城データ

城名:小田原城

標高:34m

比高:34m

築城年:14世紀末

城主:土肥一族小早川氏が最初に築城、大森氏、北条氏

場所:神奈川県小田原市城内

北緯東経:35.251027/139.153434

小田原城はここ

 

 

攻城記

お堀からゆっくり攻城。

整然とした石垣。

城内に入っていく。

立派な門とその向こうに見える天守閣。

鉄砲狭間や弓矢狭間。

城内に進んで行く。

迫力のある門。

ここからも天守閣が見える。

切込はぎの石垣。

立派な門、そしてしっかりした石垣。

天守閣に到着。

見る角度によって様々な雰囲気が出る。

これも。

これも。

正面。

江戸時代の小田原城。

そのまま下っていく。

裏の小田原城。

このような場所もある。

最後に堀まで来て終わり。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)



城の概要

現小田原市城内・城山を中心に、外郭は東は山王川右 岸、西は早川左岸に広がる。

 

伝承では土肥氏一族の小早 川氏の取立てという。

 

大森氏・小田原北条氏・小田原藩 主歴代の居城。

 

(戦国時代)「鎌倉大草紙」は、上杉禅秀の乱没収地とし て応永二四年(一四一七)に小田原の土肥土屋の跡に大森頼顕が入り、康正二年(一四五六)に大森安楽斎入道父子が小 田原城を取立てたとするが、「北条記」には大森氏頼が取 立てたとみえ、室町中頃には大森氏の居城となっていた と思われる。

 

明応四年(一四九五)北条早雲が大森氏を追 い、以後天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めで開 城するまで北条氏の居城であった。

 

大森氏後期から北条氏の初期には八幡山丘陵を核とす る古郭が形成され、その周囲にいくつもの曲輪を同心円 状に配置し、西端は堀切で画され、東は現在の天守閣北 側の城米曲輪付近に空堀が設けられたと考えられる。

 

北 の空期は一部が昭和五一年(一九七六)に発掘調査され、静岡県三島市の山中城跡と同様の構造をもつ畝堀であった。

 

やがて丘陵先端から低地に拡張され、平山城としての諸 曲輪を構築し、空堀と池沼を利用した水濠がめぐらされ、 後に八幡山の空堀と低地の水濠が接続され二つの郭心部 が連結された。

 

この後さらに山地は天神山丘陵から小峯お鐘の台に、低地は近世の三ノ丸区域にまで拡大し、水濠がつくられた。

 

天文二〇年(一五五一)京都南禅寺の東嶺 智旺は「明叔録」で「太守の塁は喬木森々として高館巨 麗なり、三方に大池あり、池水は湛々として浅深はかる べからず、白鳥そのほかの水鳥翼々然たり」と城の威容 を伝えている。

 

北条氏の末期には「北条五代記」によれば、東西五〇 町、南北七〇町、周囲五里の空堀と土塁に囲まれた大外 郭が形成された。山地は小峯お鐘の台、天神山南支脈、 北は谷津山を取入れ、低地は海岸砂丘や早川沿いの崖線、 東は山王川右岸に至る総延長一〇キロに及ぶ壮大なもの であった。

 

城の歴史

応永24年(1417):大森頼顕が入城。

明応4年(1495):北条早雲が大森氏を追い出す。

永禄4年(1561):上杉謙信が侵攻してくるが撃退。

永禄11年(1568):武田信玄が侵攻してくるが撃退。

永禄12年(1569):三の丸大普請。

天正18年(1590):豊臣秀吉が侵攻して落城。

明治3年(1870):廃城となる。

 

所感

●さすが天下の大城である小田原城、現在の城は江戸時代の改修だと思われるが威風堂々をしており威厳がある。

●天守閣の形が見る角度によって様々に変化しており興味深い。

●門もしっかりとあり、大きな石垣に大きな門がその雰囲気に馴染んでいる。

●余りにも有名な城なので観光客も多いため画像を収めるのに一苦労。

●裏側には崩れた石垣もあるが、このような場所も個人的には好き。

 

関連URL

【神奈川県】石垣山城【小田原市早川】

豊臣秀吉が小田原城攻めの時に築いた石垣山城。

 

参考URL

小田原城(公式)

小田原城(ウィキペディア)

城郭放浪記(相模小田原城)

北条氏(ウィキペディア)

武家家伝(北条氏)

武家家伝(大森氏)

 

参考文献

『神奈川県の地名』

『日本城郭大系6』

公開日2021/02/23

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