城データ

城名:鳥取城

別名:久松城、久松山城

標高:263m

比高:240m

築城年:天文14年(1545)

城主:山名誠通,武田高信,山名豊国,吉川経家,宮部継潤,宮部長熙,江戸時代は池田氏

場所:鳥取県鳥取市東町

北緯:東経:35.510229/134.240887

鳥取城はここ

 

 

攻城記

山下の丸

吉川経家がお出迎え。

後ろの山が鳥取城の詰城。

堀も大きい。

近世城郭として立派であり、詰城も存在感がある。

圧倒的な存在感。

豊臣時代の宮部氏が城主をしていた時の石垣か。

積み方も粗くまだ確立していない時期のもの。

ここら辺も古い時代のものだと考えられる。

先に進んでいく。

ここら辺の積み方は綺麗であり、池田時代の石垣だと思われる。

鳥取城で有名な天球丸

天球丸とは天球院(池田長吉姉)から名付けられている。

近世城郭はやはり石垣が素晴らしい。

鏡石もある。

アクセントのある石垣。

算木積みもしっかりしており、長期間の風雪にも耐えている。

鳥取市内も一望できる。

素晴らしい石垣。

中仕切門:大風で倒壊したものを昭和50年に復旧したもの。

敷地には仁風閣がある。

鳥取城の中には登り石垣がある。

登り石垣。

場内には五輪塔があり子孫が墓参りをしている。

 

山上の丸

どんどん登っていく。

中腹からの鳥取市の風景。

麓に行くまでの曲輪。

山上も曲輪がしっかり残っている。

山頂付近に到着。

山の上にこれだけの石垣が積まれていること自体が驚き。

本丸の周囲の石垣も見どころ満載。

本丸には行かずにその麓を降りて周囲を散策する。

謎の穴。

少し降りたところも削平地がある。

隠れた石垣スポット。

こんなところに行く人間もなかなかいない。

瓦の残骸もあり。妄想が広がる。

長年の放置で崩れたものか。

本丸の少し下付近まで戻ってくる。

這い上がっていく。

井戸跡。

天守台付近の石垣。

鳥取砂丘が見える。

天守台付近。

何かの遺構があったものであるがよく分からない。

千代川と湖山池。

反対に向かって行く。

搦手側。

搦手側の曲輪もしっかりしている。

近隣の石垣。

 

鳥取城と桜

 

 

位置関係

余湖図

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

香川図

KAGAWA GALLERYより引用。

当時の状態がはっきり分かる、特に当時千代川は河口が広がっており、丸山城付近まで海岸線があったと想像。

 

城の概要

鳥取市の北東部、標高約263mの独立丘陵「久松山」に位置する。

天文年間に当主であった山名誠通が、但馬からの勢力を防ぐために出城として築いたのが始まりとされている。

山頂には中世期の遺構である山上の丸が残り、山麓には江戸期から幕末まで築かれた、二の丸や三の丸を見ることができる。

『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。


城の歴史

山名誠通時代

久松山(標高二六三m)の山頂に城が築かれたのは、天文十四年二月中旬のことであった。

当時、山名誠通は布施の天神山に拠って、因幡守護職として勢力を振るっていたが、同族の但馬守護職山名祐豊と争い、天文十年七月の岩井口の合戦をはじめとして戦いが続き、争いの絶え間がなかった。

 

そこで、「天神山の城郭は 山上ひきくして平城の如し、敵襲ひ来りても防ぐべき要害なく、下は坦々たる 平地なれば、敵を受けて支ゆべき地利なし」とみて、出城を築いて定番を置き、 敵の来襲に備えることとなり、久松山が最適の地として選ばれた。

 

鳥取城の縄張りは、老臣田原某によってなされたといわれるが、田原氏については家老武田豊前守の家臣で、歴戦の勇士であったということだけしか判明していない。

 

誠通は鳥取城を構築し、繋ぎの諸城をも設けて但馬山名氏に対して十分な備えをしたが、天文十七年、誠通が八上口(八頭郡)に兵を出して天神山城の防禦 が手薄になったおり、但馬山名勢に突如急襲された。

 

誠通は手勢を率いて戦っ たが、ついに討死し、布施の天神山城下は紅蓮の炎に包まれた。

 

誠通を失った 因幡の山名氏の老臣たちは、遺児源七郎・弥次郎の二人を守って但馬の山名氏と和睦し、山名祐豊の弟豊定を布施に迎えて守護代とし、誠通の遺児たちの後見とした。

 

武田氏の反乱と鳥取城

天神山城の出城である鳥取城は家老たちが日を限って輪番で守備に当たって いたが、あまり整備されていない出城であり、誰も好んで任務につくものはな かった。家老の一人の武田豊前守はかねてから好機に乗じて一国の主たらんと 願っていたので定番を願い出た。

 

定番に任ぜられると豊前守は、「近隣の城主、大将と志を通じ、交りを深くし媚をなし、皆我籏下に招き寄せ、或は武具・馬具を送り、書信を通じ」、徐々に勢力を伸ばしていった。

