城データ

城名:金鑵城

別名:金釣瓶城

標高:95m

比高:50m

築城年:不明

城主:中村氏、別所氏

場所:兵庫県小野市昭和町小字大谷(現在の夢の森公園内)

北緯:東経:34.878182/134.907070

金鑵城はここ

 

攻城記

 

金鑵城跡
当城は、青野ヶ原台地上の遠望がきく、要害の地を選んで築かれた山城です。

 

ここからは、河合城(かわいじょう)、堀井城(ほりいじょう)、小堀城(こぼりじょう)など室町時代から戦国時代にかけて市内に築かれた中世城郭を見渡すことができます。

 

城主は、播磨を治めていた赤松氏の有力な家臣中村氏とされ、後に三木城の別所氏の持城となっています。

 

台地先端部に「主郭」と「西の郭」があり、その間には幅約20m、深さ9mの堀切が掘られ、木橋がゆいいつの通路となっていました。

 

主郭は、東西50m、南北80mの規模で、周囲には、土塁と呼ばれる土の壁がめぐらされていました。

 

北西部に土塁が途切れるところがあり、城内への入口、虎口と考えられています。

 

そこから城内に入ると礎石建物(建物跡1~3)、倉庫施設、煮炊き施設、集石遺構などがありました。

 

また、北東隅部からのびる尾根の先端部には、見張りのための櫓が設けられていました。

 

城内からは、甕(かめ)、壺、擂鉢などの陶器、茶碗などの磁器、茶臼などの石製品、土錘(どすい)などの漁労具、刀、鞘、笄(こうがい)などの武具類、瓦、釘、壁などの建築資材、硯、水滴など文具類や銅銭などの多様な遺物が出土し、当城が長期間にわたり武士達の生活と防御の場となっていたことがわかります。

 

高台になっており遠くまで見通せる。

城内。

城域は広い。

復元された土塁と柵。

堀切と橋。

土塁から臨む。

中世の感じが出ている。

当時このような門があったかは不明。

こちらは弥生時代を想像して作成した櫓か。

堀切の下の部分。

見上げる。

こちらは弥生時代の遺構。

 

余湖図【金鑵城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【金鑵城】

 

城の概要

金鑵城

金鑵城は小野市昭和町の西北、青野ヶ原台地の東端に所在している。

 

すぐ北側の谷の坂道は新しいものだが、その北の尾根を上る道は有馬と姫路を結ぶ街 あった。

 

「播磨鑑』も姫路から丑寅の方五里としてこの城山を里程に ている。城主は中村氏と伝承されている。

 

中村氏は永享四年(一四三二)にみえる。

 

室町幕府は石清水八幡宮領西河合内 の中村佐渡入道・上月大和守の所帯を没収した。

 

これは中村氏らが社家被官を 殺し、年貢を抑留していたために処置されたものである。

 

中村氏が加西郡内に所領を有したことがわかる。

 

中村氏は、やがて嘉吉の乱(嘉吉元、一四四一)で 没落するが、中村貞友が 赤松氏の旧臣たちと後南朝へ討ち入り、中村駿河守祐友が応仁の乱に活躍し、赤松政則の播磨回復後にはほぼ旧領を安堵されたようである。

 

西河合の清慶寺(加西市九会町) に南帝塚と称する宝篋印塔があるが、これは祐友が討死した父と二皇子の 菩提を弔う供養のために 建立したものであろう。

 

祐友は赤松政則の有力被官である。

 

文明十六年(一四八四)には浦上則宗らに 写して政明を追放したこともある。

 

赤松氏の年寄衆の中村氏は、この祐友の家系と思われるが、この子孫たちの活躍は史料にみえない。

 

中村氏の一族は多く、阿成(姫路市)にも祐友と同時代に則貞がいて、季近と続き、この中村氏のほうがよく史料に残っている。

 

中村氏は西河合のほかにも当然、東河合(小野市)に所領を有したはずである。

 

『赤松記』の「河井の中村薩摩」は東河合のことである。

 

ただ西河合がよく史 料に出てくる。天文八年(一五三九)に守護赤松政村(晴政)は中村与次郎の西河 合の所領を没収し、これを別府(符)源三郎に与えた。

 

