甲田町下小原字内長見】

同じくクーデターに失敗して誅殺された渡辺氏の居城。

 

参考URL

安芸高田市(日下津城)

城郭放浪記(安芸日下津城)

安芸 日下津城跡(よしだっちの城跡探訪記)

山城賛歌(日下津城)

安芸坂氏(ウッキペディア)

坂広明(ウッキペディア)

坂広時(ウッキペディア)

坂広秀(ウッキペディア)

坂元貞(ウッキペディア)

坂元祐(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/06

 

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