城データ
城名:丸屋城
別名:無し
標高:49m
比高:49m
築城年:不明
城主:蒲刈多賀谷氏
場所:広島県呉市下蒲刈町下島
北緯:東経:34.192408/132.676291
攻城記
天神鼻公園が城域となっている。
窪みは堀切か。
石積み跡か。
おそらく曲輪の跡だと思われる。
先に進む。
岬になっているので、先端まで歩くようになる。
先端部分。
先端からの眺望。
これは後世のものだと思われる。
余湖図【丸屋城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【蒲刈島】
城の概要
城の遺構は,深く入り込んだ大きな入江に突き出した半島状の丘陵にある。
丘陵背後の南側は掘り切って独立させ,そのすぐ北上のピークに郭を配置している。
1郭は10m×27mの三角形をしており,中央に観音堂が建っている。
2郭は1郭より1m低く,1郭を囲んでいる。
3郭はこれらの東・北・西を取り囲んでおり,最大の規模を持つ。
そこから北東に突き出した尾根上には3本の堀切と2条ずつの竪堀を備える。城主は蒲刈多賀谷氏である。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
中世、三之瀬北方の天神鼻に至る長さ六〇〇メートル余、標高二〇-四〇メートルの細長い半島には多賀谷氏の丸屋城が築かれた。
この半島は西も東も大きな入江で、 絶好の立地条件を備えている。
多賀谷氏は武蔵国田ヶ谷 (現埼玉県北埼玉郡騎西町)を本貫とし、伊予国北条(現愛媛県東予市)に地頭職を有し、後に北上して蒲刈まで進出したものである。
康応元年(一三八九)厳島参詣のため「かまかおんどりのせと」(現女猫の瀬戸か)から音戸,瀬戸に向かった足利義満一行に、多賀谷氏が合流し、大内義弘運参の旨を伝えているので(鹿苑院殿厳島諸記)、多賀谷氏はすでに大内氏と関係のあったことがうかがえる。
なお一行は帰路 「黒島」(現上黒島か)に停泊している。
多賀谷氏は天文二三 年(一五五四)に陶方についたため毛利氏に討たれた。
『広島県の地名』より引用
城の歴史
『芸藩通志』にも「多賀谷式部景茂、始めて城く」とある。
康応元年(1389):足利義満の厳島参詣に多賀谷氏も合流している。
大永3年(1523):尼子経久の安芸侵入により「丸屋城も攻撃され降伏する」とあるが、同時期の史料には記載されていない。
大永7年(1527):この頃160~170隻の警固船を有して活動していたが、厳島神領衆とのいさかいで神罰があたり、主だったものが海底に沈んだとある。棚守房顕の「房顕覚書」より。
天文23年(1554):竹原小早川氏の重臣乃美宗勝に与えられていた蒲刈の三之瀬を、広島湾頭に拠点を有する白井縫殿允に預け置くようにという命令が出されているが小早川氏の支配下にあったと思われる。
天文24年(1555):厳島合戦後も多賀谷武重は毛利氏から所領を安堵されている。
弘治3年(1557):武重が長門国美祢郡下加万別府に100石、同郡岩永別府内水田村40石の所領を賜る。
天正4年(1576):武重が防州熊毛郡美和庄の内10石を賜る。
天正16年(1588):元重が長門国美祢郡嘉万別府の内94石 同郷八代畑の内6石 同郡岩永内水田村の34石余りの知行をうける。
文禄2年(1593):多賀谷元重が朝鮮出兵後、仕えていた毛利秀元から長門の知行地を得て長府に移る。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて多賀谷元重が長府に移封する。
城主家系図
景時と武重の関係が不明。
城主石高
多賀谷元重(九左衛門) 872.255石 長門 美祢
多賀谷久兵衛 154.619石 長門 差祢
所感
●曲輪もある程度あるが、海の先端に突き出した岬に削平地がある砦のような感じものも。
●そのなかでも若干堀切や土塁が確認できる。
●石積みの跡もあったが恐らく後世のものと思われる。
●江戸時代には呉市広に移り住み庄屋となった一族もおり、干拓を行い多賀谷新開を造成している。
関連URL
同族の倉橋多賀谷氏の居城。
三之瀬を支配していた乃美宗勝の城で蒲刈の対面にある仁方の城。
参考URL
参考文献
『下蒲刈町史 図説通史編』
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/15