城データ
城名:駿河丸城
別名:平家丸、間所城
標高:420m
比高:30m
築城年:正和2年(1313)に吉川経高によって築かれたと云われる。
城主:吉川氏
場所:広島県山県郡北広島町大朝字間所
北緯:東経:34.778290/132.461128
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
史跡 駿河丸城跡
多くの中世山城は、地域、地域の人々、財産を侵略から守る砦としての位置づけが大きかったと考えられています。
駿河丸城跡は、大朝盆地の北側、寒曳山南麓の標高440m、比高約30mの丘陵上に位置する丘城です。
この丘城からは、大朝盆地の大部分を見渡せます。
本城は、鎌倉時代末期(1313)に、吉川経高が駿河国(今の静岡県)から移り、築城し、以後、小倉山城に本拠を移すまでの約70年間、本拠地として使ったと伝えられています。
しかし、これらを裏付ける史料は乏しく、駿河丸城跡の名前については、別名間所(まどころ)城跡ともいわれ、江戸時代の中期以前は、平家丸城跡と呼ばれていたとの史料があります。
駿河丸城跡の遺構は、南に伸びる2本の丘陵先端部を利用したものです。
郭群は、堀切や土塁で区切って造成し、郭の周囲は斜面を削り急峻にしており、中世山城の初期の形態を呈しているといわれています。
城の築造にあたっては、地域の人々が、自分たちの暮らしを守るため、各自が技術を発揮し協力して、汗を流した姿が思い浮かばれます。
1986(昭和61)年 8月28日 国指定 大朝町教育委員会
大朝盆地が良く見える。
余湖図【駿河丸城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
遺構は,東西2か所の郭群に分かれている。両郭群とも南に延びる丘陵先端部を携立させている。
事群は,本丸・二の丸とよばれる郭,それらに囲まれた1郭及び堀切からなる。本丸には北端に土塁があり郭として機能したと察せられるが、元々はこれらの郭は大規模な土塁であって,これらの土塁に囲まれた1郭に屋敷が構えられたと考えられる。
東郭群は,中心にある二段の郭,その西と南にある小郭及びそれらを開む堀切からなる。
位置・規模から,西郭群の出丸と考えられる。
鎌倉時代末期,吉川経高が駿河国から大朝本荘の地頭として下向し,築城したと伝えられる。
以後,南北朝末期に小倉山城に移るまでの吉川氏の本拠城とされている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
駿河丸城
駿河丸城は、大朝盆地北方の寒曳山南麓に延びる低丘陵上に立地する城で、 安芸吉川氏初期の本拠地である。
位置としては、大朝盆地北方 の高台にあたるため、盆地のほぼ全域を見渡すことができるが、 丘陵自体は低く、防禦機能の弱 い、どちらかというと盆地を治 めるための居館的な城ということができよう。
当城は、正和二年(一三一二) 安芸吉川氏の祖経高が駿河国入江荘吉川邑(静岡県清水市)からその所領の大朝本荘に下向して築城したもので、以後、二代経 盛・三代経秋が居城した。
しか し、四代経見の頃には、本城を新庄小倉山城に移したとされて おり、駿河丸城の本城としての 期間は約九十年で終わった。
その後については明らかでないが、文政四年(一八二一)に記された『大朝記』に は、興経の代にその兄家経が居城していたとされており、以後も一門の城とし されていたらしい。
なお、別名の平家丸というのは、平安末期 門が居所としたという言い伝えによるものである。
城の遺構は、南に延びる比高約三〇mの低丘陵の先端背後を空堀で区切って 城域としたもので、削り残しによる一辺約二〇mの三角形をなす郭(主郭)を中 央に配し、その前方南側へは幅約一〇mの郭を二段並べている。
背後は、空堀 状に深さ五ー一〇mを削り落とし、その後ろには再び主郭と同様の高さを持つ 土塁状の郭を配している。
この郭は、東側では幅一〇m以上もあり、建物を建 てることも可能だが、西側では幅が狭くなり、単なる土塁となっている。
また、 これらに挟まれた空堀状の落ち込みは、西側では幅二〇mもの広い平坦面となり、この部分も郭として使用されたものだろう。
つまり、構造的には 堀と、樓を建てることの可能な高い土塁で防禦した直線状連郭式の山城ということができるが、見方によっては、馬蹄形にめぐらした土塁に守られた館城ともいえる。
なお、本城跡は、後世戦国期の戦闘を目的とした城とは異なり、守りより所 領支配に便利な土地に占地しているが、東側の低丘陵上にも若干の加工痕がみられ、そのほか大朝盆地周辺には、西から矢熊城・枝の城・片山城など小規模 な城が点在していることから、それらのうちの一部は、この時期に駿河丸城の守りとして築かれたものと思われる。
『日本城郭大系』13より引用
城の歴史
正和2年(1313):吉川経高が築城する。
南北朝末期:吉川経見が小倉山城に居城を移す。
城主家系図
所感
●鎌倉時代末期から南北朝時代の城として防禦よりも地域を管理する為の城だと思われる。
●城の規模は大きく東出丸まで含むと、戦国時代の山城と遜色無い。
●周辺にも小城が多くあり、これらの城と連携しながら防備していたものと考えられる。
関連URL
歴代居城。
参考URL
安芸 駿河丸城跡(よしだっちの城跡探訪記) – よしだっち …2007年
安芸 駿河丸城跡(よしだっちの城跡探訪記) – よしだっち ..2009年.
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/11