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城データ

城名:中山城

別名:中山河津城、中山萩原城

標高:325m

比高:50m

築城年:鎌倉時代か

城主:河津氏、相良氏

場所:広島県廿日市市河津原

北緯:東経:34.358819/132.209318

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

中山城全景。

標識。

中世の山城 中山城跡

中山城は標窩327m、比高50mの中山に葉かれた城で、もと在地土豪の詰めの城と考えられる。

 

江戸時代の地誌『芸藩通志』は、城主として相良遠江守の名をあげるが、築城者・時期についても史料が 周囲にも陶方の陣城であった勝成山城、毛利なく判然としない。

 

本城には石垣こそ用いられていないが、地面を加工して人士の急斜菌(「切岸」)と前菜地(「曲輪」)を造り出しており、その周囲には重の症切や整墟群、さらに横堀など、発達した空堀が確認できる。

 

土の造形による典型的な中世城郭である。

 

散島合戦は弘治完年(1555)陶・毛利両軍の間で戦われたが、ぞの前哨戦となった山里谷戦において、毛利完就が城番を配置した「山里要害」とはこの中山城のことと考えられている。

 

本城は安芸菌西部の城範の中では、際だって厳重な防御施設を備えた城であって、現状ののような空堀を多彩に駆使した縄張りが完成したのは、このときの改修によるものであろう。

 

戦いの舞台となった地域だけに、本城の周囲にも陣城であった勝成山城、毛利方の築いた狼倉山城など、双方の拠点となった城が点在している。

 

平成22年3月((友田地区コミュニティ推進協議会)

 

麓には神社がある。

公園となっているらしい。

城域に進んでいく。

麓を臨む。

本丸部分へ進んでいく。

見下ろす。

本丸。

周辺部。

堀か。

相良家之墓所

余湖図【山中城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【山中城】

 

 

城の概要

1郭は20m×22mの規模で正方形をしている。

 

1郭の東下に2郭があり,その外側には堀切を設けている。

 

1郭の北下には3郭があり,東側と同様にその外側に堀切を設け,さらに斜面には4条の竪堀がある。

 

北西側尾根続きには3条の堀切,南側には1条の堀切を入れている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

中山城

中山城は、玖島川に沿って開けた河津原、友田地区の小盆地を西方に望む丘陵先端に築かれている。

 

城主は『芸藩通志』には相良遠江とあるが、『佐伯郡誌』によると、近傍の八幡神社は当時の地頭河津左近が文永元年(一二六四)に造り、子孫の河津長左衛門は弘和年間(一三八一~八四)に戦死し、河津家は亡んだとある。

 

また当地 の相良家に伝わる文書の中に、中山萩原城主河津一正源清勝が、応安七年(文中三、一三七四)に城内の木舟明神・大歳明神を再建したとある。

 

これらのことから、中山城は鎌倉時代に新補地頭として当地に入ってきた河津氏の築城になり、南北朝の動乱期まで続いていたようである。

 

戦国時代に入って天文年間(一五三二~五五)頃になると、大内氏の有力家臣である相良遠江守が再築城したといわれ、一説には、この頃の城主は河津五郎頼高といわれている。

 

天文二十三年、毛利元就は陶晴賢を討つため、陶方であった己斐城・草津城 (広島市)、ついで桜尾城(佐伯郡廿日市町)を攻めて佐伯郡一帯に進出したため、 陶方は宮川甲斐守を派遣した。

 

毛利方は中山城の東方七畑の折敷畑にこれを破って、陶方の中山城を包囲し、城内に引いた水道を切断したため、相良方は人質を出して降参したという。

 

中山城の本丸は二二m×二〇mで、東側に二の丸、南側に三の丸を設け、北側にも二五mメ八mの郭がある。

 

二の丸の東側には堀切を設けており、この堀切は斜面を堅堀として掘り下げている。

 

この堀切の東には平坦地が長く延びており、相良家の古文書にある政所の場所とみられる。

 

なお、本丸の西側は三本 の堀切によって防備し、本丸の北側の郭の下には、竪堀三本、二の丸の下に竪 堀一本を設けている。

 

城の歴史

文永元年(1264):近隣の八幡神社を地頭の河津左近が造るとありこの頃には城があったと思われる。

 

応安7年(1378):河津一正源清勝が城内に木舟明神・大歳明神を再建。

 

弘和年間(1381~84):河津長左衛門が戦死して断絶する。

 

天文年間(1532~55):大内氏の有力家臣である相良遠江守が再築城したといわれる。が一説には、この頃の城主は河津五郎頼高といわれている。

 

天文23年(1554):毛利元就が陶晴賢を討つために佐伯郡に進出、相良氏も迎え撃つも水の手を切られて降伏する。

 

所感

●新補地頭として鎌倉御家人の有力者であった河津一族の傍系が来たのかもしれない。

 

●城は精巧にできており、戦に備えた城だったと思われる。

 

●この周辺は厳島神主領でもあり、その中で地頭として在地勢力を伸ばしていったと思われる。

 

●相良氏に関しては遠江守が相良家の当主の官途名なので、この地に所領があり、城代として河津五郎頼高がいたとも考えられる。

 

関連URL

【広島県】桜尾城【廿日市市桜尾本町】

毛利元就に一気に攻められた城。

 

参考URL

城郭放浪記(安芸中山城)

西国の山城(中山城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/01/15

 

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