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城データ

城名:府内城

別名:荷揚城、白雉城、大分城

標高:5m

比高:5m

築城年:慶長2年(1597)福原直高によって築かれる。

城主:福原直高、早川長敏、竹中氏、日根野氏、大給松平家

場所:大分県大分市荷揚町

北緯:東経:33.240164/131.611383

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

本丸部分に鉄パイプで造られた城がある。

 

石垣は関ケ原以前のものかもしれない。

荒々しく無骨な感じをうける。

こちらは算木積みなので関ケ原以降か。

石垣といえばこの角度。

櫓もあり雰囲気の出ている場所。

付近の石垣。

迫力の石垣。

櫓のある風景。

苔むした石垣と櫓。

府内城ベストショット。

行ける一番先。

瓦の残骸もあった。

青空と櫓。

 

当時工事中であった。

城門。

現在は公園になっている。

府内城ベストショット

 

 

余湖図【府内城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

府内城跡 大分市荷揚町

大分川が北西に流れて別府湾に流入する辺りの旧河口部西側にあった江戸時代の平城。

 

県指定史跡。

 

古くは荷揚城、雅名を雉城・白雉城と称した(雉城雑誌」など)。

 

(創建と拡張)

文禄三年(一五九四)早川長敏が府内に入ったが、家島に仮館を構えてのち大友館に移ったという。

 

領知高は大分郡のうちで一万三千石(一万一千石・一万ニ千 石・一万七千石説あり)、蔵入地預四万七千石(四万八千石説あ り)とされるが、同五年閏七月一二日の大地震を経た翌慶長二年(一五九七)木付(杵築)に移封された。

 

続いて福原直高が臼杵から一二万石を領して同館に入った。

 

このとき豊臣秀吉から「豊府ハ国中ノ咽喉也、汝要害ヲ見立改築 スベキノ由」命じられたという(雑城雑誌)。

 

直高は家臣生島新助を供に上野の飯盛塚に登って府内を見渡し、北方の大分川河口西部の船荷が積下ろしされている荷落とよばれる地を城地に選んだ。

 

城は八町四方を本丸・二の 丸・三の丸に区画し、大分郡内から巨木、土佐国から精木を、さらに高崎山や笠縫島から巨石を運ばせた。

 

三の 丸となる地にあった大友氏建立の同慈寺・宝殿は残された。

 

途中朝鮮出兵で工事は中断したが、同四年には二の丸の東三重櫓、三の丸の家臣屋敷も大半完成し、城の地も荷揚と改め、新城を荷揚城と命名したという。

 

同年直高は除封され、早川長敏が再封されたが関ヶ原の戦で西 軍について滅び、同六年三月高田藩主竹中重利が二万石 で入城した。

 

重利は徳川家康の許可を得て城の増築に着手し、石垣・堀を造築した。

 

その際に肥後熊本の加藤清 正に要請して石工数十人を派遣させ、大坂の大工、山城 ふし 伏見の瓦師もよんだと伝える。

 

同七年中には天守・櫓・ 武家屋敷も完成し、城下町の建設に取りかかった。

 

以後 城名を府内城とした(以上「豊陽志」「雉城雑誌」「豊府紀聞」)。

 

『大分県の地名』より引用。

 

荷揚城

朝鮮の役で失敗した大友義統は、豊後国を没収され、鎌倉時代から約四百年 間続いた大友氏は滅んで、家臣たちもそれぞれ散逸してしまった。

 

豊後国を取りあげた豊臣秀吉は検地を行なって、小さく細分化し、朝鮮の役 で功績のあった諸大名をそれぞれ封じた。

 

文禄三年(一五九四)、府内には早川長敏が入り、福原直高は日杵藩六万石に封ぜられたが、慶長二年、早川長敏が去った府内城(当時は上野丘の大友館)に 入り十二万石を領した。

 

福原直高は、秀吉の側近石田三成の妹婿であった関係で、早川氏の時はわず か一万三千石だった府内藩が、一躍十二万石という破格の出世をした。

 

当時の府内の町は天正の役で廃墟と化し、加えて慶長元年の大地震によって 崩滅状態であった。

 

直高は上野の丘から府内を眺めながら、新城を大分川の河港”荷落ち”に築く ことに決心し、八町四方を竹矢来で囲んで築城に取りかかった。

 