 

「要害を堅固にし、堀をほり、櫓をあげ」て、城郭の整備・充実にも心を砕いた。すなわち、出城と しての鳥取城が、本城の天神山城に敵対するのに充分な城郭としてしだいに整備されていったのである。

 

山麓には水堀をめぐらし、郭には櫓が建てられた。 豊前守の死後、その子高信に至って、天神山城の山名氏への叛意はしだいに明らかとなった。

 

永禄六年(一五六三)、高信は高草郡鴨尾城(鳥取市玉津)に弟の又三郎を配し、巨濃郡の二上山城(岩美郡岩美町岩常)の三上兵庫頭豊範のもとには武田源五郎を送って盟約を結んで、天神山城の山名氏に対した。

 

山名方では中村伊豆守を将とし、徳吉将監・秋里玄蕃允を先陣として、天満繩手から秋里の大星橋 を経て湯所口より鳥取城に攻め込んだ。

 

武田方では城下に押し入られて町木戸を破られてはならじと、山を下りて戦 った。

 

追いつ追われつの激戦が演ぜられたが、伊豆守の手勢は武田方の反撃を破って城郭の一角に攻め入った。しかし、武田方の上の砦からの反撃をうけて 伊豆守は討死した。

 

武田高信の没落と山名豊国の入城

この戦いを契機に、以後も武田・山名両氏の抗争は繰り返されたが、元亀二 年(一五七一)八月、高信が兵を但馬の阿勢井(兵庫県浜坂町)に出して戦った時には敗れて、嫡男又太郎・次男与十郎をはじめとして多くの軍兵を失った。

 

さらに、元亀三年八月、尼子氏の遺臣山中鹿之助(幸盛)は山名豊国を助けて 高信を討とうとした。甑山に陣を張る山中幸盛を攻撃した高信の一隊は、伏兵 に急襲されて大混乱に陥り、そこをすかさず攻撃に転じた幸盛の追撃をようや く振り切って鳥取城へ逃げ帰った。

 

しかし、阿勢井・甑山両度の合戦で兵力は 半減し、城を出て決戦するなど思いもよらない状況となった。 そこで高信は豊国に誓紙を差し出し、みずから鳥取城を開いて鵯尾城に移っ た。

 

山名豊国は天正元年(一五七三)冬、布施の天神山より鳥取の久松山に居城を移し、鳥取城を因幡の本城とした。この頃には、鳥取城の山上の丸一帯も整備され、山下の砦もある程度は整っていたと考えられる。

 

天正年間に入ると毛利氏の勢力が東漸し、山名豊国もその麾下に属することになったが、天正五年十月、羽柴(豊臣)秀吉は姫路城を根拠として毛利氏に相 対することとなった。

 

秀吉は十二月には播磨、翌六年二月には別所長治の三木城を攻略し、同七年六月には伯耆羽裁石城の南条氏を味方とし、毛利氏との決戦の機はしだいに熟してきた。

 

天正八年六月六日、秀吉の第一回鳥取城攻略軍は姫路を発した。まず、若桜城を落として木下重賢を城将として置き、ついで鹿野城を攻めて鳥取城の人質を押さえ、毛利氏の部将を追放して亀井燃矩を城番として置いた。

 

秀吉は山名豊国に対して、「降伏すれば因幡一国を給与しよう」と申し入れ て彼を懐柔しようとした。豊国は同八年九月二十一日、家老たち主戦派の意見を抑えて降伏したが、秀吉は回答の遅延を責め、わずかに法美・邑美(岩美郡西部・鳥取市の一部)の二郡を与えたにとどまった。

 

山名豊国の追放と吉川経家の入城

家老森下道誉・中村春続らは豊国の態度・処置を遺憾として豊国を城から追放し、吉川元春に城番の派遣を請うた。元春は石見(島根県)福光城主吉川経安の嫡男経家を鳥取城督に任じた。

 

秀吉はやがて第二回の鳥取攻めの起こることを予想して、商船数隻を若狭 (福井県)より因幡に回航し、穀物を数倍の高い値段で買い占めさせ、一部を鹿野城に貯え、他は持ち帰らせた。

 

一方、経家は天正九年二月二十六日、福光城を発って海路賀露に着き三月十八日に鳥取城に入った。そして、本丸・二の丸・三の丸をはじめ城内をくまなく巡視したのち、千代川の河口と本城との間に丸山城を構築し、山県左京進・ 奈佐日本助・佐々木三郎左衛門・境与三右衛門らを屯営させ、さらに鳥取城と 丸山城との間の要衝である雁金城には塩冶周防を駐在させた。

 

鳥取城の戦い

天正九年六月二十五日、二万の大軍を率いて姫路を出発し、 七月二日には鳥取城を完全に包囲した。秀吉は帝釈山に本陣を定め、軍を三つに分けた。右翼軍は円護寺の山頂より浜坂道場山に至る峰々に布陣し、左翼軍は本陣 山より芳心寺に至る稜線上に布陣し、さらに平地軍は袋川の河岸に沿って布陣して、鳥取城・雁金城・丸山城を囲んだ。

