城データ

城名:枝の城

別名:野田の城

標高:425m

比高:10m

築城年:不明

城主:森脇氏

場所:広島県山県郡北広島町大朝

北緯:東経:34.776716/132.451440

枝の城はここ

 

攻城記

これを登れば本丸に着く。

大朝町史跡 枝ノ城跡

所在地大朝町大字大朝字野地

 

指定年月日平成四年(一九九二)四月三十日

枝ノ城跡は、比高が僅かに10mばかりという低い丘陵の突端にあって 頂上には、一辺が約二〇mの方形と一辺が約一五m以下の三角形をした郭 からなる小さな城跡です。

 

しかし、堅固な堀をめぐらしていて、その遺跡がうしろ側によく残っています。

 

近くには、「上堀」、「後堀」いう地名が屋号となって残っていました。

 

永禄五年(一五六二)二月、石見国有福の乙明城にいだ福屋の軍勢が、 不意に大朝の領内に攻め一んできたとき、吉川元春に仕えた森脇弥三春近 は、この城から出て、大塚で戦ったことが、昔の軍記物に書がれています。

 

枝ノ城跡は、戦国時代に築かれた、大朝町にのこる、唯一の館城跡です。

 

平成四年五月  大朝町教育委員会

 

本丸

森脇氏縁の墓石か。

降りてみる。

深い堀を形成している。

本丸を臨む。

 

open-hinataより【枝の城】

 

余湖図【枝の城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

比高10mの段丘先端部に位置する。城の北東側,段丘面との間には,幅15m,深さ5〜6mの堀切を入れて独立させている。

 

現在堀底は,北東側では水田,北側では竹林となる。

 

1郭は東西20m,南北10mの規模で,南側に0.5m低く,各辺が10m余の三角形をした小郭が付属する。

 

さらに,南西側4m下方にも小郭があるが,墓地の造成工事によって一部破壊されている。

 

吉川家臣の森脇氏が城主と伝えられる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

枝の城

枝の城は、大朝盆地の西方を画する枝の宮神社の丘陵の東方約一〇〇mにある丘城で、枝の宮神社宮司森脇氏に関係する城と考えられている。

 

この城は、南に延びる低丘陵の先端を利用したもので、丘陵背後を幅約二〇 mの空堀で区切り、頂部を一辺約二〇mの方形と、一辺約一五mと六mの三角 形の郭に分けており、その南前方約一〇m下方の微高地に約四〇m 四方の郭を 配し、正面の居館と背後の城・空堀が一体になったものと考えられる。

 

なお、城の周辺には「上堀」「後堀」の地名が残っている。

 

『日本城郭大系』13より引用。

城の歴史

永禄5年(1562):石見国の福屋氏の軍勢が攻めてきた時に、森脇春近がこの城から出ていった。

一族と思われる人物

森脇一郎右衛門尉春秀

森脇宗兵衛尉春忠

森(脇)四(郎)兵(衛)春貞

森脇弥六春得

 

吉川家臣に森脇氏は多いが特に上記の4人には「春」の通字がある、森脇弥三春近と関係がありそうな人物。

 

『芸備国衆家臣団一覧表  村井良介』より

 

所感

●城というよりも城館というイメージ。

 

●しっかりと整備されている、藪化されていない。

 

●城の北側に大きな堀があり、こちら側を防備の意識としていたと思われる。

 

●森脇氏は吉川氏の中では重臣だったと思われる。

関連URL

【広島県】駿河丸城【山県郡北広島町大朝字間所】

主家である吉川家の初期居城。

 

参考URL

城郭放浪記(安芸枝の城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/02/11

 

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