良材は土佐に求め、領内の巨木を切って建築に使用したが、石垣に積む石は高崎山城の石垣 や小島から大石をひかせたりしても足らず、港に入る船頭たちに入港するごとに大石を必ず積んで来るように命じた。

 

また石の重量によって銀子を支払うと いう触れを出して、船が集まった頃に大幅に値段を下げたため、船頭たちは怒 って石を海に投げ捨てて帰ったので、それを拾い集めて石垣に積んだという話 もあるが、真偽のほどはわからない。

 

城地は沼地であったので、基礎固めがうまくゆかず困っていると、上野六坊 に住む貧しい娘おみわが人柱に立つことになり、領内の僧侶の読経の中を白無垢の浄衣をまとって入水したという伝説が語り継がれている。

 

今も西北の櫓の 下に「おみわ」を祭った祠が残っている。

 

慶長二年に始まった 城造りは、慶長四年の 四月に大半が完成し、 直高は上野の館から新 城に入り、荷落城では 縁起が悪いので「荷揚 城」と命名した。

 

直高は在職わずか一 か月で、徳川家康から 改易を命ぜられた。秀吉は前年八月にこの世 を去っており、すでに 徳川氏の発言力が強く なってきており、秀吉 ―三成のラインであっ た福原氏は追い落とされた。

 

城には、またもや早川長敏が返り咲いたが、 慶長五年、関ヶ原合戦 で西軍に属したため失 脚し、そのあとに竹中 伊豆守が入城した。

 

竹中氏は高田城一万 五千石から、荷揚城三万五千石に栄転した。

 

竹中氏は関ケ原合戦で 東軍に属し、中津の黒田如水と共に別府市の石垣原合戦で大友軍を破った功績が報われたのであろう。

 

竹中氏が入った荷揚城は、まだ天守櫓・堀・石垣などが未完成であったので、 竹中重利は家康に城増築の許可を願い出て、これを許された。

 

重利は肥後の加藤清正に依頼して、石垣を築く人員を派遣してもらって な天守などの石垣を築いたという。

 

慶長七年三月、四層の天守をはじめ櫓・塀など、堂々たる白亜の城郭が完成した。

城を完成させた竹中重利は、これまで上野丘一帯の城下町を新城の周囲に集 め、町並みの外側に外堀(惣堀)を掘ることにして住民の協力を得て、慶長十年 の秋から着手して数年後に完成したようだ。

 

城下への入口は三か所(笠和口・ 堀川口・塩九升口)設けられた。

 

城下町は東西十町・南北九町、面積およそ三 十万坪で、この城下町を碁盤目に四十余町に割った。

 

慶長十三年には港を城下の西北に設け、また南部から直入郡に通ずる大道を 設けるため、山を掘り割って道路を開通させた

 

『日本城郭大系』16より一部引用。

 

城の歴史

1597年(慶長2):福原直高が築城開始。

 

1599年(慶長 4): 東三重櫓と三の丸の家臣屋敷が完成、早川長敏が府内藩主になる。

 

1601年(慶長6): 竹中重利が府内藩主になる。

 

1602年(慶長7): 四重天守閣、山里、諸櫓、中堀などが完成する。

 

1605年(慶長10) 外堀が完成する。

 

1607年(慶長12) 笠和口、堀川口、光弁日の門が完成する。

 

1608年(慶長13): 京泊(港)が完成する。

 

1634年(寛永11): 日根野吉明が府内藩主になる。

 

1658年(万治元):松平(大給) 忠昭が府内藩主になる。

 

城主家系図

福原氏は播磨赤松氏の庶流である福原氏の子孫。

 

 

城主石高

福原高直時代:120,000石。

竹中時代:35,000石

 

所感

●建物は後世の再建だが、それでも趣があり特に石垣の下から臨む櫓は圧巻。

 

●見学当時は工事中であったが、常に修繕工事を行っていることに感謝。

 

●現在中は公園化されている。

 

●謎の鉄パイプでの天守閣は日本でここしかない。

 

関連URL

【兵庫県】福原城【佐用郡佐用町字福原】

福原直高の父が居城していた福原城。

 

参考URL

府内城(大分市)

府内城(ウッキペディア)

城郭放浪記(豊後府内城)

福原直高(ウッキペディア)

早川長政(ウッキペディア)

 

参考文献

『大分県の地名』

『日本城郭大系』16

 

公開日2021/10/23

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