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城データ

城名:壬生城

別名:高峰城

標高:358m

比高:90m

築城年:鎌倉時代か

城主:山県氏

場所:広島県山県郡北広島町壬生

北緯:東経:34.680565/132.548544

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

壬生神社。

高峰公園 いこいの森
いこいの森は、城山と呼ばれて広く親しまれてきた高峰城跡に造られています。
壬生の町の背後にそびえるこの山は、この地方に大きな勢力を持っていた山県氏(壬生氏)の居城でしたが、数度の合戦の後、享禄3年(1530)には、毛利氏によって完全に滅ぼされ、壬生の地は毛利氏の直接支配下に置かれることになりました。

城は海抜357mの小高い丘の上に築かれ、北側に本丸・二の丸が、南側に突き出たゆるやかな尾根に三の丸があります。

また、城の東側のふもとには、北から壬生城主のものと伝えられる墓、壬生八幡宮とともに古くから崇敬された大蔵神社山県氏の菩提寺と伝えられる善福寺跡、壬生八幡宮跡、毛利元就が建立した壬生新宮社(現壬生神社)が、南側のふもとには同じく山県氏の菩提寺とされる多聞寺が並んでいます。

 

これらの寺社は、この地域の人々の厚い信仰心を示していますが、同時に合戦の時は、城を防衛するための拠点にもなったものと思われます。

壬生神社横の登山道を登ると、約15分で頂上に着き、山頂からは壬生市街はもとより、千代田町の主要部が一望できます。特に毎年4月第3日曜日に行われる「つつじ祭り」の前後には、全山がつつじの花におおわれ、たいへんみごとなながめが見られます。

 

壬生神社から登っていく。

山頂に向かって進む。

先に延命の水に進む。

何かしらの建物があったと思われる。

多聞寺。

神社もある。

建てられて長い年月が経過している。

眺望がいい。

丸い石は投石用か。

曲輪側面。

登っていく。

見下ろすと結構の高さがある。

土塁。

前方右には有田城が見える。

本丸に到着。

有田城アップ。

 

山県信春墓所

天文五年(1536)と彫ってある。

城主没後450年記念らしい。

歴代山県一族の墓。

位置関係

 

余湖図【壬生城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【壬生城】

 

城の概要

城の遺構は,最高所の1郭を中心とする山頂郭群と南に延びた尾根を加工した南郭群とに分けられる。

 

二郭群間には堀切が設けられており,土橋で結んでいたようである。

 

2郭の北側には高さ2m基底部幅5mの土塁が45mにわたって遺存している。

 

土塁の北側下には,堀切が2条設けられており、土塁と相俟って防御機能を高めている。

 

南郭群は,三の丸と呼ばれている4郭とそれを取り巻く腰郭群からなる。

 

腰郭群は4郭と1〜4mの比高しかなく,加工度が小さい。

 

山県氏惣領に当たる壬生氏の本城である。

 

室町期,壬生氏は一族の今田・有田両氏とともに分郡主武田家中に属して三位一体的に行動していた。

 

本城は,今田・有田両城とともにこの地域の在地・交通支配を担ったと思われる。

 

戦国期,吉川・高橋・毛利を加えた4勢力の狭間にたたされ,有田落城を目の当たりにした壬生元泰は,毛利氏に投降した。

 

その後,この壬生氏の本流は没落したようで,庶流が毛利氏の被官として存続した。

 

城は1515(永正12)年の有田落城の頃から毛利・吉川両氏によって接収された。

 

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

壬生城

壬生城は、可愛川上流の八重・壬生両盆地の北側丘陵上にある山城で、比高 が低いにもかかわらず八重・壬生の両盆地を見渡すことができ、領地支配には 絶好の位置を占めている。

 

天文五年(一五三六)に毛利氏の攻撃によって落城するまで、代々山県氏が居城としていた。

 

築城年代は明らかでないが、城主である山県氏は為綱の時代の寿永二年(一一八三)に安芸国壬生荘に下向し、津久羅山に居城したとされている。

 

以後、 代々壬生荘の地頭として続いたものと思われる。

 

天文五年の 庄野(山県)五郎信春の時代に、毛利氏に攻撃されて落城したことのみが記録に残っている。

 

