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はじめに

自分の家の言い伝えで「先祖は武士であった」と聞いたことはありませんか?

 

江戸時代の武士の人口は約7%と言われています。

 

当時の人口が2500万~3000万くらいですので、175万~210万という数の武士が当時いたことになります。

 

武士と行っても様々です、大名や家老クラスから何人扶持と言われる半農藩士のような武士までいます。

 

また武士の家臣で陪臣と呼ばれる者もいます、それらを含めての数だと思われます。

 

さて、自分の家が武士の場合の調査方法ですが、まずは、両親、祖父母、叔父叔母に確認をしてみましょう。

 

基本的には●●藩の武士であった、●●氏に仕えていた。などのエピソードの1つや2つはあると思われます。

 

その後、戸籍を遡っていくと、本籍地が城下町付近にあると思われます。

 

伝承から探る

ここで本籍地が江戸時代には●●村だったとなると、伝承が少し変えられているかもしれません。

 

①本当に武士であったが、村に住んでいた。

 

②郷士と呼ばれる家であった。

 

③村の下役人で庄屋や肝煎だったが、いつの間にか武士と伝わった。

 

④江戸時代は農民階級であったが、戦国時代に国衆や国衆の家臣であった家。

 

調べて城下町であればその信憑性が上がってきます。

 

また、菩提寺があれば、そこでの確認をしてみましょう、戒名も江戸時代では庶民ではつけられない院号や居士がつけられていると思われます。

 

しかし、これも絶対的なことではありません、信士や信女の戒名の場合もあります、あくまでも参考程度で院号や居士がつけられていたという認識にしましょう。

 

ただし、逆に江戸時代に院号や居士の場合は確実に武士階級だとも判断出来ます。

 

まずは基本的な情報をある程度入手してから次の行動に移っていきます。

 

次の行動

次ぎの段階として、所属していた藩の分限帳というものを確認します、存在しているか?いないか?は図書館や文書館、若しくは教育委員会などに確認すると分かります。

 

また、郷土史家がその存在を知っている事もありますので、教育委員会などに紹介してもらうのも一考です。

 

専門で研究している大学教授なども知っている可能性があります。

 

分限帳が見つかれば、かなり詳しく判明すると思われます、もし分限帳が存在していない場合は、セオリー通りに位牌、お墓、過去帳の調査になってくると思われます。

 

また、分限帳だけでなく、当時の絵図なども文書館などに残っている場合もあるかもしれません。

 

町史などやその他の出版物などで、先祖の住んでいた地図が発行されていることもよくあります。

 

草書で記載している場合もありますので分りにくいかもしれませんが丁寧に確認していけば、先祖のいた場所の特定もできるかもしれません。

 

武士の場合でも旧土地台帳を確認すれば明治の中期あたりまではその場所に住んでいるかもしれません。

 

念のため、旧土地台帳の確認も実行することをお勧めします。

旧土地台帳から得られる情報

 

 

武士の場合は開発されており、現在の場所はビルのど真ん中になっていますので、往時を偲ぶものは残っていないことが多いです。

 

また、明治維新の時の改名で江戸時代の分限帳の名前と明治の戸籍の名前が一致しないというケースもあるようです。

 

これが先祖探しで武士の先祖を遡る時の障壁になっているケースが散見されます。

 

更に藩の転封もあり、江戸時代ずっとその場所にいない藩もあります。

 

関ヶ原以降仕えている家もあれば江戸時代の途中から仕官している家もあります、武士といっても様々な家がありますので、農民の家々で調査方法が違うように、武士の家もそれぞれ違う方法があることを念頭において調査した方が良いでしょう。

 

 

武士の家の場合は庶民と違って家系図や由来書などが保存されているケースもあります。

 

家でそのようなもの見たこと無いと言う場合は両親や親戚に確認を必ずします、ひょっとしたら、父親や祖父が「自分が小さい頃に本家の家で見たことがある」という話が出てくるかもしれません。

 

武士と言われても、当然明治時代以降も分家があると思われますので、本家の家には家系図があるが、分家の家には無いという事は往々にしてあります。

 

武士の家と呼ばれる家の場合は、分限帳が活字化されていたり、専門に調査している方がいる可能性が農民よりも高いですので、細かく調査していけば大きな発見が出来るかもしれません。

 

調査しても出てこない場合

あと、先祖だったという話しで調査したが、全く出てこない場合もあります、この場合は武士の家臣で「陪臣」と呼ばれるものだった可能性もあります。

 

大身の身分であれば500石から1000石位の知行を貰っていたかもしれません、そうなると、自分自身に家臣が必要になってきます。

 

お殿様からすれば家臣の家臣になりますので分限帳には記載されません、しかしこの陪臣が長い年月の中で直参の武士というように伝わった可能性もあります。

 

更に、武士といっても、実は500年前の話で戦国時代の小豪族が戦に敗れて帰農したものを、話しに尾ひれがつき、結果的に武士という伝承で伝わったこともあります。

 

言い換えれば、戦国時代以前まで遡れば殆どの家が国衆や小豪族の血が流れていると考えます。

 

後、農民の時も同じですが、仮に武士ということが分かれば、実際にその場所に行き現地を調査、散策は必ずやるべきです。

 

住んでいたところが分かれば、そこからお城までの道のりを実際に歩いてみる。

 

当時の城域と現在は全くちがいます、当時は堀でも今は道になっていたりします、昔の古地図を入手したら現在の地図と見比べて堀を避けつつ城に行く。

大きな発見があるというよりも、肌感覚で先祖を偲ぶことが出来ることがいいと思います。

 

ネットで分かる場合もあります。

広島城下大絵図

 

 

【まとめ】

●まずは親族に確認して情報を入手する。

 

●戸籍の本籍地が城下町であるかを確認。

 

●分限帳が無いかを調べてみる。

 

●調べても出てこない場合は陪臣の可能性もある。

 

●実際に当時の城下町を歩くのも良い。

 

公開日2019/06/19

更新日2021/07/18

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