城データ
城名:岡豊城(おこうじょう)
標高:97m
比高:80m
築城年:13~14世紀
城主:長宗我部氏
場所:高知県南国市岡豊町八幡字岡豊山
北緯:東経:33.595073/133.622688
攻城記
麓には歴史博物館がある。
本丸に向かって進んでいく。
比高も高くなくすぐに登れる。
麓を臨む。
二ノ段付近。
広さがある。
井戸跡。
何かしらの建物が建っていたようだ。
模擬天守に到着。
天守からの風景。
下から本丸付近を見上げる。
三ノ段礎石建物跡。
竪堀。
伝厩跡曲輪。
余湖図【岡豊城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
岡豊城
岡豊城は高知平野のほぼ中央部北辺の岡豊山に位置し、高知平野を見下ろしている。
南の山麓を東から西へ国分川が流れて自然の堀の役目を果たし、北は国道三二号線を隔てて、いわゆる北山に連なっている。
北方の山上、山麓には舟岩・ 小避をはじめ古墳が点在し、東ははるかに国分寺の森や土佐国衙跡が社の先進地域の一角を占めている。
東北部の山上には岡豊八幡が 城の鬼門を守護するという中世の城としては絶好の地に位置している。
この岡豊城は土佐、さらに四国を制覇した長宗我部氏の居城であるが、築城の時期は明らかでない。
『長野県更級郡誌』によると、長宗我部氏の祖奏能俊は保元の乱後信州から土佐へ移ったと伝えているが、承久の変後、土佐の国宗部郷の地頭となったともいい、諸説があって一定しない。
中世初期には長岡郡宗部郷へ入部していたのであろう。
宗部郷は岡豊山の東から東南にかけての地で、入国当時はこの地に居館を定 めたと思われる。
秦氏は地名を氏としたが、香美郡の宗我部氏=香宗我部氏と 区別するため長宗我部氏を名乗り、中世を通じて発展する。
宗部郷から江村郷岡豊山に移った時期は不明だが、長宗我部氏の庶流の派生を考えると鎌倉時代末期から南北朝時代には築城されていたと推定される。
もっとも度々の修造があったであろうし、戦国時代の平山城として、現遺構をとどめるまでになったのは元親の父国親の頃と思われる。
ところで長宗我部氏の発展を考えてみるに、能俊以後七代兼光の貞応年間 (一二二二~二四)前後の頃までに江村・広井・中島・野田をはじめ一族の分流 を派生しているが、これらは岡豊の東南から南部の高知平野に居城を定め、惣領家長宗我部氏の藩屏を形成していた。
十一代信能は足利尊氏に属して南の介良庄の土豪の狼藉を鎮定、南北朝の内乱が始まると、細川氏の傘下に入って北朝方として活動し、その軍功によって おおそね 大堀・吉原地頭職、朝倉領家、深淵郷、介良庄中塩田を与えられた。
信能の子十二代兼能は康永四年(興国六、一三四五)頃、夢窓疎石創建の吸江庵の寺拳行となったが、跡を継いだ十三代兼綱は故あって朝倉領家、深淵半郷を削られた。
細川氏分家の頼益が康暦二年(天授六、一三八〇)頃、土佐の守護代となったが、長宗我部氏はその指揮下に入り、十四代能動は至徳三年(元中三、一三八六)頃、香美郡吉原の地を与えられ、長岡郡坂折山に感溪寺定光庵を建立し、以後約一〇〇年の間は平穏であったが、文明三年(一四七一)頃に至 って、十六代文兼の時代に長子元門が父にそむいて追放されるという事件が起こった。
そのため家中譜乱の状態となり、吸江庵の寺奉行を除かれ、周辺所領の一部 を知行することができなくなった。元門はのち許され国に帰ったが、家督は弟の雄親が継いだ。
この頃長岡郡江村郷、土佐郡一宮に所領を広げ、雄親の子兼序は「感勢基感にして人唇を返す事共多かりけり」)『「土佐物語』)といわれるほどであったが、永正四年(一五〇七)六月、細川政元が横死したことによって後緩者を失った。
細川守護領国の瓦解によって兼序は戦国群雄の中に孤立し、永正五年(六年ともいう)、本山・山田・吉良・大平の諸豪族は相結んで岡豊城に攻め寄せた。 兼序は奮戦したが力及ばず、嗣子千雄丸(国親)を幡多郡の一条房家のもとに託 したのち、城と運命を共にした。
一条房家は千雄丸の長宗我部家再興の希望をかなえさせるため、本山・山田・ 吉良・大平の諸氏に対して仲介の労をとり、本領の江村・世枝郷などを還付させ、永正十五年には元服させて国親と名乗らせた。
国親は旧領の岡豊に帰り、岡豊城を根拠として周辺への勢力伸張をはかった。 まず江村郷吉田城主の吉田周孝と結んで策を練り、名主・作人層を組織化し、 帰参した譜代の重臣を中核として軍事力をつくりあげた。