城は、背後を空場で区切り、その前面に郭を並べたもので、頂部には長さ約 三〇mの方形をなす本丸があり、その約八四下方には本丸をめぐって南側に幅 約一五mの二の丸を配置し、西側をやや高くして背後には土塁もめぐらしている。

 

三の丸は、これら郭群の南に約二〇mの比高をもたせて三郭からなる郭群としたもので、中央部の三角形の郭の南・北にそれぞれ小郭を配置している。

 

このほか、空場の底面にも土塁をめぐらしており、二の丸の土塁と共に、本城の特色の一つとなっている。

 

なお、城の東北の山麓には山県氏の菩提寺福善寺跡があり、長さ約八〇mの 平坦面のほか数段があり、山県氏の墓地も残っている。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

【城史】

この城は、室町期には国人領主壬生氏の本拠であった。

 

壬生氏は、この地域に伝統的に勢力を有した山県凡氏の 後裔で、室町期には同族の有田氏・今田氏とともに連携して勢力を維持していた。

 

戦国前期に、高橋氏・毛利 氏・吉川氏・武田氏が山県表に勢力を伸ばす中、永正十 二年(一五一五)壬生氏は武田元繁の己斐要害攻めに有田氏・今田氏とともに従軍したため、大内氏の命を受け た毛利氏によって有田城が攻撃され、落城した。

 

有田落 城を機に壬生氏は毛利氏に投降したが、翌年武田氏が有田城奪回に向かうと壬生氏は再び武田方となったようで、 毛利氏の攻撃を受け、壬生城は落城、壬生氏は没落した。

 

天文八年(一五三九)二月以前に吉川氏によって山県表が占拠された際、壬生城は吉川氏に奪われたと思われ る。

 

その後尼子氏が毛利氏を攻める(郡山合戦)が、同 十年(一五四一)正月に尼子氏が撤退すると、吉川氏の 山県表占拠も終わり、本城は再び毛利氏のものとなった。

 

『安芸の城館』より引用。

 

城の歴史

寿永2年(1183):山県為綱が壬生荘に下向する。

 

永正12年(1515):毛利興元が、武田方の壬生元泰の帰降を許す。

※元泰,京・関東役以下家来並の馳走を誓い,山県郡木次100貫の地を去渡す〔毛利家文書206〕。

 

 

大永2年(1522):山県元照が毛利幸松丸から感状を賜る。(閥閲録巻129-1)

この頃、毛利元就の調略及び攻撃で城が落城し城主の山県信春が自刃する。

※山県信春の叔父である山県元照を、毛利元就が調略して寝返らせ、信春を攻めさせる。

 

ただし、書物では天文5年(1536)となっており、山県信春の墓も同様に天文5年没となっている。

 

天文6年(1537):山県就照が安芸生田城を攻めた時に感状を賜る。(閥閲録巻129-5)

 

天文12年(1543):山県元政が加冠する。(閥閲録巻129-15)

 

天正4年(1576):山県元光が加冠する。(閥閲録巻129-16)

 

 

城主家系図

 

 

『萩藩諸家系譜』から作成、満政までと筑前守玄番の間には粗漏があると思われる。

山県氏は山県凡氏の後裔とあることから、山県為綱の子孫ではない可能性もある。

壬生元泰との関係が不明。

 

山県一族

吉川家臣に山県姓の家臣が多くいる、その中でも諱で「春」の通字があるものをピックアップする。

 

山県木工助康景(春直)

山県左京亮春直

山県普左衛門尉春政

山県木工助春式

 

『芸備国衆家臣団一覧表  村井良介』より

 

城主石高

山県惣兵衛(元光)

100.160石 石見 美濃

『毛利八箇国御時代分限帳』977

 

所感

●山県信春が天文5年に叔父に裏切られ自刃とあるが大永2年(1522)に山県元照がすでに毛利幸松丸から感状を賜っている。

 

●山県氏は壬生氏、有田氏、今田氏などのと同族であるが、そのルーツが山県為綱の下向とも、地元の有力国衆であった、山県凡(やまがたおおし)氏の子孫とも云われている。

 

●城は幾度と戦火にさらされており、精巧な造りになっている。

 

関連URL

【広島県】有田城【山県郡北広島町有田】

同じ一族の有田氏。

 

参考URL

壬生城(ウッキペディア)

城郭放浪記(安芸壬生城)

西国の山城(壬生城)

鷲 爪 伝 第四十一話 粛清(四)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/02/06

 

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