城データ
城名:筑紫氏居館跡
標高:215m
比高:15m
築城年:16世紀
城主:筑紫氏
場所:佐賀県鳥栖市牛原町字若林
北緯:東経:33.395057/130.466844
攻城記
居館跡から勝尾城へ登る。。
館跡は、勝尾城の南麓にあり、筑紫氏の領地支配の中心となる場所です。
当時は主殿や会所、庭園などがあったと考えられています。
その規模は、南北約100m、東西80mになります。
これまでの発掘調査により、石積みでつくられた虎口(出入り口)や曲輪(平場)礎石、柱穴、焼けた壁土などが確認されました。
また、瓦や硯、小柄(小刀)、中国銭、土鈴、石白、灯明皿、漆塗りの椀、土師器(素焼きの器)や陶磁器など、戦国時代の多様な遺物が出土しています。
イメージ図。
虎口。
往時の雰囲気が感じられる。
筑紫氏居館跡
明応六年(一四九七)筑柴満門が、勝尾域に入城して 以来、天正十四年(一五八六)までのおよそ九口年間、 筑柴氏が居館をかまえた地で、おたち(御館)と呼ばれ ています。
現在北側に勝尾城へ通じる登城口、南側に石垣、石塁などが残っています。
また、南・西は切岸となし、上部は屋敷地割と考えられる激役の削平地が認められるなど、良く当時の館構を残しています。
この居館跡の東には勝尾社跡、全休寺跡・南には谷を 介して鐘撞と伝えられる地があり、居館を中心とした 勝尾城下のようすが今にうかがわれます。
鳥栖市教育委員
余湖図【筑紫氏居館跡】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の歴史
西暦 | 年号 | 関連事項 |
---|---|---|
1423 | 応永30年 | 九州探題渋川義俊、少弐満貞らに攻められ勝尾城に入る。 |
1424 | 応永31年 | 義俊、少弐一族の筑紫教門に攻められ筑後へ落ちる。 |
1499 | 明応8年 | 筑紫満門、亀尾城(福岡県那珂川町)にて渋川義基を追い落し、勝尾城に入る。 |
1559 | 永録2年 | 筑紫惟門、二千人の兵で博多を襲撃し、大友氏の代官を追討する。 |
1571 | 元亀2年 | 筑紫広門、龍造寺隆信と和平を結ぶ。 |
1586 | 天正14年 | 島津の軍勢、高良山に入り勝尾一帯を焼き討ち。 勝尾城落城し、広門、久留米大善寺に幽閉されるが、のち脱出し、勝尾城を奪回する。 |
1587 | 天正15年 | 広門、豊臣秀吉の島津攻めに加わる。 秀吉の九州国割りによって、筑後の上妻郡1万8千石を与えられる。 |
1600 | 慶長5年 | 関ヶ原の戦いで西軍に加わり、敗北。 所領没収、広門、剃髪して夢庵と称し、肥後の加藤家の扶助を受ける。 |
1623 | 元和9年 | 広門、豊前細川家の扶助を受け、小倉にて病没。 |
鳥栖市ホームページより引用。
城主家系図
家系図1
家系図2
共に『史跡勝尾城筑紫氏遺跡保存管理計画書』35ページから引用。
惟門の父は正門ともある。
鳥栖市ホームページから引用。
所感
●現在は筑紫神社となっている。
●中世の国衆としてはしっかりとした館跡になっており、史跡になっている。
●館であるが、虎口もあり本格的。
関連URL
筑紫氏の居城である勝尾城。
参考URL
参考文献
鳥栖市教育委員会発行『 史跡勝尾城筑紫氏遺跡保存管理計画書』
『佐賀県の地名』
『日本城郭大系』17
公開日2021/10/10