城データ
城名:高天神城
別名:土方城
標高:132m
比高:100m
築城年:室町時代中期
主な城主:福島氏、小笠原氏、岡部氏
場所:静岡県掛川市上土方嶺向
北緯:東経:34.698476/138.036035
攻城記
搦手から進む。
三日月井戸。
的場曲輪井戸。
大河内氏幽閉の石風呂。
この場所に何年も幽閉していたとは想像を絶する。
土塁跡。
23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。
城郭焼滅廃城となる。
本丸址
元亀2年3月武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以って籠城、本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百騎と遊軍百七十騎が詰めた。
天正2年5月武田勝当城包囲猛攻6月28日激戦、7月2日休戦、9日開城、城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去、武田方武将横田松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。
天正7年8月城兵交代、武田方猛将部丹波守真幸(元信)城代としてー千騎を率いて入城した。
天正9年3月徳川家康来攻包10ケ月、城中飢に瀕し22日夜半大将岡部真幸、軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分れて城外に総突し激斗全滅した。
23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。
城郭焼滅廃城となる。
城碑。
御前曲輪。
御前曲輪から。
元天神社。
井戸跡。
袖曲輪跡。
二の丸。
天正二年に武田勝頼が攻めた時に戦没した方と弔う碑。
堀切。
横堀。
別方向から。
二の丸跡。
open-hinataより【高天神城】
余湖図【高天神城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
高天神城
城址は、小笠郡の中央に位置する大東町土方、小笠山山塊の東南に延びた尾根の末端、標高一三二mの鶴翁山とよばれている山にあり、周囲は急斜面や絶壁をなし、さながら天然の要害である。
戦国期、「高天神を制する者は遠州を制す」といわれた要衝である。
永禄二年(一五六九)五月、今川氏真が掛川城を徳川家康に明け渡し、徳(戸)倉城に 退き遠江における今川氏の勢力が衰えると共に、高天神城は武田・徳川両氏が 攻防戦の血を流し続けた。
鶴翁山はまたの名を高天神山と呼び、山上に初めて城を築いたのは鎌倉時代土方次郎義政といわれるが伝説の域を出なく、立証史料もない。
定説としては、 応永二十三年(一四一六)に今川範政が今川了 俊(貞世)の進言によって築城したもの、すなわち鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉民憲(禅秀)の確執に際し、 持氏に与していた今川氏が持氏応援のため禅秀軍に備えて築城したとする。
しかしこれにも異論がないわけではない。
今川了俊は応永二年八月に九州探題の役目を罷免されており、所領の遠江国見付に蟄居して不遇の晩年を送り、おそ らく築城や、その進言などできる状態ではなかったであろう。
もし了俊が全盛で、しかも在国中だったにしてもそのようなことは不可能と思われ、高天神城 は今川氏が守護大名から戦国大名に成長し遠江進出を開始し始めて以後と考えられる。
換言すれば、今川氏親が北条早雲らに命じて遠江に侵攻を開始、斯波 氏の勢力と戦った明応・文亀(一四九二ー一五〇四)前後と推測するものである。
高天神城は今川氏没落後、永禄十二年、徳川家康に属する小笠原与八郎長忠 (氏助)が本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清ら約二千の兵をもって守っていた。
元亀二年(一五七一)三月、武田信玄は二万余名の軍勢を率いて遠江に侵攻し、高天神城を内藤昌豊に攻めさせたが守りが固く撤退した。
信玄没後その子勝頼は天正二年(一五七四)五月、二万余の軍を率いて遠江に 攻め入り十二日に高天神城を包囲した。
勝頼は力攻めを行なう一方、一族の重 鎮穴山信君(梅雪)を通じて城将長忠に開城するよう勧告した。
長忠は講和に応じるよう装いながら、向坂牛之助を使者とし、浜松城の家康のもとへ二度 にわたり援軍を請うてい る。
だが、後詰めを約束した徳川・織田連合軍の 姿はいっこうに現われな い。
六月に入り、武田軍が 東峰の大手口の塀際まで 攻め寄せるような激戦ののち西の丸は落ち井戸曲 輪は占領されて城は分断、 大軍の攻囲を一か月にわ たって支えていた長忠だが、六月十七日、ついに 降伏する。
高天神攻略を 急ぐ勝頼は、長忠に駿河国富士下方地方で一万貫を給し、長忠の部下にも旧知行高と同額を与えたという(これを東退という)。
また、一部の者は浜松へ退去することも許された(これを西退という)。
その後、勝頼は城番に横田甚五郎尹松を置いた。
翌三年五月、 県勝頼は徳川・織田連合軍と長篠で戦って大敗する。
同六年三月、家康は高天神岡城攻略の拠点として大須賀康高に命じて横須賀城を築城し、その後、高天神城の城将は駿河先方衆の岡部丹波守真幸、軍監横田尹松となり、小競り合いが繰 り返された。
同八年十月になると、家康は小笠山・中村・能ヶ坂・火ヶ峰・獅 子ケ鼻・三井山の六砦を築いて付城とし、高天神城を包囲して城外の稲を刈り、 堀を掘って監視をきびしくし、兵糧攻めの策をとり、そして翌九年三月二十二 日、打って出た家康麾下の榊原康政・本多忠勝・鳥居元忠らがはげしく攻めた て、城兵を撃破した。
城将岡部丹波守真幸・軍監横田尹松らは大久保忠世らが 守る「林の谷」に斬り込み、岡部は討死し、横田は脱出した。横田は勝頼滅亡 ののち家康に召し出され、この家系は大身旗本となる(『三河物語』『当代記』)。
こうして家康は遠江における武田方最大の拠点を攻略、城は廃城となった。
城の歴史
元亀2年(1571):武田信玄が高天神城を攻めたとされる。
天正2年(1574):武田勝頼が高天神城を攻める(第一次高天神城の戦い)この時に城主は小笠原氏助で落城後は岡部元信となる。
天正8年(1580):徳川家康が高天神城を奪取するために攻撃する(第二次高天神城の戦い)
天正9年(1581):落城する。
所感
●「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた難攻不落の城。
●城域は尾根筋に沿って築城されており広い。
●神社跡や現神社もあり天神も祀られている。
関連URL
同じ掛川市の城。
参考URL
参考文献
『静岡県の地名』
『日本城郭大系』9
公開日2021/11/03