城データ

城名:金沢城

別名:尾山城、尾上城、金城

標高:60m

比高:30m

築城年:天文15年(1546)頃に一向一揆の尾山御坊があったとされる、文禄元年(1590)から前田利家が金沢城として築城する。

城主:前田氏

場所:石川県金沢市丸の内(金沢城公園内)

北緯:東経:36.563507/136.660178

金沢城はここ

 

 

攻城記

百間堀は今は道になっている。

最初の石垣がお出迎え。

 

石川門。

刻印のある石垣も多い。

迫力がある。

入ってすぐの桝形虎口。

まあこの石垣は序の口。

どんどん進む。

ここだけでも石の積み方が違う。

それにしても切込みハギが美しい。

三の丸。

ここから見える風景も絵になる。

下と上で石垣の積み方が違うなんて珍しい。

迫力の石垣と櫓。

城の上の櫓は菱櫓た五十間長屋と呼ばれるらしい。

五十間櫓。

1631年頃に積まれたらしい。

橋詰門付近の石垣も特徴がある。

石垣積みの最高傑作だと思う。

現代の施工技術かと思う位精巧。

番所。

雁木坂。

菱櫓。五十間長屋。

二の丸。

在りし日の菱櫓・五十間長屋・橋爪門古写真。

1668年頃の改修の姿をとどめる。

土橋門石垣、享和年間に改修されているので新しい。

石垣も刻印もでかい。

別の場所に移動する。

完全に趣味で石垣を積んでいるとしか思えない。

 

山頂部に進んでいく。

現在は何もないし整備もされていない。

下っていく。

なかなか古そうな石垣。

麓まで到着。

1592年頃の一番古い石垣。

 

途中で改修した跡が分かる石垣。

 

余湖図【金沢城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

金沢城跡 金沢市丸の内・尾山町など

犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の突端部に築かれた平山城跡で、加賀藩前田氏累代の居城。

 

北西は金沢平 野から日本海を望み、南東は小立野台地から加越国境の山地を望む。

 

小立野台地は標高五〇―八〇メートル、幅は最大約八〇〇メートル、城地との間は百間堀によって画されており、堀を隔てて兼六園が広がる。

 

面積は九万 一千六三〇坪、うち堀の広さは三万二千一三六坪。

 

天正八年(一五八〇)織田信長の命を受けた柴田勝家は越 前より出軍し、金沢御堂に猛攻撃を加えた。

 

さらに小立野台地より攻め立てた家臣佐久間盛政により、ついに御 堂は占領された。

 

盛政は占領後御堂を城郭として造り替え、土塁や堀の造成が行われ、西方に正門が建てられた といわれる。

 

信長没後の同一一年、羽柴秀吉は柴田勝家 と近江で対決した。

 

盛政は伯父である勝家の軍の総帥と して出陣し、賤ヶ岳合戦で敗れ、京都六条河原(現京都市下京区)で処刑された。

 

留守を守っていた盛政の部将は戦 わずして降伏し、当城は豊臣秀吉から北陸制圧に功のあった前田利家に与えられた。

 

同年四月、利家は能登の小丸山城(現七尾市)から移り、明治二年(一八六九)六月版籍奉還、一一月退去に至るまでの約二九〇年間、前田氏の居城となった。

 

城下町を整備したが、従来の金沢の地名を尾山とした。利家没後は再び金沢が使用されるようにな る。

 

『石川県の地名より引用』

 

城の歴史

天文15年(1546):この頃一向宗の拠点である尾山御坊が建立される。

 

天正8年(1580):佐久間盛信が尾山御坊を攻めて落城させる、改修して金沢城と改称。

 

天正11年(1583):賤ケ岳の戦いにて佐久間盛信敗退し前田利家が入城する(尾山城と改名する)

 

天正15年(1587):高山右近が呼ばれて尾山城の大改修を行う(このころ金沢城に再度改名する)

 

文禄元年(1592):前田利長が再度改修を行う。

 

慶長7年(1602):天守が落雷により焼失する。

 

城主石高

前田利家時代:加賀100万石。

 

所感

●いろんな石垣の種類があり、石垣好きにはたまらないお城。

 

●城域は広く、じっくり回ると1日かかる。

 

●三の丸からみた菱櫓・百閒長屋は壮観でこれぞ近世城郭といえる。

 

●本丸部分が整備されていないのでイメージが湧かなかった。

 

関連URL

参考URL

金沢城(公式)

金沢城(ウッキペディア)

城郭放浪記(加賀金沢城)

 

参考文献

『石川県の地名』

『日本城郭大系』7

公開日2021/11/6

ホームに戻る

攻城一覧

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.