 

その陣容は次のごとくであった。

右翼軍―羽柴秀長・山修理・垣屋播磨守・垣屋隐守・高野駿河守·青木勘兵衛

左翼軍―仙石久寿・堀尾茂助·羽柴藤五郎

平地审―木下助兵衛・少阿弥・中村弥平次・山名豊国・荒木平太夫・神子田 半右衛門・蜂須賀正勝小寺老高・木村隼人・加藤作内・杉原家 次・浅野長政・吉川平助

 

一方、鳥取城では本丸に経家が陣を設け、二の丸・三の丸は森下道誉・中村春続が守り、西北の雁金城には塩冶周防、その北方丸山城には吉川元春の家人 山県九左衛門を主将として奈佐日本助・佐々木三郎左衛門らが籠り、賀露の沖 には軍船を配して海路よりする毛利勢の糧食の補給や援軍に備えた。

 

しかし、秀吉の布いた鉄壁の包囲陣は毛利勢を寄せつけず、包囲網は日を追って狭められていった。

 

城内には兵一千五百の約二か月分の兵糧しかなかった のに兵四千が籠ったため、日が経つにつれて城中では兵糧が欠乏し、山中をさまよって果実や草木皮まで食い尽くし、ついに「人を服す」という有様であっ た。

 

経家はこの有様を見るにしのびず秀吉の勧告に応じて開城を約し、同九年 十月二十五日久松山山麓の真教寺で切腹した。

 

かくて、天正九年十月二十五日鳥取城は落城したのである。この戦いに功労 のあった諸将は次のごとく恩賞を受けた。

宮部善祥坊継潤  五万石   鳥取城

亀井新十郎茲矩  一万三千石 鹿野城

木下備中守重野  二万石   鬼ケ城(若桜)

垣屋播磨守    一万石   桐山城(浦富)

 

豊臣政権下の鳥取城

新たに鳥取城に入った宮部継潤は戦後の城地を整え、西坂の松の丸にあった 城主の居館を二の丸(現在の右膳丸付近)に移し、これを中心に山麓の城郭を整 備したが、東南部は現在の鳥取西高等学校の正門あたりまでにわたった。

 

ここでいう二の丸とは現在いう二の丸ではなく、博物館の上付近を指している。

 

関ケ原以降の鳥取城

ついで慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で宮部氏は西軍に属したため城地・ 領地を没収され、代わって池田備中守長吉(輝政の弟)が六万石を領して鳥取城に移ってきた。

 

長吉は城地が狭隘なため修築を計画し、堀氏を普請奉行に命じたが、家老山本伊予・武藤掃部らは率先して普請の指導にあたり、同七年から 四年がかりで大改築を実施し、現在みるような城郭が完成した。

 

元和三年(一六一七)三月には池田光政が鳥取城主に封ぜられ、長吉の子池田備中守長幸(父子在城十七年間)は備中松山へ移封となり、それに伴って亀井豊前茲矩は石見津和野へ、山崎甲斐守家治も備中成輪へとそれぞれ国替となっ た。

 

光政は因幡・伯者両国三十二万石の太守として適当な城地を各地に求めたが、 最終的には鳥取城を拡張し、城下町を再編することになった。現在の市街地はこの時にその原型が形成されたのである。

『日本城郭大系14』より引用

 

城主家系図

山名家

 

 

青が因幡山名氏、赤が但馬山名氏。

 

武田氏

吉川氏

吉川元春と吉川経家の関係図

 

 

所感

●近世城郭の山下の丸と中世城郭の雰囲気も少しある山上の丸、特に山上の丸からの景色は絶景。

●宮部時代の石垣は要チェック。

●珍しい登り石垣もあるので確認必要。

●当時の道で山上の丸に行くルートもあるらしい。

 

 

関連URL

【鳥取県】布勢天神山城【鳥取市湖山町南町】

山名誠通が居城としていた布施天神山城。

【鳥取県】甑山城【鳥取市国府町町屋】

武田高信が敗走した甑山城。

【鳥取県】太閤ヶ平陣【鳥取市帝釈山】

鳥取城攻防戦にて羽柴秀吉が陣取った太閤ヶ平陣。

【鳥取県】雁金城【鳥取市湯所町】

 

【鳥取県】丸山城【鳥取市丸山町】

鳥取城へ兵糧を送るために重要な城であった雁金城と丸山城。

 

参考URL

鳥取城(ウッキペディア)

城郭放浪記(因幡鳥取城)

山名誠通

武田高信

山名豊国

吉川経家

宮部継潤

池田長吉

 

参考文献

『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』

『日本城郭大系14』

『新修鳥取市史 第一巻 古代・中世編』

『鳥取県の地名』

『因伯の戦国城郭 通史編』 高橋正弘著

公開日2021/04/04

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