与次郎は薩摩守とほぼ同時期の人であり、同一人物かもしれない。

 

どんな不義の子細があったのか。あ るいは前年に尼子氏が播磨に侵攻した時、これに一味したものか。この西河合 の所領は、この後も長く両氏の間で係争事件となっている。

 

結果は別府氏に安堵された。赤松氏を支える在田氏が別府氏を後援したであろうし、三木の別所 氏も裏で糸を引いていたのかもしれず、中村氏は訴訟に勝てなかった。

 

天文年間(一五三二~五五)の初めに中村氏が別府九郎に攻め滅ぼされたとの伝承は、 この事件に由来するものと考えられる。

 

別府氏との間には戦闘もあったであろう。

 

いずれにしても、最後は別所氏に滅ぼされたのだろう。

 

ちなみに別所加賀守がある年の正月に「金釣瓶」に滞在している。中村氏がいた当時か否かは不 明であるが。

 

金鑵城跡は県の福祉工場の北東にあたり、谷が北から西へ食い込んで、西南 部のみが台地に繋がる。

 

東・南は崖である。『古城境内記』に記すのは、まさ にこの場所である。

 

天険の地ではあるが、特に遺構らしいものは確認できない。

 

「金鑵」は平地の一大字名であったので、居館は麓にあったのであろう。

 

また地元では、この三〇〇m南の所も「城山」とよんでいる。

 

南から入り込んだ谷 によって台地から独立しており、山上の平地には大きな穴がある。

 

一応、どちらも城跡としておこう。いずれも東方の展望が開けており、加古川の沃野を一 望でき、晴れた午後には遠く丹生山もみえる。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

正平11年(1356)播磨守護・赤松氏の被官中村六郎左衛門景長の築城との伝承がある。

 

中村弾正少弼正景の頃には小野市から加西市にかけてを所領地とする勢力になる。

 

嘉吉元年(1441):中村小四郎正満(丹後守)の時、守護である赤松満祐の起こした嘉吉の乱で幕府軍と戦って没落する。『赤松盛衰記』

正満の子助直 (幼名:千菊丸)は家臣の小谷興次により抜け出して河合屋敷の河合義隆(茂隆)に匿われ成長する。

 

長禄2年(1458) :吉野の後南朝(後亀山天皇)に攻め入り神爾の鏡を奪い返し足利将軍義政より、赤松家は再興を許され播磨国と加賀国の領地半分を与えられる。中村小四郎助直は此の功により旧領:河合郷を回復して金鑵城主となる。

 

応仁元年(1467):中村助直の子どもである中村駿河守祐友が応仁の乱に活躍して赤松政則の播磨回復後には 旧領地を安堵される。『応仁記』

 

文明16年(1484):中村駿河守祐友が浦上則宗等に与して赤松政則を追放し、この時・赤松一族の三木城・別所氏を攻める。『赤松氏宿老
連署状案』

 

延徳4年(1492):中村駿河守祐友が赤松政則に随い、近江より京都へ帰陣する。『蔭凉軒日録』

 

天文2年(1533):別所九郎衛門に攻められ落城したとも。

 

天文2年以降: 金鑵城を落とした別府九郎衛門が城に入って以後、主郭部の礎石建物等は何回か大改修が行われたものと考えられる。

 

天文8年(1539)には赤松晴政により中村与次郎の西河合郷所領を取り上げて別府源三郎に与えたが以来、両氏の間に長い訴訟が続くが結局負ける

 

永禄年間(1558-70)には別所源三郎から三木城主別所氏の持城になっていたもよう。

 

天正8年(1580)三木城攻めによる 別所氏の滅亡で金鑵城も廃城となる。

 

城主家系図

詳細は不明あくまでも推測。

 

所感

●現在公園化されており、散策しやすい。

 

●復元土塁や門、橋などもあり中世をイメージできる。

 

●中村氏は別所氏に滅ぼされているので詳細が不明。

 

関連URL

【兵庫県】三木城【三木市上の丸町】

最終的に別所一族の城になる。

 

参考URL

城郭放浪記(播磨金鑵城)

西国の山城(金鑵城)

金鑵城(金釣瓶城・金鑵山城) 

依藤氏の足跡

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/09/19

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