城データ
城名:矢滝城
標高:634m
比高:430m
築城年:享録元年(1528)大内義隆によって築かれたとの伝承がある。
城主:大内氏 祖式氏? 小笠原氏
場所:島根県太田市祖式町大字矢滝
北緯:東経:35.084913/132.416854
攻城記
矢滝城跡
矢滝城は標高634mの矢滝城山の頂上にあります。
戦国時代に石見の銀山の支配権をめぐって激しい争奪戦がありましたが、その争奪戦の拠点のひとつが矢滝城で、遅くとも享禄元年(1528)には築城されていたと思われます。
矢滝城跡の北側には石見銀山から温泉津港に至る銀山街道(温泉津、沖泊)があり、更にその北側には矢筈城が一対となって銀山防衛・交通路掌握の機能を担っていました。
山頂部の北側曲輪郡には枡形をした入口(虎口)竪堀、南側曲輪郡には堀切などが残っています。
城は比高が高いので急峻なところ多い。
景色は良い。
本丸に到着。
NHKの無線施設があったようだ。
二の丸のほうを振り向くが草でよく分からない。
本丸も草だらけ。
三角点があるがこのレべルで草が生えている。
比高も高く整備もままならないのかもしれない。
ただし景色は最高によく、日本海も見渡せる。
前方には山吹城も見える。
山吹城から見た矢滝城。
三の丸付近。
余湖図【矢滝城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
約200mを隔てた南北のピークに郭群を置いている。
北方の主郭部は、戦後アメリカ軍のレーダー基地となり、その後はテレビ塔が建設されたために大きく改変されている。
西向きに開口した桝形虎口状の遺構は、いずれも城道とのつながりが不明瞭である。
南方の郭群は、堀切で守られているが、上面の削平も切岸も主郭部と比較して普請はやや雑である。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
矢滝城跡 大田市祖式町
温泉津西田との境界に位置する矢滝城山(634.2メートル)にあり、東は銀を採囲した仙山と対峙している。
北側の鞍部には銀山と温泉津を結ぶ街道の要衝であった 降路坂があり、祖式は川本(現川本町)方面へ向かう道の分岐点でもあった。
銀山開発の二年後の享緑元年(一五二八) 大内義隆が銀山守備のため築いたという。
天文年間(一五 三三~五五)に小笠原長隆が攻略し銀山を支配することに なったが、永縁元年(一五五八)廃されたという(銀山旧記。 丸山伝起)。
北方には山吹城跡があり、同城の郭から当城 までの尾根上には靴が連続しているといわれる
『島根県の地名』より引用。
矢滝城
矢滝城は、享様元年(一五二八)、石見銀山防備のために大内義興が築城で、峻険な独立丘陵に営まれていた。
天文年間(一五三二~五五)、小笠原長隆によって政略され、長降が銀山を支配したが、当城は永禄元年(一五五八)に 廃城となった。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
●享緑元年(1528): 大内義隆が銀山守備のため築いたという。
【注】
享禄元年(1528年)に尼子経久が大森銀山(石見銀山)を奪取したことで、大内義隆から大森銀山奪回の命を受けた長隆は、享禄4年(1531年)2月に志谷修理大夫と平田加賀守を派遣して邇摩郡湯里の矢滝城を攻略し、4月に大田の高城を攻撃して大森銀山を奪回した。
※小笠原長隆(ウッキペディア)より引用。
この時に大内家臣として矢滝城攻略をしたものと考えられる。
●天文年間(1533~55):小笠原長隆が攻略し銀山を支配する。
●永縁元年(1558):廃城となる。
【注】
永禄元年(1558年)、降露坂の戦いで毛利元就の攻撃を受けて温湯城を攻められる、この時、尼子晴久の援軍を受けたが毛利氏の攻撃はなおも続き、遂に永禄2年(1559年)8月、小早川隆景の仲介を受けて毛利元就に降伏した。
※小笠原長雄(ウッキペディア)より引用。
この時に小笠原氏の手から毛利氏に移ったと思われる。
そのまま廃城か。
矢滝城の城主について
高城というのが祖式町上町にあある。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』によると
概要
主郭を断定することが難しい。
尾根伝いに築かれている矢滝城の出城と言われている。
祖式の集落に向けては郭が点在し、旧小学校のあたりが土居との伝承が伝えられている。
城主は、祖式氏と伝えられる。
とあることから矢滝城が拠点の城であり城主は祖式氏であったと想像できる
祖式氏について
祖式氏は小笠原氏の庶流と称する、小笠原上総助兼長の二男式部少輔堅兼より出るという。
祖式氏の領有地には矢滝城、前矢滝城はある、矢滝城は祖式地区の邇摩郡界にあって、ここを登れば邇摩郡の大半を見おろされる。
祖式氏はここから邇摩郡湯里(温泉津方面)に進出し、湯里の西田地区に前矢滝城を築いている、これによって祖式氏の所領が少なくとも邇摩郡湯里におよんでいたことを知る。
城主家系図
●祖式氏の家系図では初代祖式堅介兼は兼長の次男となっている。
●ただし、小笠原家系図では兼長という人物はいない、その代わり、長隆の次男に長祐がいる。
●よって長隆=兼長の可能性もあるが、確証的なものは無い。
城主石高
祖式次郎右衛門 | 1,693.905 | 総石高 |
(祖式元勝) | 627.027 | 出雲 大原 |
196.803 | 周防 熊毛 | |
870.075 | 石見 邑知 | |
祖式源吉 | 589.293 | 出雲 仁田 |
(祖式長兼) |
所感
●比高が200mあるのできついが、30分弱で到着。
●山頂からの景色は絶景です素晴らしいの一言、山吹城よりもさらに標高が高いので見晴らしはとてもいい。
●地元の方が登山道を整備しているのでとてもいいが、山頂付近は荒れるがままで残念。
●縄張図が分からないほどの荒れよう(本丸がかろうじてわかる程度)
●山吹城も当時大内、尼子、毛利、小笠原の勢力下に入っていたので、一時期小笠原が支配していた時に、庶流として祖式氏が城主となっていたと考えると不思議ではない。
関連URL
近隣の城
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
『萩藩諸家系譜』
『毛利家文書』
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
『石見の山城』
公開日2021/08/14