城データ

城名:名護屋城

標高:87m

比高:45m

築城年:天正19年(1591)豊臣秀吉により築城。

城主:豊臣秀吉

場所:佐賀県唐津市鎮西町名護屋

北緯:東経:33.530407/129.869221

名護屋城はここ

 

 

攻城記

沢山撮りましたがデータが消えました。

あるのは博物館の模型のみ・・・

 

 

余湖図【名護屋城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

名護屋城跡 鎮西町大字名護屋

標高八〇メートル余の勝男岳(最添山)に築かれた平山城 で、城域一四・五ヘクタール。

 

本丸・二の丸・三の丸・弾 正丸・遊撃丸・東出丸・山里丸・水の手曲輪などがあり、 大手門はじめ五つの城門があった。

 

昭和二〇年(一九四五) 戦災で焼失した仙台(宮城県)青葉城の大手門は、この城の本丸大手門を移したもの。

 

城の規模については、伝狩野 光信(右京)筆の「名古屋御宿所」と記す名護屋城屏風に明らかにされている。

 

五層七階の天守閣もあり、慶長元年 (一五九六)八月、名護屋城を見聞した朝鮮国人秋黄慎の 「日本往還記」に黄金瓦葺の天守閣の存在を記している。

 

名護屋城周辺には諸大名の陣屋が設けられ、「松浦古事 記」によれば百数ヵ所の陣屋跡が記録されている。

 

この地にはもと松浦党の名古屋氏の居城垣添城(垣副城)があったが、豊臣秀吉が朝鮮出兵の基地としてここに 加藤清正らに新たに築城させたという。

 

「松浦古事記」に

天正十九年卯年十月上旬、諸大名肥前国上松浦郡名 護屋へ下着、御城普請に御取掛り、文禄元壬辰年三 月太閣秀吉公御下着、諸勢廿万五千五百七拾余騎高 麗へ差渡され、同三甲午年春御帰陣、諸勢は慶長三 戊戌年十一月帰陣、都合三十万七千九百八十五騎な り。此内十万二千四百十五騎名護屋在陣の勢なり。 唐津より名護屋へ三里二十二丁戌の方なり

 

と記す。この城の一の木戸は一四キロ離れた唐津市弓鷹町の名護屋口に置かれ、一の城戸を佐むの起(唐津市)、二の城戸を加倉、三の城戸を石室に置き、支城を壱岐(長崎県)に置いた。

 

規模広大で「日本往還記」に「寔古今奇絶 之大功也。皆人驚耳目而已」と記す。

 

「甫庵太閣記」には 城の造作の詳細な内容が記され、桃山建築の粋を尽したことがうかがえる。

 

秀吉はここに約一年三ヵ月滞在したが、秀吉の死により将兵は陣をはらい、城は唐津藩主寺沢志摩守に与えら れ、志摩守は城代を置いて守った。

 

慶長絵図には「名護屋城」として記されている。

 

秀吉の死後、建物等は唐津 城築城に移されたというが、割普請により築かれた城壁はそのままであった。

 

寛永一四年(一六三七)の島原の乱後、 反徒がこの城に拠ることを恐れた唐津藩は、城の主要な 石垣を壊して廃城とし城番のみを置いた。

 

しかし城郭の遺構はよく保存されており、国指定特別史跡。 城跡は玄界灘を北に望み、遙かに壱岐を見ることのできる景観の地にあり、藩政期には文人墨客が訪れている。

 

城の歴史

天正19年(1591):豊臣秀吉によって築城開始。

 

文禄元年(1592):3月に完成。

 

慶長3年(1598):秀吉亡くなり、廃城となる。城は寺沢広高が城代して管理する。

 

慶長7年(1602):寺沢広高が唐津城の築城を開始、この時に名護屋城を解体してその資材を使用する。

 

寛永14年(1637):島原の乱以後徹底的に破城される。

 

所感

●沢山写真を撮ったのにデータ紛失したのが残念(過去2回行っているのに)

 

●総石垣の城を僅か8か月で築城して、最大時の人口が10万人を超えていた。

 

●破城の箇所も多く見ごたえある。バーチャルで往時の姿が見れる。

 

関連URL

【佐賀県】唐津城【唐津市東城内】

名護屋城の資材を使用した唐津城。

 

参考URL

名護屋城博物館

名護屋城(ウッキペディア)

城郭放浪記(肥前名護屋城)

 

参考文献

『佐賀県の地名』

『日本城郭大系』17

公開日2021/10/10

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