こうした組織を基盤として、天文十六年(一五四七)頃南の大津城を攻撃して 城主天竺氏を滅ぼし、続いて隣接する介良城を攻めて横山氏を降し、南下して 下田城主の下田駿河守を敗死させ、坊市城主細川宗桃、池城主池頼定を臣従させ、改田城主の蚊居田氏の協力を得て長岡郡南部一帯を制圧した。
さらに土佐郡東部に勢力を伸ばし、天文十八年の秋には楠目(山田)城主の山田基通を降した。
永禄元年(一五五八)頃には国親の三男親泰が香宗我部家を継 ぎ、東は安芸氏と境を接した。
永禄三年、長岡郡北部から土佐郡、さらに吾川郡南部にまで進出していた本 山選庭との間に戦が起こったが、国親は、長浜・浦戸(高知市)の合戦でこれを 破り、岡豊に帰城したものの六月十五日急死した。
跡を継いだ元親は、永禄三年、長浜戸の本の合戦で初陣したが、同五年朝倉合戦で本山茂庭と激戦を展開した。翌六年一月、本山氏は傘下の諸将が元親に降った現状をみて朝倉城を焼いて本山に退いた。
また弘岡の吉良城の守将も撤 退したので、元親の弟親貞が吉良城主となり吉良左京進と名のった。 こうして吾川郡南部を手中に収めた元親は、本山氏を攻撃するため部下の将 兵を本山に派遣したが、このすきをねらって安芸国虎が五千の兵を率いて岡豊城に押し寄せてきた。
元親は苦境に立ったが、夜須城主の吉田重俊父子の救援 によって危地を脱し、安芸軍を撃退することができた。
元親は永禄十一年本山氏を打倒すると翌十二年に安芸氏攻撃の軍を起こし、笑流(安芸市)の決戦で勝利を得たのち安芸城にせまった。
国虎は支えきれず、八月十一日浄貞寺で自害して安芸氏は滅んだ。
元親は安芸民打倒に先立って、幡多の一条氏を懐柔し、親近関係を維持して いたが、一条兼定が津野・大平・佐竹ら高岡郡の土豪を勢力下に収め、高岡・ 幅多二郡を根拠として西部土佐に君臨するに及んで、元親と一条氏との間に衝突が起こった。
結局元親は一条氏を討ち、兼定の子内政を大津城に移して女を娶せた。
しかし内政は元親の臣波川玄蕃の謀叛に与して追放され、一条氏は滅 亡した。
天正三年(一五七五)末頃より阿波に出兵し、同四年には南伊予、同六年には 讃岐へ侵攻した。
その後同九年頃までに阿波の三好、伊予の西園寺・宇都宮、 讃肢の香川・羽線の諸氏を降し、その間天正六年には次男親和に香川家を継がせた。
天正十年織田信長と対決することとなったが、本能寺の変で危機を脱し、大兵を阿波に入れて十河存保を中富川に破り、勝瑞城を落として阿波を制覇したのち、東讃岐へ侵攻して十河城を囲み、十二年これを落として讃岐を制し、十 三年春には伊予湯薬城主の河野通直を降して四国を統一した。
しかし、天正十三年六月から七月にかけて豊臣秀吉と戦って敗れ、土佐一国 を安堵された。
同十四年秀吉の命で長男信親と共に九州に出兵し、島津の大軍と豊後戸次川に戦って敗れ、信親は戦死した。
天正十五年九月より検地を始め、十六年の冬頃、岡豊より大高坂に居城を移した。
『日本城郭大系』15より一部引用。
城の歴史
永正4年(1507):本山氏が中心となって諸豪族連合が岡豊城を攻める、その後落城する。
永正15年(1518):長宗我部国親が元服して一条氏の尽力で岡豊城城主に返り咲く。
永禄3年(1560):国親が病没し元親が家督を継ぐ。
永禄11年(1568):本山氏を打倒する。
永禄12年(1569):安芸氏を打倒する。
天正3年(1575):阿波へ出兵する。
天正4年(1576):南伊予に出兵する。
天正6年(1578):讃岐に出兵する。
天正9年(1581):阿波の三好、伊予の西園寺・宇都宮、 讃肢の香川・羽線の諸氏を降す。
天正12年(1584):讃岐を制す。
天正13年(1585):伊予を制し四国統一を図るが豊臣秀吉の四国侵攻にて降伏する。
天正16年(1588):岡豊城から大高坂に居城を移す。
城主家系図
所感
●曲輪は複数あるものの、比高も高くなく、堅牢なイメージはない。
●この地域から四国統一したのは国親と元親の才能がいかんなく発揮されたからだと思われる。
●模擬天守の上から臨む田園風景を元親も見たと思うと感慨深いものがある。
関連URL
元親が一時大高坂城(高知城)に居城を移したこともある。
参考URL
参考文献
『高知県の地名』
『日本城郭大系』15
公開日2021/10/24