城データ

城名:尾首城

別名:奥尾城。矢張城

標高:45m

比高:20m

築城年:不明であるが嘉吉元年(1441)頃には記録がある。

城主:沖小栗

場所:広島県江田島市沖美町三吉

北緯東経:34.249104/132.405452

尾首城はここ

 

攻城記

民家の横道を上がっていくと平削地がある。

ここも曲輪跡か。

尾首城の矢竹。

そのまま上がると民家があり、そこを横切ると上に登っていく道がある。

登りきった場所にも平削地がある。

現在は果樹園になっているが、ここも曲輪跡と考えられる。

果樹園からみた風景。

果樹園から更に目の前の山を登る、因みに登り口は無いので直登する。

本丸後には墓所があるが、このように荒れるに任せている。

かなり大きな墓であり、尚且つ新しい墓であったが、誰も参ってはいない。

古い石造物もある。

とにかく藪化が酷く全体感は掴みにくい。

 

open-hinataより【尾首城】

 

余湖図【尾首城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

城跡は墓所や果樹園となっているため,その全容を把握できない。

 

最高所の1郭は17m×13mの規模で,北下に2郭(12m×10m)東下に3郭(50m×4M)が取り囲む。

 

その北側にある西から東に延びる舌状の尾根も城域としているようで,宅地と成っている。

 

1郭西下に五輪塔一基がある。

 

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

尾首城は能美島の西端近く、江田島湾の入口である津久茂瀬戸のすぐ西に、 南方に深く入った入江を形作っていたと思われる所の東の丘にある。

 

現在この地は、狭い谷間をなしているが、中世は入江となっていて、島に拠点を置く豪族には格好の船溜りを提供していたものと思われる。

 

江の口を出るとすぐ広島 湾頭であり、警固衆にとっては最良の場所にあったといえる。

 

この城について『芸藩通志』は「沖小栗所」とのみ伝え、城主がいかなる 人物であるかはわからない。

 

地元の伝承によると、沖小栗は籠城のあと捕らえられ、城の東方で新首されたといい、その暮という五輪塔が残っている。

 

この籠城事件は、能美氏が能美島全域へ勢力を伸ばした南北朝期のことであろうか。

 

それとも、毛利元就が広島湾周辺の隊方の勢力一特に乗り出した天文二十三年 (一五五三)のことであろうか。

 

いずれにしろ、古市の地名を伝えていることか ら考えて、「市」を経営するかなりの勢力が拠っていたことは考えられる。

 

城 の周辺を城ケ原ともいう。

 

現在、城はほぼ旧状をとどめており、城の南麓の石垣は、古い積み方であり、ゆかりのものであろうか。

 

郭四段も小規模ながらよく残っているが、一 墓地として使用されている。

 

『日本城郭大系13』より引用。

 

城の歴史

南北朝時代の能美島と薬草の縁について次のような記録もある。

 

即ち、嘉吉元年(一四四一)萬里小路家が能美荘別符方からの年貢未納につき催促した。

 

その結果、預り所職の厳島社神主 親藤は、配下の奉行職・沖小栗を請負代官として、沖美町三吉(三高)の尾首城(奥尾城・矢張城とも)に派遣した「建内記」

 

これが縁で、厳島参拝者に配る薬草植えが一時、能美島で見られたという。

 

1441年当時の萬里小路は万里小路時房である、

 

また厳島神主は藤原親藤(?~1444)である。

 

武家家伝_厳島神主家

 

「能美島志(宝暦13年:1763年)」には、「奥尾の城、三吉邑にあり。土老いう、沖小栗某築く所なりと、平清盛厳島社を造営するの日、沖氏これが奉行職となると、未だその然否を知らず。」とある。

 

所感

●麓に尾首城の石碑があり簡単にいけると思ったが、登城口が分からずにウロウロした。

 

●民家の隣(家に人は住んでいない)を横切り上に登っていく坂道をあがればすぐに果樹園につく。

 

●果樹園の上部に本丸があるが、現在は登城口ないのでそのまま直登。

 

●まさか本丸に立派な墓があるとは思わなかった。

 

●子孫が墓参りはして以内状態。

 

●付近の五輪塔があるとのことだったか発見出来ず。

 

参考文献

『能美町誌』

『大柿町史』

『日本城郭大系13』

公開日2021/01/14

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